彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:薩英戦争(7月2日)

2013年07月02日 | 何の日?
文久3年(1863)7月2日、薩摩藩とイギリス艦隊のによる薩英戦争が起こりました。


6月27日、鹿児島湾に投錨したイギリス艦隊7隻は、そのまま薩摩藩に対して交渉を持ちかけました。
これに対して薩摩藩は29日になって、生麦事件では行列を横切ったイギリス人側に非があると回答しニール代理公使の主張が正当性に欠け、また犯人がまだ捕まっていないことを伝えました。そしてニール代理公使が鹿児島に上陸しての交渉を持ちかけたのですが、ニールはこれを拒否したのです。
この時、薩摩藩士が西瓜売りに変装して船に乗り込むという策も練られたのですが、イギリス側の機転でこれは未然に防がれました。

29日の回答時点で開戦を決意したのは薩摩藩でした。
翌日の7月1日、鹿児島城下の老人女子供の避難を藩が触れます。そしてイギリス側も水深調査を行ったのです。この時に台風が近づいていることがわかりました。


7月2日午前3時、イギリス艦隊は鹿児島湾の奥に侵入します。台風を機とみて薩摩藩の蒸気船天祐丸・青鷹丸・白鳳丸を拿捕、薩摩藩士五代友厚と寺嶋宗則が捕らえられたのです。イギリスはこの二人を交渉の切り札に使う予定でした。
この報せを受けた薩摩藩は正午になって砂揚台場から砲撃を開始し、これを合図に薩摩湾内の砲台から一斉に砲撃が始まります。そして台風の暴風雨も一層勢いを増したのです。
ニール代理公使は、蒸気船の拿捕によって薩摩藩が弱腰になると確信していたのですが、予想に反して砲撃を受けたことに困惑します。
そして拿捕した蒸気船3隻の積み荷を旗艦ユーリアラス号に移して3隻を焼き払ったのです。ユーリアス号には先に幕府から受け取った賠償金も載っていました。この行動が2時間かかってしますのです。

ついにイギリス艦隊も反撃を行います。ここで実戦で初めてアームストロング砲が使用されたのです。
イギリス艦隊は薩摩藩の砲台を次々に砲撃し使用不可能にしていきます。しかし台風の影響で操作を誤って1隻で先行してしまったユーリアラス号が薩摩藩の集中砲火を浴びるのです。
これにより旗艦艦長ジョスリング大佐および副長ウィルモット中佐が戦死、パーシュース号は錨を切って逃げなければならない状態になり、レースホース号は座礁して自力走行ができなくなったのです。
イギリス側の死者は11人とも13人とも伝えられていますが、旗艦艦長と副長が戦死したことを受けてイギリスの『タイムズ』は“』」、「死者11名負傷舎39名のリストは、われわれの敵が大君自身ではなく、その無法な部下の一人にすぎぬことを考えると大きすぎたとも言えよう。またこれは、われわれの小さな勝利に要したコストのすべてではない。というのは11名の死者のリストの中に艦長ジョスリングと”ウィルモットの名前があるからだ」(宮地正人『幕末維新変革史』より)と述べていて、この後に日本人がアームストロング砲を手に入れたらそれに改良を加えるであろう国民性は我々にとって愉快ではないが、知性と未来への運命への確信が敬意を呼ぶとしています。
イギリスは、アームストロング砲によって多くの台場や集成館そして鹿児島城下の1割と琉球船5艘を焼いたことで鹿児島湾から抜けて翌3日に桜島付近の台場も破壊、この時寸でのところで薩摩藩の水雷を回避し、4日になって横浜に向かって帰港したのです。

こうして薩英戦争は終わりました。イギリスは様々な戦果から勝利を宣言していますが、薩摩藩側もイギリス艦隊を退却させたと主張していて、勝敗が確定できない形だったのです。


従来は、薩英戦争によって薩摩藩は壊滅的なダメージを受けて、そこから西洋の文化を学び、最新鋭の兵装を完成させたといわれていますが、薩摩藩では前藩主島津斉彬の時代には西洋文明を取り入れていて、薩英戦争での被害をきっかけに、攘夷派に対して強く意見ができる状況を作るkとができ、それにより表立っての西洋化ができたのではないかと考えられるのです。


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