彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『直弼考 リレー講座』第一回講演

2008年06月29日 | 講演
2008年6月28日『直弼考リレー講座』の第一回目として、『逆説の日本史』他の著者として活躍されて居られる井沢元彦先生の講演が行われました。
管理人は『どんつき瓦版』編集部として講演の後に取材をさせていただけるチャンスもありました。

講演の報告をアップしますね。
できるだけ聞き逃さないようにペンをノートに走らせましたが、聞き逃しや言い回しの差異などはどうしても出てしまったと思います。
同じ講演を聴かれた方や、先生のファンの方にとっては「ん?おかしくない・・・」と思われる箇所があると思いますが、お許し下さい。


・・・ではここより本文です。

グレート直弼『井伊直弼 開国決断の周辺』

井伊直弼という人の開国の決断をどう評価するか?
頭に解決を持ってくるようですが実は簡単な事なのです。

150年前、種痘(天然痘の予防接種)が日本に来た時に反対者も居ました。あれは今風に言えばワクチンを牛を使って作るので、それを植え付ける(予防接種をする)と牛になると言って反対したり、あるいは利害関係、西洋医の行う事なので漢方医が「どうなるか解らない」と反対しました。
 でもそんな反対を押し切って種痘が日本に導入され日本では天然痘は撲滅されました。つまり日本でも種痘を実行しようとした事は正しいのです。
(開国の決断も)同じ事で、今の私たちは開国された日本に生きている訳で、それはまるで空気のように当たり前になっています。でも昔は全部ダメでした。幕府限定で言えばオランダとの交流もありましたが留学・旅行はもちろんの事、外国語の本を読む事も許されない通称「鎖国の時代」があった訳です。
では、今「鎖国の時代」に戻りたいと思っている人はどれくらいいるか? 少なくとも99.99%くらいの日本人は開国で良いと思っているでしょう。
という事は、鎖国を止めて開国を決断したのは正しい事だったのです。それを決断した人間は「歴史上、正しい事をした」それ以外の結論はないのです。

それなのに、井伊直弼という人は彦根では有名ですが(全国的には)あまり有名でもありませんし、功績が正当な評価を受けているとは言い難いのです。むしろ「悪人」のイメージです。どうしてそうなったのでしょうか?


歴史の専門家はその時代しか見れていません、本当の歴史上の問題点を探るには300年くらいを全部見て検証すべきです。
 
まずは「鎖国」をどう考えるか?
当時の攘夷と今の護憲、時代の空気を解るいい例なのです。
我々は今開国しているので、みんな「開国は当たり前」と思っています、でも昔は「開国を唱える奴は極悪人」であると思っている人は、日本のインテリでは遥かに多かったのです。
例えば、坂本龍馬は開国論を唱える勝海舟を斬りに行ったのです。でも龍馬は偉い人物で海舟の話を聞いて宗旨替えをして海舟の一番弟子となったのです。
 龍馬のような説得が効く人物はいいのですが、江戸時代の日本には「開国が悪」という人が居ました。
 今ではあまりピンときませんので最近の例で挙げたのが「護憲論」なのです。

護憲論と攘夷論はよく似ています。
「平和憲法」
『日本国憲法』第九条に「日本は軍隊を持ってはいけない」と書かれているので守りましょうという意見があります。
実は私(井沢先生)は改憲論者で、今はこの意見も受け入れられますが20年前は極悪人でした。護憲論者の人たちは『非武装中立論』を唱えていました。
『非武装中立論』とは、世界の国はみんな良い国ばかりなのに何で武装する必要があるのだ?だから日本は憲法九条の通りに自衛隊を廃止して丸腰がいい。という考え方。
この思想と事実は違うのです、この時、北朝鮮は拉致を行っていて日本には「北朝鮮は拉致をやっているのではないか?」と言う人もいました、でも「そんな事を言うのは怪しからん」という言葉で封じられたのです。『非武装中立論』では「世界は良い国だから北朝鮮は拉致なんかしている筈が無い、だから拉致を言う奴は極悪人だ」となります。

私(井沢先生)の改憲は、日本は法治国家なのに憲法では「日本は軍隊を持ってはいけない」事になっている。「軍隊」と言わずに「自衛隊」と言って誤魔化していてもあれは軍隊です。ならば憲法を改正して自衛隊を認めるか?あるいは憲法通りに自衛隊を廃止するか?のどちらかしろという事なのです。
国が憲法違反をしてる事がおかしいと昔から言っているのです。軍隊を無くすのは非現実的なので最低限の軍備は必要で、だから憲法は改正した方が良いと言っているのです。
それを言うと昔は「極悪人」と言われました。最も不愉快なのはその時に「井沢元彦は戦争主義者だ」と言っていた人間は今は全員口を拭っています。彼らは思想が優先で、それに現実を合わせています。自分の思想が大切なあまりに現実を見ておらず、こういう人はいくら証拠を集めても絶対見ないのです。
坂本龍馬が偉いのは、龍馬も当時はガチガチの攘夷論者でしたが相手の言う事に耳を傾けて変えたと言う事が偉いのです。

幕末、長州藩や薩摩藩はガチガチの攘夷論でしたが戦争に負けて開国路線になったのです。
 薩摩藩は、篤姫の義父・島津斉彬は開明派の人物で西郷隆盛を育てますが、斉彬が謎の死を遂げて(井沢先生は暗殺だと思って居られるとの事)、弟の島津久光は攘夷論者で何を言っても受け付けなかったので西郷隆盛も島流しになったのです。
 開明派だった薩摩藩はここで攘夷になったのです。この後、イギリスとの戦争に負けて薩摩藩は開国へと進んだのです。

今の我々は開国論に浸かって居ますが、開国と言っただけで「極悪人」と言われた時代が幕末だったのです。ですから井伊直弼は悪役なのです。

井伊直弼が「悪役」な理由は3つ挙げられます。
1.開国を決断した事よりも、勅許を得なかったのが一番悪い。
 老中は話し合いで物事を決めますが、大老は重要な決断をする時に置かれ、大老が徳川幕府を代表して決断した事。
 江戸時代中期なら日本の外交権は、幕府にあって朝廷に無かったので直弼の決断に誰も文句は言いませんでした。ところが幕末になると幕府を倒す為に日本の元首は天皇であるという「尊王論」が非常に盛んになり、その結果、井伊直弼は「勝手な独断専行」が問題になったのです。
 また、日本にとって不平等条約だった事も付随として問題になりました。
 当時は幕府の批判が公にはできませんでした、ですから「幕府は朝廷の許可を得ていないから、やっている事はおかしい」という事は言い易かったのです。
2.歴史的に間の悪い人
 井伊直弼は将軍継嗣問題で、紀州藩の慶福(後の家茂)を押しましたが、英明な一橋慶喜を押す人も居ました。
 井伊直弼はこの問題で一橋派の人々を粛清しましたが、後に一橋慶喜が15代将軍になりました。だから後に将軍になった慶喜が直弼の事を良く言う筈が無く、本来なら身内である筈の幕府からも悪く言われる事になったのです。
3.安政の大獄
 今までの話は全面的に井伊直弼が悪いとは言えない部分もありますが、こればかりは良くなかったといえます。
 反対者を捕まえて殺した人が多く居て、その中に生きていれば日本の将来を担ったであろう吉田松陰や橋本左内が居たのです。
 特に吉田松陰は松下村塾で多くの後身を育成した人でした。後に「維新の三傑」と呼ばれる桂小五郎(木戸孝允)、明治時代までは生きられませんでしたが高杉晋作、総理大臣にもなった伊藤博文、明治陸軍の大立者となった山県有朋。そんな松陰の弟子たちが築いた明治政府では「師匠の首を斬らせた井伊直弼は悪人に違いない」と言われるようになったのです。

本来、開国を決断した事は褒められるべきなのに悪口を言われ、功績を無視されたのです。
もしタイムマシンがここにあって直弼に「吉田松陰を殺したのはやり過ぎで話ですか」と言えばたぶん「松陰は老中暗殺を企んだのは大罪でこれは死刑に値する、法律を守ったのは当たり前だ」と言うかもしれない。
 もしかしたら松陰を遠島くらいしにていれば評価は変わったかもしれません。
 この反対の例は、島津久光で、彼は西郷隆盛を殺すつもりで環境の悪い牢に閉じ込めて自然死を待ったが、西郷は死なず、西郷を殺さなかったからそれ程評価が悪くないのです。


井伊直弼を知るためにはまずは鎖国を知らなければなりません。
 有名な話ですが「鎖国」と名付けたのは日本人ではなくオランダ人が日本の外交状態を書いた本を、日本人が訳した時に『鎖国論』としたのです。
 ですから「鎖国」は外国人のイメージで、日本の当時の幕府の担当者は鎖国していたという認識は無かったかも知れません。
 長崎の出島限定ですがオランダと貿易をしていて、中国とも正式な国交は無くとも貿易をしていて、他にも朝鮮半島から将軍が代替わりするごとにお祝いの使者の朝鮮通信使が来て朝鮮とも国交があり、薩摩藩を通じて(薩摩藩が裏で支配をしていた)琉球王国からも時々使節が江戸に来ていて、4ヶ国との交流があったのです。
 ですから、限定的に外国と付き合っていたのです。

なぜオランダと付き合っていたのかと言うと、キリスト教です。
 当時のキリスト教(カトリック)は、国を破壊し政権を倒し、そしてその国を無理矢理カトリックに改宗させる事が神から与えられた使命だと思っていたのです。「野蛮人に俺たちが正しい宗教を教えてやってる」との意識でした。
 戦国時代にこの並が日本にやって来ました。そして鉄砲がやってきたのです。鉄砲は技術を学んで国産化することができましたが、火薬はできなかったのです。
 火薬は原料が、硫黄(日本は火山国なのでそこら辺にある)、木炭、硝石(硝酸カリウム、これは後に日本でも作れるようになりますが、当時は日本に無かったのです)。硝石は輸入に頼るしかなく、火薬を大量に作るためにはスペイン人やポルトガル人と貿易するしかありませんでした。
 彼らと貿易するのに一番いいのはキリスト教を保護する事、例えば織田信長は安土にセミナリオ(神学校)を造ったのです。信長は鉄砲を大量に使用した大名でした。
 日本で最初に鉄砲が伝わったのは種子島です。種子島の宗教は日蓮宗の特別な一派でした、その本山は本能寺、つまり種子島と本能寺は火薬の当別なルートで繋がっていたのです。信長が早くに堺を抑えたのも火薬の為で、堺より東には国際貿易港がありませんでした(西にはありました)。
 戦国時代は相手の勝つ為に硝石が必要で、その為にキリスト教を保護するしかなかった。秀吉の時代になると天下が統一されたので火薬もそれほど必要ではなくなり、キリスト教の危険性も伝わり『キリスト教禁教令』が発布されました。しかし、秀吉は貿易はやりたかったので『キリシタン禁止令』を出しながら貿易船の来航は望んだのです、しかしそれは無理がありました。
 家康の時代になると、キリスト教徒が増えて脅威になり、偶々漂流した人がキリスト教の布教の仕組みを聞かされ家康も禁止令を発布したのでした。そして家康の時代にはプロテスタントのオランダが台頭したのです。
 当時のプロテスタントはそれ程にキリスト教の布教に拘らず、家康は「キリスト教を布教しないなら貿易を認める」としオランダは日本との交易の利益からキリスト教布教をしない事を条件に貿易を行ったのです。

幕府は、日本人の帰国と海外渡航を禁止しました。
 この海外渡航の禁止に付随して、大きな船の建造を禁止したのです。はっきりした形の物は見つかっていませんが幕末になって大船を造ってよいと言うお触れがでたので、逆に禁止令が出ていた事が推測されるのです。
 これは「江戸時代はある意味で、科学技術の進歩を止めた時代」むしろ逆行と言える事すらあったのです。
江戸時代に使われていた船のイメージは、帆柱1本が特徴的ですがこれはとても危険でした、でも戦国時代には日本にも3本マストの船があったのです。だからスペイン人・ポルトガル人は大航海時代を迎えられたのです。ところが日本の船はそれよりも後なのに1本マストの船になり明らかに後退しているのです。

 武器もそうで、武器と言えば火縄銃ですが、火縄銃は先込め式でした。実は200年以上経っている幕末も同じ銃でした。しかし世界では元込め式になっていたのです。火縄銃は雨の中では撃てませんが、元込め銃は雨の日でも撃てたのです。
 もう一つ、ライフルになっていたのです。ライフルとはらせん状の溝が銃身に彫られている銃で、これを使うと真っ直ぐに遠くまで飛ぶのです。こういう事を海の向うではやっていたのですが日本ではやらなかったのです。

あまり護憲の論者の方を悪く言うのも何ですが、こう言う人が居ます。
「日本は戦争をしないと決意した。だから憲法を守る」でも戦争は喧嘩であり、相手が攻めて来る事もあるのです。そうなったのが江戸時代でした。
戦国時代、日本人は散々戦争をして侵略戦争で失敗もしました。そこで「もう戦争はしたくない」との思いが生まれました。こうして「日本人は戦争をしないと決意したので、武器の改良を一切しない。技術は平和技術のみです。海外とも一切付き合いません」と決めたのです。
 海外と関わらなければ一切戦争は起きない。と江戸時代の人は思い、今でも同じ事を言っている人が居ます。だから江戸時代は武器が使える人が減り、武器は飾り物になったのです。
 ところがこの決意は、海の向うでは産業革命が起こり蒸気機関という人類最大の発明がされました。蒸気機関は大きくて不高率なので蒸気自動車はできませんでしたが、蒸気機関によって世界は変わったのです。
例えば、船は風任せで運行時間が分らなかった物が、蒸気機関ができるようになるとタイムスケジュールができるようになり、それ以来人間は時計を持つようになったのです。陸でも蒸気機関車ができて時刻表ができ、個人で専用の時計を持ったのは鉄道員でした。ここで初めてタイムスケジュール社会ができたのです。
 蒸気機関によって船が大きくなり、重い物(鉄張りの船、大砲、兵士)が積めるようになり、帆船に比べて航海期間が短くなり地球も狭くなったのです。
そこで列強はアジアやアメリカに進出し、植民地を増やしていき、その流れが「戦争はしないと」決意し安心している平和ボケした日本にやってきたのです。日本人は平和が永遠に続くと思っていたところにドーンとやってきたのです。ですからこの長い蓄積が「開国=悪人」となりました。

これに対し、島津斉彬や勝海舟は200年の遅れを取り戻さなければ勝てる訳が無いと考え、斉彬は溶鉱炉(反射炉)を作らせました。当時の日本では鉄をドロドロに熔かせる炉がなく、大砲は融点が低い銅で作られていたのです。日本はそこから始まったのです。
そんな国が黒船を作れる国に勝てる筈が無く、勝てなければ国を開いて学び富国強兵しないとインドや中国のように植民地になってしまう。という今で考えると常識なことが当時は「極悪人だから斬っていい」となり勝海舟の妹婿の佐久間象山は斬り殺されました。
要するに正しい事が通らない時代があり、そういう時代に逆らって物事を決めた人はその時は悪く、普通は後になって評価されるのですが、井伊直弼の場合は吉田松陰を殺した事が災いし、身内(幕府)も一橋派から悪く言われるようになったのです。

そして実はアメリカはペリーが初めてではなく、ペリー以前にアメリカ東インド艦隊司令長官ビドル提督が7年前に来ていて、民間施設ならペリーの16年前(天保年間)にモリソン号が来ている。
何故来たかと言えば、蒸気船は帆船と違って燃料の補給が必要となり、アメリカが日本に求めたのは補給でした。
 ヨーロッパから見れば日本はアジアで最も遠く、イギリスから独立した後進国のアメリカから見れば太平洋を越えた一番近いアジアが日本で、アメリカは日本に補給港を求めていたのでした。
これが分っていたら開港を条件に日本に有利な交渉ができ、アメリカも紳士的な大人しい提督を派遣したのに、日本は開国を否定し、起こったアメリカは国益の為にペリーを派遣し、本来敵対していた筈のイギリス・フランスと手を組んで日本を開国させる形になったのです。だから不平等条約なのです。
そして司馬遼太郎さんも言っておられますが、日本の最大の過ちは「家康の時代も国を開いていた事を当時の人は知らなかった」という事。これを知っていれば日本では多くの血は流れなかったかも知れず、当時、長州藩の長井雅楽が『航海遠略策』でそれを唱えているが早すぎて藩内の攘夷論者に殺されるのです。
この時の多くの知識人が「鎖国は神君家康公が定めた祖法であり、絶対変えてはいけない」と思っていたのです。それは最大の問題で、人間も環境も国際情勢も変化するので変化に対応し理屈で考えれば良いのに、日本人は頑なに思い込んだらそれができず、そんな日本人の思い込みの犠牲者が井伊直弼であったと言えなくもないのです。


《質疑応答》
(質問)
井伊直弼は若い頃から近江商人を通じてロシアの情勢を得ていて、直弼にとっては世界情勢は常識ではなかったでしょうかと思って居ますが、どう思われますか?
(井沢先生)
それで良いと思いますが、我々は現在の常識で見てしまいます。今はネットがあり図書館もありますが、昔は情報がすぐに手に入らず、徳川政権では情報を制限していたので、個人的に詳しい人も居ればそうではない人も居た筈。
 それを調べる為には、その人の貯蔵文書を詳しく調べるしかありませんが、直弼に関しては質問者の認識で良いと思います。

(質問)
 今の日本は直弼の時代に似てると思います。過去の教訓を活かし日本の取る立場は?
(井沢先生)
 独立国家である形を整えなければいけない。場合によっては日本が核まで保有しなければならないかも知れないと言う物騒な議論もありますが、やはり独立国家としての実質を整えない限り世界に対して物申せないし自分たちの行き方も模索できない。
 昭和20年以降の日本はある意味でアメリカの属国(までいかないかもしれないけど)状態で、嫌な事はアメリカに任せてきましたが、そうもいかなくなるだろう。


《『どんつき瓦版』取材》
(井沢先生)
 「どんつき」とはどんな意味なのですか?
(管理人)
 どんつきと言うのは彦根の方言で「行き止まり」とか「喰い違い」みたいな意味です。
(井沢先生)
 「どん詰り」みたいな?
(管理人)
 そうですね、京都でもこの言葉があるのですが、ここは城下町ですから城を守る迷路みたいになって居ます。

それではインタビュー
(管理人)
先生は、井伊直弼は政治家としてあまり認めて居られず、決断の人として認めて下さっていると過去に読みましたが、先生にとって井伊直弼個人はどんな評価をお持ちですか?
(井沢先生)
 きっと真面目な人だったと思う、自己の信念に忠実、ちょっと狭い狭量な感じがします。「自分が絶対に正しい」という信念があるから反対派を容赦なく殺してしまうような所があるので、もうちょっと寛容であればよかったですね。
(管理人)
 では桜田門外の変はどういう位置付けで見られて居ますか?
(井沢先生)
 あれは、安政の大獄をやらなければあそこまでは無かったかな?坂下門外の変もあるので一概にそうとは言ませんが。
やっぱり安政の大獄で多くの志士を殺した事が「赤鬼」という評価になり「じゃあ、殺すしかない」という評価になっちゃったんじゃないかな。
(管理人)
 以前、お城の話を週刊誌で連載されていた時(『名城をゆく』)に、井伊直弼の所で「吉田松陰と井伊直弼は対外思想的には同志だ」と書いておられたとおもいますが・・・
(井沢先生)
 井伊直弼は開国した方が良いと言う意見で、吉田松陰だって同意見で、松陰は真っ先にアメリカ留学をしようとして捕まる。
井伊直弼にとって最も不愉快な人物は水戸斉昭だと思う、斉昭は私たちが見てもどうしようもない人物ですね、頭から悪いと決め付けて説得に耳を貸さない。それの息子が慶喜だと言うのが大きかった、大奥でも「あんな女垂らしの息子が将軍になったら嫌だ、直弼さん絶対に阻止して」だろうし、直弼も嫌だと思ってただろう。
それから見ると吉田松陰はまったく対極の人間なのだから、もうちょっと「牢には入れるけど生かしておく」みたいなことができなかったかな? というのが惜しいですね。
(管理人)
 では、もし吉田松陰が殺されず、例えば幕府に登用されたら直弼とどんな政治をしたでしょうか?
(井沢先生)
 松陰が許せないのは朝廷無視。そこで対立はしたと思うけど、ただ松陰の死を減じて遠島にしていれば直弼は暗殺されないと思う。
 大政が引っ繰り返って直弼が罰せられそうな時に松陰が「待った」をかけて「お互い良かったな」って事になったかもしれません。榎本武揚なんかはそうでしょ?
(管理人)
 そうですね。
 では幕末から話が変わるのですが、先生は彦根城がお好きだと伺いましたが、どんな所に魅力を感じますか?
(井沢先生)
 コンパクトに纏まっていて綺麗なお城。また外郭部分が良く残ってますね。同じ様にコンパクトで良い城は犬山城ですが、あそこは城の一部が残っているだけ、姫路城すら全体は残っていないので、日本の城で完全に残っているところは無いけど、平山城であるが上に山全体によく残っている。
 それに井伊直弼の城なのによく焼かれなかったですね(笑)
(管理人)
 そうですね(笑)
 私たちも調べましたら大隈重信が尽力してくれた事が分りまして、大隈政権の時には彦根の人が司法大臣も勤めているのです(大東義徹のことで、井沢先生はご存知でした)。
 先生はどれくらい彦根城にお越しいただけましたか?
(井沢先生)
 何度と何度と、城の取材でも『逆説の日本史』を書くときの実質調査でも観光でも来て居ます。
 父が彦根高商(現・滋賀大学)出身で、私は子どもの頃から鮒ずしを食べさせれれていました。(先生にとって鮒ずしはお酒のつまみだそうです)
(管理人)
 私たち『どんつき瓦版』は今回、井伊家は彦根城・信長の佐和山城、来年に肥田城の水攻め450年を取り上げて150年祭だけではなく、戦国史も取り上げていこうかな?と思って居ます。
(井沢先生)
(ここで瓦版をお渡しするのに入れていたクリアファイルをご覧になって)
 しまさこにゃん
(管理人)
 島左近より前の時代になるのですが・・・(肥田城のこと)
(井沢先生)
 だから縞ネコなの?
(管理人)
(しまさこにゃんの縞の話をしました)
 先生は『織田信長推理帳』の中で六角氏が信長暗殺を狙ってという小説も書かれていて、六角氏もお詳しいと聞いて居ますが、先生は近江の戦国はどんな風に思われますか?
(井沢先生)
 ここは京への通り道で、東海という豊な地方から最終的には秀吉も家康も来る位だから非常に重要視されたと思いますね。もう一つは大津や草津が物資の集積地でそれを比叡山延暦寺が経済的利権をおさえている、そういう意味での信長がやった経済改革(流通革命)の対象として一番この辺り(近江)が、後の近江商人になるような伝統商業もあり石田三成が複式簿記を使っていた話もあるし、後にここから豊臣政権の官僚がでますね。
 一方で、比叡山を中心とした古いカルテルみたいなものがあって、一方で最新の商業もあり面白く改革すべきで、政治理想が実践できるような土地だったのではないか。
(管理人)
 では、先生は近江で頭を過ぎるのは誰ですか?
(井沢先生)
 まずは天智天皇、それからやっぱり織田信長まできちゃうかな?
(管理人)
(話は尽きず、まだまだお話をお聞きしたいのですがお時間の関係でここで終了)
ぜひまた彦根にお越しください、ありがとうございました。


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