彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:加徳丸事件(2月12日)

2014年02月12日 | 何の日?
文久4年(1864)2月12日、周防国別府浦で薩摩商船「加徳丸」が襲撃されました。

2ヶ月ほど前の12月24日に長州藩が薩摩藩の「長崎丸」を砲撃する長崎丸砲撃事件が関門海峡で起こり、薩摩藩の怒りを買っていたのですが、これを謝罪使派遣でどうにか治めていたのです。しかし長州藩士はこの謝罪使の派遣をよしとせず、長州藩義勇士隊が加徳丸を襲撃し、薩摩藩御用商人大谷忠之進を殺害して積み荷とも舟を焼き払ったのでした。

この二週間後の2月26日、大坂南御堂門前で、大谷の首が晒され、「長州藩を脱藩し、外国と交易する者を改心させるために大谷を殺害。ここで割腹する。永井清一 山本誠一郎」との斬奸状と二人の割腹遺体があったのです。

後年の調べで永井と山本は加徳丸事件に加わっていなかったことがわかっています。
長崎丸に続き加徳丸まで襲われたことで怒りをさらに拡大させた薩摩藩に対し、お宅の密貿易がこのような悲劇を生んだと示すために長州藩士が有志を募って永井がこれに応え、犯罪を犯していた山本を無理やり殺害して目立つ所に置いて世間の関心を買うことで、密貿易をしていた薩摩藩を追い詰めることに成功したのです。

150年前:一橋慶喜ら朝議参与就任(12月30日)

2013年12月30日 | 何の日?
文久3年(1863)12月30日、一橋慶喜ら5名が朝議参与に就任しました。
就任したのは慶喜の他に松平容保・松平春嶽・伊達宗城・山内容堂です。

これは譜代大名以外の諸侯が国政に関わることができる制度が出来上がったことを意味します。実際にここに参加している5名が3日おきに二条城で行われる会議への出席を義務つけられる物でした。
この中で、今までの江戸幕府の制度によって政治に参加できたのは会津藩主の松平容保だけで、御三卿の慶喜、親藩の春嶽、外様の宗城と容堂は政治に口題することも許されなかったのです。

このように諸侯が国政に参与する考え方は、前薩摩藩主島津斉彬が考えていたことで、藩兵三千人を上洛させて、武力を背景に諸侯の国政参与を訴えようとした矢先に亡くなってしまい、その遺志を斉彬の弟の久光が受け継いで行動し、実現したものでした。
しかし、藩主の父という立場でしかない久光は官位を持っていなかったためにこの日に任命されず、半月後に従四位下左近衛権少将に叙されてから朝議参与に加わったのです。

慶喜、容保を除く4名が幕末の四賢公と称されて後々まで記録に残るのは、このことがきっかけになっています。

150年前:第二回遣欧使節団出航(12月29日)

2013年12月29日 | 何の日?
文久3年(1863)12月29日、第二回遣欧使節団が横浜を出港しました。

この使節団の大きな目的は横浜港の閉鎖を談判することだったので、横浜鎖港談判使節団とも呼ばれています。
正使は池田長発で、12月29日にフランス軍艦ル・モンジュ号で出航。上海・インド経由でスエズに到着。
ここからは陸路でカイロを目指します。この道中でエジプトの三大ピラミッドやスフィンクスを見学したことで、スフィンクスと侍が一緒に写る写真が撮影され歴史上に残ったのです。

カイロから地中海を経由してパリに到着したのは3月でした。
ここでナポレオン三世に謁見し、横浜港閉鎖の談判は失敗します。もともと孝明天皇の無理を通そうとすることに対する、やるだけやりましたというパフォーマンスで派遣された使節ですので失敗前提だったのです。

しかし、これ以外にも長州藩の関門海峡での砲撃に対する賠償金支払いや関税に対する不利な要求をのみ込んだパリ条約を締結することとなり、孝明天皇の無理は日本をますます追い詰める結果になったのです。

150年前:野口健司切腹(12月28日)

2013年12月28日 | 何の日?
文久3年(1863)12月28日、野口健司が切腹しました。

新選組の前身である壬生浪士組には芹沢一派は5人だったといわれています。
芹沢鴨…近藤一派に八木邸で暗殺される。
新見錦…金策の責任を責められ切腹。
平山五郎…芹沢鴨と同じ日に殺される。
平間重助…芹沢鴨暗殺時に逃亡。
そして、野口健司


野口は芹沢暗殺事件の頃、なぜか芹沢一派との交流が疎遠になっていたのです。
近藤派に傾きつつあったとの説もあるのですが、芹沢暗殺後はまだ芹沢派としての認識が周りにもあり近藤勇や土方歳三にとっては厄介な存在だったのです。
しかし、野口には隊務に汚点もなく、無理矢理殺すしかなかったのでした。

芹沢暗殺から3ヵ月後、野口健司は隊内の規律を乱したという理由で切腹させられます。
前日から新年用の餅つきで大騒ぎだった八木邸の中で慌しく行なわれた切腹だったらしく、介錯人の林信太郎は野口の首を跳ねた後にすぐ餅をつきに現れたという話が残っているのです。
こうして近藤勇は芹沢派に邪魔されない新年を迎える事となりました。

150年前:長崎丸砲撃事件(12月24日)

2013年12月24日 | 何の日?
文久3年(1863)12月24日、薩摩藩の蒸気船「長崎丸」が関門海峡で砲撃され沈没しました。

長崎丸は兵庫港から綿を載せて長崎に向かっている最中で、ここには薩摩藩の技術者宇宿彦右衛門とその弟子たちも乗船していたのです。
宇宿は、島津斉彬存命中に薩摩藩で蒸気船や反射炉を建造し、写真技術の研究も行っていた正真正銘の薩摩藩近代化の頭脳でした。そんな宇宿を含む乗員28名が死亡しています。

この事件は、薩英戦争で外国と戦い攘夷の二大巨頭の一藩という顔をしていた薩摩藩が、実は綿を長崎に運んで海外との貿易をやっていると世間に報せるため、長州が薩摩藩の船と知っていて行った砲撃だとされています。
しかし、長州藩はあくまで海外の船と間違えて砲撃したという態度をとり続け、薩摩藩国父の島津久光がこの件で怒りをあらわにしているのを聞いて謝罪使を送ったのです。

薩摩藩でも密貿易をしていた弱みがあるので、この謝罪を受け入れることになるのです。

150年前:二条斉敬関白就任(12月23日)

2013年12月23日 | 何の日?
文久3年(1863)12月23日、二条斉敬が関白に就任しました。

4か月前に起った八月十八日の政変以来、朝廷は一会桑中心の政権を受け入れてきました。
そんな中で、母親が水戸家から輿入れしている二条斉敬は、一橋慶喜の従兄弟という関係になることが幕府の有利に働き関白に就任するのです。

二条斉敬は、徳川家茂が14代将軍に宣下されるときに朝廷の使者を務めた人物でしたが、水戸家に近かったために井伊直弼との面会を断られ、安政の大獄では慎を命じられました。
直弼の死後に復権し、朝廷での地位を固め、関白就任。
孝明天皇の崩御後は明治天皇の摂政となり江戸幕府崩壊時もその役を続けます。やがて王政復古の大号令で摂関制度が廃止されるとその役を解かれ、そのまま公から引退するのです。

11月22日、ケネディ大統領暗殺

2013年11月22日 | 何の日?
1963年11月22日、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが暗殺されました。享年46歳。

2013年でちょうど半世紀となり、娘のキャロライン・ケネディ氏が駐日アメリカ合衆国大使として来日してすぐでもあるので注目される事件でもあります。いまだに真相は謎であり多くの説が出ていますのが、それを論じるほど詳しくもないので、簡単な経過を書いていきます。


そもそも、アメリカ大統領には不思議な因縁話があります。就任する大統領が20年ごとに不幸が襲うというものです。
1840年当選 ウィリアム・H・ハリソン(第9代)
 1841年3月、大統領就任演説中に引いた風邪をこじらせて肺炎になり、 在任わずか1ヶ月後4月4日に死去。
1860年当選 エイブラハム・リンカーン(第16代)
 1865年4月15日、フォード劇場で暗殺される。
1880年当選 ジェームズ・ガーフィールド(第20代)
 1881年7月2日、ワシントンの鉄道駅でチャールズ・ギトウによって銃撃され、約2ヶ月後9月19日死去。
1900年当選 ウィリアム・マッキンリー(第25代)
 1901年9月6日、チョルゴッシュに銃撃され、 その8日後の9月14日死去。
1920年当選 ウォレン・G・ハーディング(第29代)
 1923年7月末からの旅行で重い食中毒を患い、肺炎を発症。 1923年8月2日、サンフランシスコのパレス・ホテルにて脳梗塞で死去。
1940年当選 フランクリン・ルーズベルト(第32代)
1945年4月12日、第二次大戦終戦前に肖像画作成中に脳卒中で死去。
ケネディはこれから書くので飛ばして、
1980年当選 ロナルド・レーガン(第40代)
 1981年3月30日、講演会で狙撃され負傷。
2000年当選 ジョージ・W・ブッシュ(第43代)
 本人が被害を受ける事件は公にはないが、2001年9月11日に9.11の同時多発テロを経験。
レーガンとブッシュは、ケネディの暗殺事件があったからこそ大統領を厳重に守るシステムがより大きくなり災難を逃れた可能性も否めないのです。20年のジンクスはこのように受け継がれています。


そんな20年のジンクスである1960年に当選した人物がジョン・F・ケネディでした。就任当時43歳で歴代大統領のなかでもっとも若く、かつ20世紀に生れた最初の大統領でもあったのです。
その若さと実業家としての家柄、そして数々の業績もあり、アメリカだけではなく世界で注目された大統領であり、マリリン・モンローとの関係も取り沙汰されていました。それほど注目されるということは敵もその分だけ居ることも暗示していたのです…


1963年11月22日、テキサツ州ダラスのラダス・トレードセンターでの演説のためダラス・ラブフィールド空港からオープンカーのリムジン(リンカーン・コンチネンタル)に乗り込んだケネディ夫妻は、そのまま郊外の演説会場までパレードを行う予定でした。
オープンカーは危険との判断から防弾ガラスのトップを着ける計画があり、ケネディは親しみやすさを強調してトップの装着を反対していたのですが、雨であればトップを着けるという提案で納得したのです。この日の天気は雨雄予報でしたが、ケネディ到着時には晴れたのでトップが外されたのでした。

正午、車は空港を出発。時速16キロというゆっくりとしたスピードでパレードが始まりました。
道中にはケネディに対する反対派のプラカードが掲げられたり、車の前に飛び出して取り押さえられえた男性が居たりしましたが、車はほぼ速度を変えず進んだのです。
出発から30分後、車はテキサス教科書倉庫に近づきます。そして3発の弾が発射されたのです。

定説では
1発は外れる
1発はケネディの身体を右肩下あたりに入り首のあたりから貫通して抜けて、急に変な曲線を描いて前の席に同乗していたテキサス州知事ジョン・コナリーの身体に入り怪我を負わせます(魔法の弾丸)
1発はケネディの頭部に命中して脳が後方に吹き飛ぶ
とされていて、テキサス教科書倉庫の5階からライフルで狙撃されたとなっています。

そして事件の80分後に現場近くにいたリー・ハーヴェイ・オズワルドが逮捕され、同日夜に再逮捕されました。


以上が事件の経過です。
最初にも書いた通り、管理人はこれを論じるほど詳しくありません。
しかし、ケネディ元大統領を死に至らしめた2発の弾丸については謎が残ります。
1つは、まっすぐにしか飛ばないはずの弾丸がケネディの身体から離れてコナリー知事の身体に入るにはそれこそ魔法の曲線が必要になること。これについては二人の座る姿で謎が解けるとか、ケネディの身体から出る時に弾道が変わったという説もなされていますが、奇妙ではあります。そしてこれは後ろからの狙撃でした。
もう一つはケネディの頭部を吹き飛ばしたあと、脳の一部や骨が後方に飛んでいること。これは暗殺の瞬間の映像でも確認できますし、そのすぐ後にジャクリーン・ケネディ・オナシス大統領夫人がリムジンの後方に這い出ています。これは逃げ出す為ともされていますが、ケネディの脳や骨を拾いに行ったとの証言が本人から出ています。こうなると前方のしかもそれなりに近い場所からの狙撃と考えられるのです。
この2発の弾丸は、大統領の背後と前方という正反対の2ヶ所から発砲されていることになります。しかし犯人は単独犯となっている。
大きな謎が残るのです。

150年前:ケティスバーグ演説(11月19日)

2013年11月19日 | 何の日?
1863年11月19日、アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンがケティスバーグの国立戦没者墓地で演説を行いました。

これは同地での奉献式で行われた演説で、組織委員長はリンカーンに対して短くて適切な演説を依頼していたのです。
この要請に対してリンカーンは適切に答え、272語1449字(ウィキペリア参照)という3分程度で終わって理しまう短い演説を行ったのです。
それが「人民の、人民による、人民のための政治」という言葉で知られる演説となり、アメリカ史上どころか世界史上にも記憶される言葉となったのでした。

しかし、演説が短すぎた為にリンカーンの演説が始まったことも終わったことも取材記者たちがほとんど気付かず、偶然リンカーンの言葉をメモしていた記者がいなければ、この言葉は歴史の闇に消えるところだったのです。

そして、この歴史的発言を行っていることに気が付いたカメラマンは居なかったので、演説中の写真は残っていないのです。

11月11日、筑紫国造磐井の乱平定

2013年11月11日 | 何の日?
継体天皇22年(528)11月11日、物部麁鹿火(もののべ・あらかひ/あらかい)が磐井との戦いに勝利し、筑紫国造磐井の乱(つくしのくにのみやつこいわいのらん)を平定し、磐井を処刑しました。

筑紫国造磐井の乱は528年に九州の豪族・磐井が大和朝廷に対して起した反乱で、大和朝廷から派遣された討伐軍六万と名将・近江臣毛野(おうみのおみけの)を相手に磐井は一年近く戦い続けたのです。
結局、磐井が敗北して斬殺されて磐井の乱は平定されるのですが、なぜ磐井が反乱を起したのかというと、当時の皇位が大きく絡んでいるといわれています。

当時の天皇は継体天皇といってその前の武烈天皇とは血の繋がりが薄い人物だった(全くの他人という説が強い)。
その他ために各地で反乱が起こり、継体天皇は皇位を継いでから都に入るまでに20年を要した程だった。のです
そんな頃、当時日本が支配していた朝鮮の土地“任那(みなま)”が百済(くだら)に奪われたために磐井が継体天皇への不審と自分でも大王(天皇)になれるかも知れないという野心を抱いたのでした。

磐井の勢力は巨大で、一年近い長期間を戦い続ける戦争は日本国内では古代に起こったこの例しか残っていない程なのです。


ちなみに近江臣毛野は近江では大きな勢力で、米原の山津照神社にある古墳や

古篠原(野洲)の藤ノ腰古墳は

この一族の古墳だといわれています。

150年前:芹沢鴨暗殺(9月18日)

2013年09月18日 | 何の日?
文久3年(1863)9月18日、芹沢鴨・平山五郎が暗殺されました。

この少し前、芹沢一派で浪士組三局長の一人だった新見錦が切腹させられています。
新見は芹沢一派として芹沢鴨が水戸に居た頃からの同志だったのですが、この頃の芹沢は新見よりも近藤勇に目を掛けていて、将来の禍になる可能性を考えて新見を見捨てたと言われているのです。

しかし、近藤勇は土方歳三の勧めで芹沢鴨を排除する運動を始めました。
事件当日、新選組は隊名を拝受した1ヵ月目の記念で宴会を開きますた。
この時、酒を浴びるほど飲んだ芹沢鴨は、平山五郎と平間重助を従えて壬生の八木邸に帰り、それぞれの愛妾と飲み直す事になったのです。
そして、それぞれ相手を連れて眠りに就いたのだった…

この日、京都は朝から雨が降っていて、夜は土砂降りになったと伝えられています。
八木家当主の息子・為三郎は、この日の事件を目撃し、後にこの事を証言しているのですが、何分子供の時の事だったので、記憶に多少の雑さは否めません。
そんな後日談と資料を紐解いて行くとこのような感じとなります。


夜の12時頃、芹沢の部屋を覗いている1人の人物が居た…
どうも土方歳三だったらしい。
この時の刺客は土方・沖田総司・山南敬助・原田左之助の4人というのが定説ですが、井上源三郎・藤堂平助・御倉伊勢武がその候補に挙がっています。
この内の4~5人だったそうです。
一般的に内密の暗殺劇の為に試衛館のメンバーで暗殺を行なったと言われているのですが、これはメンバーを見て後の史家が勝手に解釈しただけで、実際には秘密の守れる使える人物を使っただけの感じががします。

暗殺劇は瞬時に終わった。
芹沢が眠っている事を確認した後、暗殺者は部屋に乗り込み芹沢を何度も斬り付けた。
首は薄皮一枚で何とか付いていたとのこと。
芹沢と同衾していたお梅という女性も一緒に斬られ、すぐ近くで寝ていた平山五郎も殺されたのです。
平間重助はこの惨事から逃げのびています。


平間重助はその後どうなったのか?
普通、こういう人物は自分自身も身を隠してしまい後日談はあまり残らないのですが、平間にはちゃんとした記録が残っていて、この後、明治23年旧暦9月6日に脳溢血で亡くなった事が、平間が亡くなった家の者から報告されていて、それは当時の地方紙にも取り上げられたそうです。
その報告によると、平間は姓を諏訪部と変えて小学校の養蚕巡回教諭をしていたそうですが、特に身分を隠す事もなく請われると新選組の事について話す事もあったといわれています。
こうして、平間重助は芹沢一派として唯一天寿を全うする事となったのです。