彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

6月3日、黒船来航

2008年06月03日 | 何の日?
最近、調子に乗って戦国史を書く事が多かったですが『井伊直弼と開国150年祭』開幕記念式典前日ですから、開国に関わる話を書きましょう。


嘉永6年6月3日(グレゴリオ暦1853年7月8日)、アメリカのフェルモア大統領の親書を携えたペリー提督が4隻の艦隊で浦賀沖に来航します。

黒船来航の時にアメリカとロシアが先を争って日本を開国に導こうとしていました。
このアメリカとロシア両国に日本遠征を進言したのはドイツ人のシーボルトでした。
シーボルト事件で日本国内から追放されたシーボルトですが、当時は世界一の日本通だった為にアメリカでもロシアでもその知識を尊重されていたのです。
ロシアでは日本遠征計画を立案したシーボルトに対しロシア人以外では初のウラジミール大勲章を贈られているほどでした。しかし、両国とも外国人であるシーボルトを遠征隊の一員にする事を良く思わなかったようで、遠征の人員には加えられていません。
またシーボルトの行動からアメリカの日本遠征は早くからヨーロッパ諸国の噂になっていて、黒船来航の1年前には、艦隊の数や江戸湾を目的地にする事も記された報告書がオランダ政府から幕府に送られていたのです。
オランダから来た親書に対して幕府の反応はとても鈍いものでした。
当時は12代将軍・徳川家慶が政治の殆どを筆頭老中・阿部正弘に任せていて、阿部はこの親書が届いた時に幕閣を召集して対策を練ろうとします。
この時の他の老中達の第一声は「西洋人達の申す事など信用できない、ここは本気で聞くべきではないのではないか」だったそうです。
これには呆れて物も言えなかった阿部は幕閣を信用しないで外様大名と手を組む事を考え付いて実行するのです。
しかし、少数派の大名達ではどうする事もできずに何事もなかったかの様に無駄に時間を過ごしてしまい4月19日にペリーは琉球に上陸したのでした。
ペリーは当初、琉球を武力制圧して日本進出の中継基地にする予定だでしたが、首里城で盛大な歓待を受けた、また琉球の平和的文化値の高さとヨーロッパでも見る事のできない高度な敷石技術を目の当たりにして武力制圧を取り下げて補給拠点の一つにする事になりました。
こうして準備を整えた一行は江戸湾に向けて出港するのです。

徳川家康が江戸幕府を開幕してきっかり250年経過した嘉永6年6月3日、江戸に近い浦賀湾に四隻の黒い西洋船の艦隊が錨を降ろしました。
その内二隻はモウモウと煙を吐く蒸気船で、旗艦・サスケハナ号にペリーが乗船していたのです。
この艦隊の姿を見た浦賀近辺の庶民はパニックに陥り、その噂は江戸にも広がって江戸城内から江戸庶民までが今にも戦争が起りそうな流言に怯えて我先にと荷物を纏め逃げ出して、大混乱になる…

なんて事は実際にはありません。
アメリカやイギリスの船はこれ以前にも何度も江戸湾近くまで来る事があり、はっきり言って今更驚く事は何一つ無かったくらいです。
この日は蒸気船が初めて江戸の近くまで来航したのでその事を珍しがったくらいだったのだ。
そして、この蒸気船初お目見えというイベントが日本国民でなくペリーを驚かせる事態になる事になっ他のでした。

黒船がやって来た…
この報を受けて浦賀港は大騒ぎになった。
民衆が初お目見えの黒船(蒸気船)見物のために小船に乗って大勢押しかけ、サスケハナ号の周りにも多くの小船でごった返した。
中には芸者などを従えた楽隠居も居て、ドンチャン騒ぎを始めた者も居たそうです。
他の国では見かけなかった庶民の行動にペリーの驚きは大変なものだったと言われています。
実は、黒船来航の一年前にリンデンベルク率いるロシア船が下田に来航した事があったのですが、この時の下田付近の庶民は老若男女問わず次々にロシア船の甲板に勝手に上がり込んで、あっちこっちを見て周り、身振り手振りで船員達と会話を行い、ついには船室にまで入り込んだとか。
そして、「役人が来た!」の一言で潮が引く様に全員が帰って行ったのでした。
日本人の好奇心の強さ(野次馬根性?)は今も昔も変わる事が無い国民性だと言えなくも無いですね~。
何がともあれ、日本人の好奇心(今回は甲板には上がってこなかった…)の洗礼を受けたペリーの下に浦賀奉行の使者がやってくるのです。

民衆とは反対に、浦賀奉行・戸田氏栄は困惑の極みにありました。
黒船来航時にパニックを起こした場所はこの浦賀奉行所だけだったと言っても過言ではないかも知れません。
約1年前にオランダからの親書が届いた噂を耳にした戸田は、すぐに幕閣に真相を確かめます。
すると幕閣からは「根も葉もない噂」との叱りを受けてしまい、結局は外国船受け入れ対応の準備が全く出来ていないからでした。
一番重要であるはずの現場責任者は何も知らないまま右往左往して江戸と浦賀を行き来する事となった。
やがて、奉行所の役人が黒船に向う事となり、役人を見た民衆は岸に上がって様子を見物する事になったのです。
与力・中島三郎助が率いる役人の乗った小船がサスケハナ号に進むと、同船から一発の爆音が木霊して役人達は大騒ぎになるのです。
他国に入る時は空砲を撃つと言う習慣に託けてペリーが日本の役人をからかった行為でした。
サセケハナ号の真近に来た小船から「I can speak Hollands!」(私はオランダ語を話す事が出来る)という声が聞こえた。
これが公式記録に残る日本側の第一声になるのです。

当時の国際法では訪問船に何名の使者を乗船させるかは迎えた方に人数の決定権がありました。
その時に船上で接待を受けたならば、次は上陸を許可して歓迎するのがしきたりだったが、ペリーはサスケハナ号へ乗船できる役人を3名以内とします。
これは以前に日本に赴いたアメリカ船が国際法に従って日本人を接待したのにその後の上陸が許されなかった過去をぺりーが知っていての事で、高圧的な態度に出る事で役人を脅えさす作戦だったのです。
結局、与力・中島三郎助と通訳・堀達之助のみが乗船を許されたが、ペリー本人とは面会が許されず、副官のコンチ大尉が「あなた達の様な下級役人とは話が出来ない、ペリー提督は貴国と友好を結ぶために、アメリカ大統領の親書を携えて来ているのだから、最高権力者を連れてきなさい。もし親書の受け取りを拒むならば信義が無いとみなして江戸を砲撃する。」と言って2名を追い返したのです。
こうして役人達は肩を落として陸に戻ったのですが、空砲に驚き使者の勤めも果たせなかった役人の姿を岸で見ていた民衆達は幕府の頼り無さをはっきりと知る事になったのです。

6月4日、前日アメリカ側の意向を受けて浦賀奉行の香山栄左衛門(幕閣は大老以外は複数制だったので、同役が何名かいる)がサスケハナ号に乗船。
この日もペリーは顔を出さず、コンチ大尉との交渉になったが、アメリカ側の主張は「親書受取の件を三日以内に正式な返答を頂きたい、さもなくば武力上陸して将軍に親書を渡す」の一点張り。
そして、この時コンチは「もしもの時に必要になるから…」と香山に一枚の白旗を手渡している…
国際法で定められた“降伏”の合図旗―
ペリーはこの白旗を渡し、その意味を教える事で日本政府を恐喝したのです(ただしこの話は作り話だと言う説もあります)。

この白旗作戦はペリーがアメリカを出発する前から考えていたものでしたが、フェルモア大統領に大反対されています。また、受け取った日本側でもこの件の報告を受けた将軍・家慶があまりの衝撃に奇声を上げて倒れてしまい6月22日に没した事から将軍家の面子の失墜になってしまったのでした。
こうして日米両国ともに都合の悪い出来事だった為に公式記録から抹消されてしまい、最近になってやっとその事実が発覚したのです。
降伏旗を受け取った翌日(幕府にしては異例の速さ)、ペリーに面会を求める使者をサスケハナ号に派遣したが、その日が日曜日だったという理由で乗船を拒否されてしまいます。

その翌々日(6月7日)よりサスケハナ号で香山栄左衛門とコンチとの会談が開始。
香山は長崎で会談を行うのが日本の国法だと主張したが、コンチは浦賀での会談を希望。
このままでは話が平行線を辿ってしまうので日本側がコンチの意志を尊重する形で浦賀に近い久里浜で親書を受け取る事を承認したのです(この時には久里浜で受け取りの場所作りが行われていて、長崎行きの主張は一応の建前)。
ただし、久里浜では幕府はペリーから親書を受け取るだけでお互いに一切口を開かない“会見”しか行わないとの意向が日本側から出されたのでした。
一言でも言葉を交したならそれは“会談”になってしまうので、会談を望むなら長崎に向かう様に要求したのだった。
コンチはこの条件を呑むしかなかった。その代わりとして、親書は複製しか渡さない事を提案したが、そうすると会見を何度も行う事になるので香山から拒否されている。
結局、親書を受け取る人物が幕府の高官だという証明書をペリーに提出する事で親書の本物を日本側に渡す事になったのです。
この日の会談でもペリーは表には出てこなかったのですが、コンチに指示を与えていたのは確かだった。
後世の印象ではこの会談で香山がペリーの言うままになってしまった様に見えてしまうのですが、実は日本側の主張が殆ど承認された会談だったのです。
証明書の提出を要求する事だけが唯一ペリーができた抵抗だった。
こうして、証明書を準備するために香山はサスケハナ号を離れ、この日の会談は終了。

6月8日、香山が持ってきた証明書はありがたみも何も無い物でした、将軍のモノと思える大きな押印があったのでコンチはそれを認めるしかなかった。
結局この時将軍に委任された高官は浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道。
さて、証明書を渡す事で会談を終えた香山はそれまでの厳しい表情とうって変わってコンチと笑談を始めました。
好奇心旺盛な日本人の一人である香山の質問は、まずはサセケハナ号が太平洋経由で来たのか大西洋からアフリカ・アジアを経由して来たのかを質問。
現在の感覚では黒船は太平洋を真っ直ぐ来た様に思えますが、実は大西洋から地球を一周しています。
この答えに感心した香山は「今、工事中のパナマ運河が出来たら楽になりますね」と言ったとか、しかも、アメリカの大統領がフェルモアだという事も正確に知っていた。
これはオランダから入ってくる情報を全て使用したフェイントでしたが、この話を影で聞いていたペリーは日本人の情報力に少なからず動揺したと記録されています。

6月9日江戸幕府は200年以上続いた鎖国政策を破ってペリー一行の上陸を迎える事になったのです。
この時に久里浜に上陸したアメリカ人は300人程であったのに対して、迎えた幕府役人は少なくとも5000人以上だったとペリーの記録に残っている。
ペリーが日本人の前に姿を現したのはこの時が初めて。
会見の方は、ペリーから浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道に対して、フェルモア大統領の親書とペリーの信任状及びそれらのオランダ語と中国語の訳文が無言で手渡された。
こうして、5300人以上の人間が集まった会見は20分位で終了。
その後、サセケハナ号に戻ったペリー一行は中々帰る気配を見せずに江戸湾を測量したり、船を江戸湾の奥まで進めようとして役人をからかってみせたりしています(子どもだなぁ)。
この時の役人の狼狽ぶりが有名な川柳になっている。
“太平の 眠りを覚ます 正喜撰
たった四杯で 夜も眠れず”

さて、アメリカ大統領の親書を受け取った幕府は、これを将軍に報告するために日本語訳の作業を行ないます。
この時、江戸城内蛮書取調室(外国書専門機関)で大きな問題が発生します。“President”をどう訳すか?という事でした。
今まで便宜上使っていましたが、実は“大統領”という言葉は親書受け取り時点ではまだ生まれていなかったのです、この時に一番最初に候補に上がった日本語訳は“国王”でした。
しかし、林大学頭は「フェルモアは町人の出身であり、王号で呼ぶのは間違っている」と異議を唱えて別の訳語を考える事になったのです。
この頃の世界情勢では王も皇帝も存在しない国家というのは常識外のもの、しかしそれが存在する以上は「町人で最高位」の呼び方を探すしかなかったのです。
ここで候補になったのが“親方”“元締”“酋長”“親分”“大将”“頭”等だった。
どれが候補になっても面白かったんですが、結局は“大工の棟梁”が採用され、略して“大棟梁”になり、字を変えて“大統領”という言葉が作り上げられたのでした。
嘘のような本当の話で出来上がった“大統領”という日本語ですが、この後西洋文化の大量輸入と共に新しい日本語が沢山作られるようになる(例えば“自由”“著作権”も福沢諭吉の造語)。

そんな紆余曲折を経て出来上がった日本語訳を将軍・家慶が見る事はなかったのです。
6月22日、白旗事件のショックが癒えないままに家慶は他界してしまう。
享年61歳。
本来ならこの後1年間のもに服すのが幕府の慣例になっていますが、翌年の黒船再来航の宣言を受けている以上はそんな事も言えず、簡単な儀式の後に将軍の座は後継ぎの家定に譲られる事となったのでした。
しかし、家定は少し知恵が遅れた人物でだったと言われているのです。
大河ドラマ『篤姫』では新たな解釈がされていて面白いですが、今のところ歴史的には暗愚となっています、そうではない家定を描いた小説に星亮一さんの『井伊直弼』がありますが、なかなか手に入りませんので偶然にでも入手された方はぜひ読んでみてくださいね。

6月2日、本能寺の変

2008年06月02日 | 何の日?
天正10(1582)年6月2日、織田信長が重臣・明智光秀に宿所を襲われて自害します。

光秀は5月27日に愛宕山に参篭して三度お御籤を引いたと言われているが、何が出たかは(当たり前だが)本人しか分からない。
そして翌28日有名な『百韻の連歌会』が行われる…
“時は今 あめが下しる 五月哉”
はこの時の発句です。

5月29日、鉄砲や長持ちなど百荷を西国に向けて発送。
6月1日午後4時、森蘭丸の伝令で京に行く事が物頭に伝えられる。
午後6時、重臣五人と談合して誓詞と人質を取ったと『信長公記』は記していますが、実際は無かったと『川角太閤記』が書いています。本来なら小説風の『川角太閤記』の方が信用されないのですが、この件については事件の当事者から話を聞いているので、川角説を採用する人が多いのです。
午後9時、亀山城出発
午後10時、老ノ坂頂上到着ここで全兵に京入りが伝えられたのがあの有名な「敵は本能寺にあり」という言葉で後世に伝えられたそうです。
6月2日午前4時、本能寺周辺に明智兵1万3千が到着し包囲網を作る。
6時、戦闘が始まる。
この時信長はまず洗顔を済ませた所を近くの南蛮寺の宣教師が目撃している。
防衛側の兵力は100名未満で諸説あるが、少数だったのは間違いありません。信長は弓で応戦し弓の弦が切れると十文字の鎌槍で戦ったが、肘に槍を受けて負傷「是非もなし」の言葉と共に奥に入り女性達を避難させた後に切腹して果てたと『信長公記』とフロイスの『日本史』は伝えています。
この後『信長公記』には記されて居ないのですが宣教師の集めた記録に「是非もなし」と言った信長が女性たちを逃がす時にそんな女性に向かって「この死は、私自らが招いたモノである」と言って自らの人差し指を唇に当てた・・・と残っています。

その前後辺りに寺に火が付き、地下の火薬庫に引火、轟音と共に寺は燃え落ちた事が最近になって判ったのです。
信長の遺体は発見されなかった…


ここに面白い記述があります。
『笹舎漫筆』と言う小倉藩の学者の記録に、藩士浅田市三郎の祖母は本能寺の変の時に現場に居合わせたというモノがあります。その女性の話では奥の間で信長が血を流しているのを発見して駆け寄ろうとしたが、部屋から押し出された。
仕方なく台所へ行くと。中間が信長を背負って裏から出て行くのを目撃したとの事なんです…
この時、信長は遺体も残さず燃え尽きていた筈なんですがね。


さて、本能寺の戦闘は7時迄には終了。
明智軍は信長の嫡男信忠のいる二条城を攻撃して、信忠・織田(武田)勝長という特に有能な二人の信長の子を自害に追い込みました。
この二人のどちらかが生き残っていれば、後の織田家は変わっていたと言われているくらいなんですよ。
午後2時頃、明智軍は京を出発して坂本城に入城。


ここに一つ疑問点が出てきますね。
明智軍の兵士達は最初は謀叛と知らなかったとしても途中から気が付いたはず、ではどうして坂本まで付いて来たのだろうか?
実は、主君を討つ事がタブーとされたのは江戸期の朱子学が輸入されてからの事で当時はそれほど問題視されなかったという事と、明智軍の主君はあくまで“明智光秀”であって“織田信長”では無かったという事なのです。
つまり光秀自身は謀反かも知れないが、他の家臣達にとっては主君の命に従った忠勤だったのです。


さて、本能寺の変には色んな裏話が残っていますので、その辺りをご紹介してみましょう。

本能寺の変の実行犯は明智光秀ですが(一部そうでは無い説もあります、実はどう考えても光秀は間に合わないんです、この話は知りたいという人が居れば書きます)、光秀が考えて実行した事なんでしょうか?
そんな思いから黒幕説が浮上します。
1.羽柴秀吉
2.徳川家康
3.朝廷
4.堺・博多商人説
5.織田信長説
が、主なモノかな?

興味があるのありますか?

この中で面白いモノを書きますと・・・
まずは4の「堺・博多商人説」 でしょうか?
堺と言う町はどの権力者からも一目置かれている自由都市で、近隣大名に武器を売る事によって多くの利益を生んできました。
戦国時代に近畿圏で巨大勢力が出来なかったのは堺商人達の暗躍があったからだと言われているくらいです。
しかし、信長という巨大勢力の前に堺は負けただの商人に成り下がります。
「いずれ、信長が戦国の世を終わらせると死の商人としての利益は無くなってしまう…」
こう考えた者は一人や二人ではなかったはずですし、同時に“本能寺”という寺の存在も邪魔でした。
なぜ信長は本能寺を宿所にしていたのか?
実は本能寺は14世紀頃から種子島に深い繋がりがあり、鉄砲や火薬を独自に保管していたのです、下手な城よりも多くの火力を持っていたことになります。
だからこそ信長も少ない兵力で本能寺に泊まれたのでした。
堺商人達にとっては自分達とは別ルートの鉄砲入手場所があると言う事実ほど迷惑な事は無かった事でしょう。
そして、元々光秀と親しかった堺商人津田宗及が計画を進め始めた。
本能寺の変の起こる2年前、博多商人島井宗室は堺に来て津田宗及と深い交際を行うようになっていた。
そして、織田信長にも対面を果たし好感を得た。
事件の年の正月に島井宗室が信長の茶器を拝見したい旨を依頼し、了承の書簡を取り付けている。
そして事件前日の6月1日、島井宗室と同じ博多商人神屋宗湛そして前関白近衛前久が本能寺の信長を訪問し茶会・酒席を行った。
その日の深夜に近衛前久は帰宅、その後も遅くまで碁会が開かれ信長が就寝したのは明け方前でした。
そして本能寺の変、この時島井宗室は“弘法大師真蹟千字文”・神屋宗湛は“遠浦帰帆”の掛け軸をそれぞれ持ち出して本能寺から脱出しています。
6月1日に信長が本能寺に居た理由の一つは、この島井宗室との約束を果たし、名物茶器を披露する茶会を催すためであったとか。
光秀と津田宗及と島井宗室の三人はバラバラでありながら一つの線に繋がってきた。
光秀の動機は別説として、津田宗及と堺・博多商人達にとって商売の邪魔である天下人と本能寺が一緒に潰せたのだった。
しかし、ここで誤算が生じる。羽柴秀吉が早々と光秀を討ち、天下統一を果たしてしまったのだ。
秀吉が天下統一を果たした天正18(1590)年、祝いの茶席が開かれた。茶頭は堺の代表の一人千利休
その茶席に一つの掛け軸が用意されていた“遠浦帰帆”と言う。
ん?と秀吉は思った事だろう。信長の自慢の一品で本能寺で焼けたと思っていたに違いないこの“遠浦帰帆”が何故あるのかと…
そして、本能寺と堺商人のカラクリを知ったのかもしれない…
5ヶ月後、千利休切腹
その2ヵ月後、津田宗及急死
その2年後、堺の最後の実力者今井宗久も病死する事となるのです。


そして5の「信長自殺説」
本能寺の変の黒幕が織田信長だったという説を唱えた作家がいます。
今、えっ?と思った人もいるでしょうね…
これは作家の鯨統一郎さんが『邪馬台国はどこですか?』の中で書かれていた説です。この中で鯨さんは「信長は自殺だった」と書いていて、それがこの信長説になります。
まずは心理学の話
自殺の危険要素を挙げると
1.年齢
2.性別
3.孤独
4.性格(未熟・完全主義等)
5.精神疾患(鬱病・人格障害等)

1は一般に高齢者になるほど自殺率は上がり、49歳の信長は当時の立派な高齢者だった事
2は男性のほうが女性の4倍近く自殺率が高い事
3は青年期に傅役の平手正秀に諫言切腹をされた事を初め、母親や弟信行との不和、足利義昭や浅井長政・荒木村重の裏切りなどで常に孤独感を味わっていた事
4は信長が完璧主義で、家臣の失敗を許す事が少ない上に、衝動的(桶狭間の単騎駆け等)だった事
5の鬱病については、《青年期に反社会的行為をする人は鬱病の気がある》という定説があり、信長のうつけぶりがそれに当てはまると言う事、人格障害については家康の妻子を殺すように命じた事や、延暦寺の焼討ち。それに一向宗に対しては合計で6万人以上を殺している。
また荒木村重の関係者670人近くを惨殺しているのです。

でもいくら危険要素を持っていてもそれを実行する引き金が必要となる。その引き金は“自己破壊傾向”で、その要素は、
A.公の場での反社会的行動
B.事故傾性
C.自殺未遂

Aは比叡山焼討ちや将軍追放などに顕著に表れている。
Bは事故などに遭って身の危険を感じても自己改善しない傾向の事で、信長の場合は少人数で行動して狙撃されたり、足軽と一緒に戦の前線に立って怪我をした事はよくあった。
Cの自殺未遂を行う人はいずれ自殺をする可能性があると言われているが、信長の場合は桶狭間の戦いがそうだと言う人もいる。桶狭間は奇襲攻撃ではなくて堂々とした正面衝突である事が少しずつ浸透してきたが、特に信長は先頭を切って一騎駆けを行ったそうだ。
元々軍議一つ無かった戦に勝つ気は無かったそうだ。
信長は自殺しやすい傾向にあり、それが表面化していたのではないでしょうか。

では、最後の原因は何か?
という事ですが、実際の自殺者の9割は動機なんて見つかりません。しかし信長の場合は対朝廷政策の失敗だと思える所もあります。
桶狭間以降は殆ど破竹の勢いで自分の計画を成功させた信長にとって、一向宗と朝廷だけは最後の障害。
しかし、一向宗は石山本願寺の開城で勝ちを収めたが朝廷だけは思い通りにならず、一種の“喪失体験”を経験したのだ。
天正10年、信長は京都所司代の村井貞勝に三職推任を天皇に依頼させたが、これを敗北宣言と気付いた失意の内に自殺を思いついたのではないでしょうか。
明智光秀は信長に《天下の面目をほどこし候》と言われるくらいのお気に入りの武将。
完璧主義の信長がただの自殺で満足出来るだろうか?戦による自殺なら名誉は汚されない。
だからこそお気に入りの光秀に自分の最高の自殺を演出させたのですね。
その証拠に信長が光秀に付けたはずの監視役(与力)の反対は記録されていない、あらかじめ信長によって取り除かれていたのでしょう。
信長による光秀を使った自殺説…資料は残っていないが、面白いとは思いませんか?


ちなみに、同じく作家の井沢元彦さんは以前は光秀の家臣の斎藤利三が黒幕だったという説を唱えておられましたが、最近は誰かが黒幕だった割には光秀の行動にこの時の織田家の当主だった織田信忠を狙う様子が無く、信忠が亡くなったのは歴史の偶然だった事から、光秀の突発的な行動だったのではないか?
という説を唱えておられるのも興味深いですね。



あとは、俗説の域を出ませんが・・・
「秀吉黒幕説 」

これは一番よく考えられていた説で、徳川家康はこの説を宣伝していたフシがあります。
簡単に言うなら、一番徳をした人だからという事、でも本当は明智光秀が示唆を受けた黒幕がいなかった説にもなるのです。
光秀と秀吉はあまりにも違いすぎていたために二人が協力する事はありえない。
しかし、秀吉が意図的に事件を起こすように仕掛けたフシはあり、光秀がそれに乗せられてしまったという事は考えられる。
事件当夜、何故信長は本能寺に居たのか?
実は秀吉の毛利攻めの援軍のため、でもあの時の秀吉には援軍が必要なかった、そのため独断先行を嫌う信長に最後の後始末をつけた貰うという意味合いの方が大きく、実際に武田攻めの時も信長は少数兵で移動をしていた。
何らかの理由で光秀に叛意があった事を知った秀吉がチャンスを与えたと考えられなくもないのです。
事件後に光秀の使者が陣を間違えて秀吉の所に行ってしまったという話がありますが、そんな事は実際にはありえない事です。
事件を予測していて街道を見張っていた羽柴軍に捕まったモノと考える方が自然なんです。
つまり、そういう使者に秀吉は警戒していたという事ですよね、しかも中国大返しの早さが事前に準備がないと難しい所を指摘すると、秀吉が何かを知っていた可能性はなお高くなります。


黒幕説で一番怪しいのは「家康黒幕説」です。

家康が黒幕という説は実は信憑性が高い。
恨み・恐れ・野望全てが史実だからです。
まずは“恨み”は、信長の命令で正室・築山殿と最愛の長男・信康を処刑した事。
それに“長篠の戦い”の時には中々援軍が出して貰えず《武田方に降伏する》と言ったくらいです。
これは信長が徳川家を捨て駒と考えていたからと言う説が有力で、それを感じ取った家康は常に身の危険を感じていたからだとか、そう“恐れ”ていたのです。
そして勿論“野望”本能寺の変の後に素早く旧織田領の信濃・甲斐を平定しいきなり5ヶ国所有の大大名になった経緯を見ても野望が無かったとは言えないですよね。
秀吉の動きに比べるとあまり目立たなかったため注目されていなかったのですが、家康の動きは秀吉より怪しいのです。

それは、本能寺の後の動きにも顕著に見えてきます。

6月2日家康は堺に居ました。《その日は堺見物を一時中断して京に行き信長に会おうとして移動していた途中、茶屋四郎次郎に会い本能寺の変を聞かされて“伊賀越え”をした。》と言われています。
しかし『鷺森日記』によると、情報通の堺商人よりも先に本能寺の変を知り堺から出たそうなのです。
あの堺商人よりも先に知るという事は最初から知っていたのではないかと疑いたくなるのも当然ですよね。
そして“伊賀越え”これほど不可思議な物語は日本史史上でも珍しい事なのです。
家康の逃避行が何故“伊賀越え”と呼ばれるのか?
伊賀を越えたからなんて単純な事ではありません、普通こう言うのは一番ドラマチックな場面が命名されるモノですから。
そういう意味で伊賀ではおかしいです。
よく伊賀で土民に襲われる危険があったと言われますがそんな事はありえない、なぜなら家康の同行者に服部半蔵が居たからです。
服部家は伊賀の棟梁の一つで、それがあるから家康はこの道を選んだに違いないんです。つまり伊賀には何のドラマ性も無い一番安心できた場所なんです。
逆に伊賀に入る前の宇治では恐ろしいかったでしょうし、現に家康の同行者で別行動を採った甲斐の領主・穴山梅雪は土民に殺されているのです。
ここに『老人雑記』という資料を提供すると、家康が家臣に梅雪殺害を命じたのを聞いたと書いてあります。
甲斐を奪うために甲斐領主が邪魔だったのか、それとも宇治を無事に脱出するための捨て駒にしたのか?
“宇治越え”と命名出来ないところに家康の陰謀が隠れているんです。

もう一つの事実…明智光秀が歴史に登場するまでの人生を丹念に調べると“伊賀”にたどり着きます、光秀は実は生きていて家康の側近・天海になったと言う噂は真実味を帯びてきています。
そして、本能寺の黒幕の一人として織田信孝に追われた近衛前久は浜松の家康の元に逃げているんです。
秀吉の死後、《本能寺の黒幕は秀吉だった》と家康が宣伝していたそうだ。

ね、怪しいでしょ? この人。



さて、色々と面白い話がある本能寺の変の時にちょっと気になる証言を残してる人がいます。
先ほども書きましたが、『笹舎漫筆』と言う小倉藩の学者の記録に「藩士・浅田市三郎の祖母は本能寺の変の時に現場に居合わせた」というモノがあり、その女性の話では「奥の間で信長が血を流しているのを発見して駆け寄ろうとしたが、部屋から押し出された。
仕方なく台所へ行くと。中間が信長を背負って裏から出て行くのを目撃した」との事なんです…
この時、信長は遺体も残さず燃え尽きていた筈なんですがね。

ちなみに津田家(織田家の身内)と浅田家は同族で、身内の縁で信長の女中をしていた女性らしいのです。
だから見間違う筈はありません。

信長の遺体は発見されていない…
信長が本能寺を脱出した可能性は無いのでしょうか?

本能寺は寺とは言いながらも地下に火薬庫もある一種の要塞だった事は最初に書きましたね、要塞=城の構えを持つならば当然脱出経路を持っている事になります。
勿論、今迄そんな道は見つかっていませんが、無い方がおかしいですよね、そして本能寺は種子島と深い繋がりがあった…(井沢元彦さんの『逆説の日本史』でも本能寺の変の話の時に種子島~本能寺ルートに触れていたのを読んで驚きましたよ)

では、答えは出たようなモノですね?
中間に背負われた信長は本能寺を脱出。安土城は既に明智軍に占領されている可能性が高いだろうから、行けないし陸路は危険が多い。
そんな時に堺商人に隠れて作られた本能寺~種子島ルートは有効な脱出路だったのではないでしょうか? そして傷をおして島津領の種子島に到着、同族の親近感で島津義久に匿われた事は十分考えられる。

実は織田家の始祖は近江津田(浅田)郷の出で、初代・親真は越前丹生群織田(小田)荘の織田剣神社の神主の養子になった事から織田姓を名乗ったのです。
日本史の上で小田荘に剣神社と言う所がもう一箇所ります、薩摩島津家の領内。
そして織田家の始祖津田氏と島津氏には一つの共通点があった、どちらも“秦氏”の末裔である可能性が高いのです。

この頃、島津家で大きな事件も起っていないのに、島津家重臣・上井覚兼の日記が天正10年6月2日~11月3日までが欠落しています事、その理由は不明になっています。
しかし、もし信長が傷療養のために潜伏したとしたらどうでしょうか?
それも上層部だけの秘密だったとしたら…
しかし、信長は養生の甲斐も無く10月中旬までには亡くなったのでしょう、全ての始末が終了したのが11月3日で翌日から覚兼の日記が再開されたと思われます。
信長は、とっても大きな置き土産も残したそうで、その結果島津家は徳川幕府に睨まれながらも生き続けたのです。



長い文章でご紹介した本能寺の変ですが、この本能寺の変が無ければ徳川幕府も井伊家の出世も無かった可能性があります。
井伊直政は、家康の堺行きに同行し、そして“神君伊賀越え”も共に歩んだのです。