安政6年(1859)6月2日、前年に締結された『安政の五カ国条約』(『日米修好通商条約 』など5ヵ国との条約)によって、横浜港と長崎港が開港されました。
なぜ6月2日という中途半端な日になったのかと言えば、当時の調印をグレゴリオ暦で行ったからでした。
管理人の家には、『日米修好通商条約』の資料ではなく、『日露修好通商条約』の資料しかありませんが…
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/24/32683d08b5cd73c51f69b9311c4dd3be.jpg)
この第三条に
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/d1/a6df67f5469b4fa5290a9d2f8a20143d.jpg)
「下田長崎箱館港の外次にいふ所の場所を左の期限より開くへし」
として
「神奈川 午七月より十一ヶ月の後より 千八百五十九年七月一日」
とあります。
日米の条約では長崎の開港についても同断としていますが、日露について長崎で交流が始まっていたことから、特に記されなかったと考えられます。
(ちなみに、長崎では鎖国中も出島で交易を行っていたことから、この日を開港とする意識はあまりないようです)
こうしてグレゴリオ暦1859年7月1日にあたる安政6年6月2日に開港されたのです。
しかし、開港の条件は神奈川であり横浜ではありませんでした。
これは、神奈川が東海道五十三次の宿場町であり、交通の要所であったことが大きく関わっていて、人の往来が多い場所に外国人がウロウロするのは、様々な問題を招くとして、当時は寒村だった横浜村に埋立地を作り、港も整備したのです。
外国人の動ける範囲を制限したために、長崎の出島とあまり変わりない対応でしかありませんでした。
そして、神奈川開港と言いながら横浜を開港したこと(関西では兵庫と神戸)が問題となり、明治政府は横浜を神奈川県の一部とし、神戸を兵庫県の一部とすることで開港を条件を無理やり満たしたのです。
なぜ6月2日という中途半端な日になったのかと言えば、当時の調印をグレゴリオ暦で行ったからでした。
管理人の家には、『日米修好通商条約』の資料ではなく、『日露修好通商条約』の資料しかありませんが…
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この第三条に
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「下田長崎箱館港の外次にいふ所の場所を左の期限より開くへし」
として
「神奈川 午七月より十一ヶ月の後より 千八百五十九年七月一日」
とあります。
日米の条約では長崎の開港についても同断としていますが、日露について長崎で交流が始まっていたことから、特に記されなかったと考えられます。
(ちなみに、長崎では鎖国中も出島で交易を行っていたことから、この日を開港とする意識はあまりないようです)
こうしてグレゴリオ暦1859年7月1日にあたる安政6年6月2日に開港されたのです。
しかし、開港の条件は神奈川であり横浜ではありませんでした。
これは、神奈川が東海道五十三次の宿場町であり、交通の要所であったことが大きく関わっていて、人の往来が多い場所に外国人がウロウロするのは、様々な問題を招くとして、当時は寒村だった横浜村に埋立地を作り、港も整備したのです。
外国人の動ける範囲を制限したために、長崎の出島とあまり変わりない対応でしかありませんでした。
そして、神奈川開港と言いながら横浜を開港したこと(関西では兵庫と神戸)が問題となり、明治政府は横浜を神奈川県の一部とし、神戸を兵庫県の一部とすることで開港を条件を無理やり満たしたのです。