彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:芹沢鴨暗殺(9月18日)

2013年09月18日 | 何の日?
文久3年(1863)9月18日、芹沢鴨・平山五郎が暗殺されました。

この少し前、芹沢一派で浪士組三局長の一人だった新見錦が切腹させられています。
新見は芹沢一派として芹沢鴨が水戸に居た頃からの同志だったのですが、この頃の芹沢は新見よりも近藤勇に目を掛けていて、将来の禍になる可能性を考えて新見を見捨てたと言われています。
しかし、近藤勇はその腹心の土方歳三の勧めで芹沢鴨を排除する運動を始めていたのです。

事件当日、新選組は隊名を拝受した1ヵ月目の記念で宴会を開いていたと言われています。
この時、酒を浴びるほど飲んだ芹沢鴨は、平山五郎と平間重助を従えて壬生の八木邸に帰り、それぞれの愛妾と飲み直す事になったのでした。
そして、それぞれ相手を連れて眠りに就いたのです…

この日、京都は朝から雨が降っていて、夜は土砂降りになったと伝えられています。
八木家当主の息子為三郎は、この日の事件を目撃し、後にこの事を証言しているのですが、何分子供の時の事だったので、記憶に多少の雑さは否めません。

そんな後日談と資料を紐解いて行くと以下のような感じとなります。

夜の12時頃、芹沢の部屋を覗いている1人の人物が居た…
どうも土方歳三だったらしいです。
この時の刺客は土方・沖田総司・山南敬助・原田左之助の4人というのが定説ですが、井上源三郎・藤堂平助・御倉伊勢武がその候補に挙がっていて、この内の4~5人だったそうです。
一般的に内密の暗殺劇の為に試衛館のメンバーで暗殺を行なったと言われているのですが、これはメンバーを見て後の史家が勝手に解釈しただけで、実際には秘密の守れる使える人物を使っただけの感じがあります。
暗殺劇は瞬時に終わります。
芹沢が眠っている事を確認した後、暗殺者は部屋に乗り込み芹沢を何度も斬り付けたのです、首は薄皮一枚で何とか付いていたそうです。
芹沢と同衾していたお梅という女性も一緒に斬られ、すぐ近くで寝ていた平山五郎も殺されたのでした。
しかし平間重助はこの惨事から逃げのびています。


平間重助はその後どうなったのか?
普通、こういう人物は自分自身も身を隠してしまい後日談はあまり残らないのですが、平間にはちゃんとした記録が残っていて、この後、明治23年旧暦9月6日に脳溢血で亡くなった事が、平間が亡くなった家の者から報告されています。それは当時の地方紙にも取り上げられたとも伝わっています。
その報告によると、平間は姓を諏訪部と変えて小学校の養蚕巡回教諭をしていたそうですが、特に身分を隠す事もなく請われると新選組の事について話す事もあったらしいです。
こうして、平間重助は芹沢一派として唯一天寿を全うする事となったのです。

9月11日、武田信吉死去

2013年09月11日 | 何の日?
慶長8年(1603)9月11日、水戸藩主武田信吉が亡くなりました。享年21歳。
武田姓を称していますが、徳川家康の5男です。

本能寺の変の後、徳川家康は堺見学から居城浜松城へと向かう神君伊賀越えを経験します。このことについては僕もいろいろ想うところがありますが、今回の話とは離れてしまうので割愛します。
神君伊賀越えでは、この直後の家康の行動を決定付ける大きな事件が起こります。それは穴山信君が殺害されたことでした。信君は武田信玄の甥で、信玄の次女・見性尼を妻に迎えている人物で、織田信長の武田攻めの後で武田宗家を継いだ人物だったのです。
こんな信君が殺されたことと、本能寺の変の混乱によって旧武田領とも言える甲斐・信濃は主がいない状態となったのです。

伊賀越えから浜松に帰城した家康は、明智光秀を討つ名目で軍を西に向けて発しますが、山崎の戦いで羽柴秀吉が光秀を討ったことを聞くとすぐに東に進み、駿河・甲斐・信濃を併合して行きます。
それまでは三河・遠江の2国の大名でしかなかった家康が3国を支配下に治めたことで5国を領する大大名に成長したのです。この時に家康が3国を取っていなければ、秀吉に恐れられる大名にも成りきれず豊臣家の一大名として終わっていた可能性すらあるのです。


さて、前置きが長くなりましたが、旧武田領を得た家康がその地を治めるために求めた物が、武田信玄に繋がる血でした。この為にまずは穴山信君の息子である勝千代(武田信治)に武田家を継がせ、家康自身も武田家に繋がる女性を探し出して側室にしたのです。於都摩という名の女性が信玄の末娘という形式を作り信君の養女として家康の許に行きました。
こうして、家康と於都摩の間に生まれたのが信吉でした。

天正15年に勝千代が他界すると、武田宗家が滅亡したので、見性尼を後見として信吉が武田家を相続します。

その後、家康の関東転封に従って関東に移動すると、武田姓を名乗る必要が無く一度は松平姓になりますが、関ヶ原の戦いの後で水戸15万石と穴山家を中心とする武田家臣を与えられます。こうして親藩水戸藩が誕生します。
しかし、江戸幕府が開幕して半年後に信吉は亡くなってしまい、この時点で武田宗家は完全に滅亡します。武田家は信玄の次男武田竜芳の系統が現在まで家名を残しています。


ちなみに水戸藩に残った旧武田家臣の多くはそのまま藩に残り、最終的には徳川御三家になる徳川頼房の家臣となるのです。
同じく旧武田家臣を多く引き連れて関ヶ原を戦い、彦根藩に入った井伊家との幕末の確執を考えると、旧武田家臣の与える影響は大きかった気もしますね。

150年前:大和屋事件(8月12日)

2013年08月12日 | 何の日?
文久3年(1863)8月12日、芹沢鴨が大和屋事件を起こします。

大和屋は、この少し前に脅されながら天誅組に軍資金を提供します。
天誅組は大和(奈良)に籠って反幕の旗を挙げた土佐浪人を中心とする集団で、ここに資金提供をするという事は謀反人の懲らしめになるとも考えられたのです。
芹沢鴨はこの時に30人近い隊士を連れて木砲も持ち出したといわれているのですが、木砲を撃ったかどうかは諸説があります。

実際に判っている事だけを書くなら、鉄砲を撃ち込んで、火を放ち、建物や家財道具は打ち壊して路上に放り出したのです。
この時、試衛館の人々は大坂の事件で親しくなった小野川部屋の相撲興行を手伝っていたという話が伝わっているのですが、実際の事は解かっていないのです。


ただ、この一件で芹沢鴨は良くも悪くも京で大いに知られ畏れられる存在になったのです。

150年前:薩英戦争(7月2日)

2013年07月02日 | 何の日?
文久3年(1863)7月2日、薩摩藩とイギリス艦隊のによる薩英戦争が起こりました。


6月27日、鹿児島湾に投錨したイギリス艦隊7隻は、そのまま薩摩藩に対して交渉を持ちかけました。
これに対して薩摩藩は29日になって、生麦事件では行列を横切ったイギリス人側に非があると回答しニール代理公使の主張が正当性に欠け、また犯人がまだ捕まっていないことを伝えました。そしてニール代理公使が鹿児島に上陸しての交渉を持ちかけたのですが、ニールはこれを拒否したのです。
この時、薩摩藩士が西瓜売りに変装して船に乗り込むという策も練られたのですが、イギリス側の機転でこれは未然に防がれました。

29日の回答時点で開戦を決意したのは薩摩藩でした。
翌日の7月1日、鹿児島城下の老人女子供の避難を藩が触れます。そしてイギリス側も水深調査を行ったのです。この時に台風が近づいていることがわかりました。


7月2日午前3時、イギリス艦隊は鹿児島湾の奥に侵入します。台風を機とみて薩摩藩の蒸気船天祐丸・青鷹丸・白鳳丸を拿捕、薩摩藩士五代友厚と寺嶋宗則が捕らえられたのです。イギリスはこの二人を交渉の切り札に使う予定でした。
この報せを受けた薩摩藩は正午になって砂揚台場から砲撃を開始し、これを合図に薩摩湾内の砲台から一斉に砲撃が始まります。そして台風の暴風雨も一層勢いを増したのです。
ニール代理公使は、蒸気船の拿捕によって薩摩藩が弱腰になると確信していたのですが、予想に反して砲撃を受けたことに困惑します。
そして拿捕した蒸気船3隻の積み荷を旗艦ユーリアラス号に移して3隻を焼き払ったのです。ユーリアス号には先に幕府から受け取った賠償金も載っていました。この行動が2時間かかってしますのです。

ついにイギリス艦隊も反撃を行います。ここで実戦で初めてアームストロング砲が使用されたのです。
イギリス艦隊は薩摩藩の砲台を次々に砲撃し使用不可能にしていきます。しかし台風の影響で操作を誤って1隻で先行してしまったユーリアラス号が薩摩藩の集中砲火を浴びるのです。
これにより旗艦艦長ジョスリング大佐および副長ウィルモット中佐が戦死、パーシュース号は錨を切って逃げなければならない状態になり、レースホース号は座礁して自力走行ができなくなったのです。
イギリス側の死者は11人とも13人とも伝えられていますが、旗艦艦長と副長が戦死したことを受けてイギリスの『タイムズ』は“』」、「死者11名負傷舎39名のリストは、われわれの敵が大君自身ではなく、その無法な部下の一人にすぎぬことを考えると大きすぎたとも言えよう。またこれは、われわれの小さな勝利に要したコストのすべてではない。というのは11名の死者のリストの中に艦長ジョスリングと”ウィルモットの名前があるからだ」(宮地正人『幕末維新変革史』より)と述べていて、この後に日本人がアームストロング砲を手に入れたらそれに改良を加えるであろう国民性は我々にとって愉快ではないが、知性と未来への運命への確信が敬意を呼ぶとしています。
イギリスは、アームストロング砲によって多くの台場や集成館そして鹿児島城下の1割と琉球船5艘を焼いたことで鹿児島湾から抜けて翌3日に桜島付近の台場も破壊、この時寸でのところで薩摩藩の水雷を回避し、4日になって横浜に向かって帰港したのです。

こうして薩英戦争は終わりました。イギリスは様々な戦果から勝利を宣言していますが、薩摩藩側もイギリス艦隊を退却させたと主張していて、勝敗が確定できない形だったのです。


従来は、薩英戦争によって薩摩藩は壊滅的なダメージを受けて、そこから西洋の文化を学び、最新鋭の兵装を完成させたといわれていますが、薩摩藩では前藩主島津斉彬の時代には西洋文明を取り入れていて、薩英戦争での被害をきっかけに、攘夷派に対して強く意見ができる状況を作るkとができ、それにより表立っての西洋化ができたのではないかと考えられるのです。

150年前:イギリス艦隊薩摩湾投錨(6月27日)

2013年06月27日 | 何の日?
文久3年(1863)6月27日、イギリス艦隊7隻が鹿児島湾に投錨しました。

生麦事件の賠償金を幕府からは受け取ることに成功したイギリスでしたが、実行犯である薩摩からは賠償金の支払いも犯人の引き渡しも行われませんでした。
ジョン・ニール代理公使は、薩摩にイギリス艦隊を見せつければ交渉の席に上がってくるだろうと思い、ゆーりアラス号を旗艦として、薩摩が交渉に来た時に会話ができるように通訳のアーネスト・サトウも引き連れて6月22日に横浜を出て鹿児島に到着したのです。

こうして薩摩藩に交渉を行うのかの回答を24時間以内に求めたのですが、薩摩藩からの返事は得られなかったのでした。

150年前:緒方洪庵死去(6月10日)

2013年06月10日 | 何の日?
文久3年(1863)6月10日、蘭方医で教育者でもあった緒方洪庵が亡くなりました。享年54歳。


緒方洪庵といえば、大坂で適塾(適々斎塾)を開き、現在の大阪大学医学部まで繋がる教育機関の基礎を築いた人物で、ここからは、橋本左内・大村益次郎・大鳥圭介・福沢諭吉・佐野常民などの有能な人材も輩出しています。

適塾での緒方洪庵は、塾生の特徴をしっかり把握していて、けっして大声で怒ることがなく、微笑みながら生徒を諭す様子は怒られるよりも恐ろしかったそうです。


そんな教育者の一面以外にも、蘭方医として大坂で牛痘種痘法を行った先見性のある医者でもありました。
このことから晩年になって幕府に招聘されて、奥医師兼西洋医学所頭取として幕府に仕えることとなったのです。この時に塾生の手塚良仙らが洪庵に推挙されて幕府歩兵頓所付医師になっています。この良仙の曾孫が手塚治虫です。

江戸に招聘され幕府の中に組み込まれた洪庵でしたが。その半年後に突然血を吐いてそのまま窒息死したのです。洪庵は肺結核に冒されながら江戸で孤軍奮闘した末の過労死でした。

150年前:徳川家茂離京(6月9日)

2013年06月09日 | 何の日?
文久3年(1863)6月9日、将軍徳川家茂が京を離れました。

大坂巡察ののち京都へ戻った家茂でしたが、幕府内では老中格の小笠原長行が1600の幕兵を率いて6月1日に大坂に入りそのまま淀へ向かって淀城に入ったのです。
この行動に朝廷が驚いていると、そのまま上洛して将軍に天下の大事を進言するというクーデター計画が持ち上がったのです。

3日に松平容保が説得に当たりますがうまくいかず、6日に朝廷が家茂に対して小笠原を罰するように命じたのです。
これを受けた家茂は、自ら説得にあたるために6月9日に淀城に赴きました。
この場で小笠原と面会し、小笠原は老中格罷免と江戸への帰還が命ぜられたのです。

家茂はこのまま大坂をめざし、13日に江戸へ向けて出港したのです。

150年前:平井収二郎ら切腹(6月8日)

2013年06月08日 | 何の日?
文久3年(1863)6月8日、土佐勤王党の平井収二郎・間崎哲馬・広瀬健太が切腹させれれました。

土佐勤王党は、山内容堂の進める公武合体に反対し、容堂以前の藩主経験者である山内豊資を土佐藩の実力者にするための行動を行っていました。
そのために青蓮院宮との交流を図ったのです。

この動きを上京してから知った容堂は怒り、平井らの捕縛と土佐勤王党の自粛を命じたのでした。
この事件を青蓮院宮令旨事件といいます。
土佐勤王党の党主である武市半兵太は平井らの助命嘆願を容堂に行いますが聞き入れられず、平井らは土佐藩の牢で切腹させられたのです。

平井収二郎の妹の加尾は、坂本龍馬の土佐での恋人とも言われている人物で、この事件と龍馬との関わりもよく描かれる題材です。

6月2日、横浜開港記念日

2013年06月02日 | 何の日?
安政6年(1859)6月2日、前年に締結された『安政の五カ国条約』(『日米修好通商条約 』など5ヵ国との条約)によって、横浜港と長崎港が開港されました。

なぜ6月2日という中途半端な日になったのかと言えば、当時の調印をグレゴリオ暦で行ったからでした。
管理人の家には、『日米修好通商条約』の資料ではなく、『日露修好通商条約』の資料しかありませんが…

この第三条に

「下田長崎箱館港の外次にいふ所の場所を左の期限より開くへし」
として
「神奈川 午七月より十一ヶ月の後より 千八百五十九年七月一日」
とあります。

日米の条約では長崎の開港についても同断としていますが、日露について長崎で交流が始まっていたことから、特に記されなかったと考えられます。
(ちなみに、長崎では鎖国中も出島で交易を行っていたことから、この日を開港とする意識はあまりないようです)

こうしてグレゴリオ暦1859年7月1日にあたる安政6年6月2日に開港されたのです。
しかし、開港の条件は神奈川であり横浜ではありませんでした。
これは、神奈川が東海道五十三次の宿場町であり、交通の要所であったことが大きく関わっていて、人の往来が多い場所に外国人がウロウロするのは、様々な問題を招くとして、当時は寒村だった横浜村に埋立地を作り、港も整備したのです。
外国人の動ける範囲を制限したために、長崎の出島とあまり変わりない対応でしかありませんでした。
そして、神奈川開港と言いながら横浜を開港したこと(関西では兵庫と神戸)が問題となり、明治政府は横浜を神奈川県の一部とし、神戸を兵庫県の一部とすることで開港を条件を無理やり満たしたのです。

150年前:アメリカ軍艦の報復(6月1日)

2013年06月01日 | 何の日?
文久3年(1863)6月1日、アメリカが長州藩の攘夷に対して報復を行いました。

5月10日に攘夷の決行としてアメリカ商船が関門海峡で襲われたことを知ったアメリカ軍艦ワイオミング号が、長州藩に対して報復を行いました。
すでに南北戦争へと突入しているアメリカでしたが、その戦争はアメリカ国内だけではなくそれぞれの軍艦の戦いも行われていたのです。
ワイオミング号は北軍の軍艦だったのですが、南軍の船を追いながら日本へ寄港したために戦争準備は万全だったのです。
このため、商船まで攻撃した長州への報復はすぐに行われました。


今までの砲撃で勝利に沸いていた長州藩の砲台に対してワイオミング号は砲弾を撃ちこみます。
約2時間の砲撃で庚申丸ともう一隻の長州の軍艦が沈没し、癸亥丸も大破して何とか沈まなかった程度でした。
長州藩の亀山砲台にも大きな損害を受けて立ち直れない状態に陥ったのです。