晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

穴虫考(75) 馬場町-4 6/2

2014-06-03 | 地名・山名考

2014.6.2(月)晴 
 考察
 たった1回の訪問で、しかも数時間穴虫という小字を探し回っただけで考察が出来るとは思わない。考察というよりは考察するために次に何をすべきか、何を調べるべきかを考える作業である。ただ問題は次に訪問できるか否かだ。その前に未訪の穴虫をまず訪ねてみたい気持ちがあるからだ。いずれにしても今回の訪問の結果を総括しておこう。
 
 地名は消える
 いみじくも史子が、「あのおじさんが亡くなったら誰にも解らなくなって、地名って消えてしまうんやね」と言った。郷土史や役所に眠っている古い地図に小字名が残っているかも知れないが、少なくとも公にされている地図や文書には旧字名はない。穴虫は馬場町57?番地なのだ。地元に住む人だって、若い人は誰も知らない。田んぼや畑を耕作している人たちは字名や小分け字名をを使っているかも知れないが、その人達が亡くなったらその地名も忘れられてしまう。そして何の意味も無い番地が残るだけなのだ。
 高島市が合併した時に、決まっていた市名は西近江市だったそうだ。高島郡の町々が合併して西近江市になったら地名の意味は無くなってしまう。高島には、吉田金彦氏が「川の上流に栄えた高貴な特別区」と解されている。(京都・滋賀 古代地名を歩く)高島の住民が西近江市を破棄して高島市と命名されたことは素晴らしい選択だったと思う。
 今ここで志津村馬場字穴虫の位置を活字に残しておくことに大きな意義を感じている。

 穴虫はどんなところか
 草津市の遺跡目録を見ると穴虫遺跡は中世の遺跡で土師器、須恵器、中世陶器の散布地とある。馬場町の他の遺跡もすべて中世の遺跡で、古墳や古代の出土物は無いようである。周囲には古墳や製鉄遺跡など古代の重要な遺跡が存在するのに、この一角だけが空白となっているのは意外だ。P1030067

 

小槻神社(青地町)の石垣には古墳の石材が使われている。部田古墳群のものらしいが、すぐ近くには古代の遺跡が多い。
 なぜそうなのかは解らないのだが、今まで調査してきた穴虫が、古代の重要な地域、またはその近隣に存在していたので穴虫は古代の地名という風に思っていた。もし仮に馬場町の文化が中世から始まっていたとしたら、穴虫は中世以降に作られた地名となるし、古代からあった穴虫という地名がその意味を伝えたまま中世に使われたかということになる。地名には年代を示す物的証拠がないものだから、永遠に謎なのだが、わたしは後者の使われ方を支持したい。ただ、それが意味するものは年代がたつにしたがって変化することも考えたい。
 もう一つの考え方は、例え古代の遺跡がなくても古代人が居住していた可能性が無いわけではない。ただ、著名な氏族とか文化人ではなく、歴史の表舞台に出てこない庶民層と思われる。穴虫が庶民にとっての意味のあるものであったら、穴虫は古代からの地名と考えてもよいだろう。つづく
【今日のじょん】
蛇忌避剤5日目。今日も絶好のひなたぼっこ日和だが姿が見えない。そろそのその効果を認めざるを得ない時期に来たが、一応1ヶ月有効と書かれている。1ヶ月も似たような写真を見せられても退屈だろうから、変化があった時に紹介P1030082 することにしたい。 
 

 

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