2013.12.26(木)曇り、雨
「康富記」によると中原康富は氷所にあった代官所に何度も出かけており、訪ねた場所の地名として、丹州佐伯庄、丹州佐伯隼人保、桑田郡内佐伯庄大田杜、佐伯内隼人保氷所、丹州隼人保内松本下地、丹波大田隼人司領などが記されている。(畿内隼人の遺跡と伝承、江谷 寛)
実際に隼人が居住していたのは、丹波国佐伯郷で現在の亀岡市稗田野町太田、佐伯から曽我部町穴太(あのう)、犬養あたりとしている。つまり佐伯内隼人保氷所とあるように、中原康富のいう丹州氷所とは八木町の氷所(桑田郡池辺郷)とはまったく別物で、桑田郡佐伯郷の隼人保内に氷所があったもののようだ。これは実に混乱しているようで、江谷氏も研究者の間でも混同があるので注意されたい旨書いておられる。
例えば角川日本地名大辞典では「佐伯郷内大田付近には隼人保があった」としながらも、氷所(八木町)の欄に、「保名としては『康富記』嘉吉3年4月16日条に「丹州氷所保」とあるのが初見。」と書かれており、混同されているようだ。氷所の欄を読み進めていくと、泰井山(日置山)に関する紛争なども出てきて、ますます混迷してくる。どちらにも氷所があったとするのが最も妥当だが、そのいずれにも康富が関わっているとは考えにくいのである。
日置から氷所にかけての紅葉山、龍王ヶ岳の山並み。泰井山というのがどの山なのかは解らない。
佐伯郷に隼人保があったとするのは間違いの無いことで、隼人移配地に共通する地名が随所に見られる。佐伯、穴太(あのう)、犬養、犬養川、宇津根(余部町)、犬甘野(西別院)などだが、氷所(八木町)や氷室のある神吉にはこれらは見当たらない。
ここまで進んで、康富の記する氷所について混乱している自分に気づく。
隼人保があったのは桑田郡佐伯郷であり、その隼人保内に氷所が存在した。そして隼人正の中原康富はこの地を何度も訪れている。
八木町の氷所は隼人とは何ら関係もないのだが、「康富記」には八木の氷所に関する記事が書かれているようなのである。両所に氷所があったと考えるのは妥当だが、そのどちらにも康富が関連していたとなると、これは混乱、混同するのは当然のこととなってくる。
これ以上真相に近づくとしたら「康富記」を読み解く事が必要となる。しかし日置の探究にとってあまり脈絡はなさそうなのでここまでにしたいが、想像として、中原康富が氷室の運営に関わっていたとしたら謎が解けると思うのである。つづく
【今日のじょん】今日はおかーは京都に出かけるし、帰ってきたらすぐに忘年会と称してしまだやさんに?みに行くし、雨は降るしオモロナイワ。
また、「少所]は「氷所」ではないと考えています。
「少所」は、管見では『康富記』では二か所で出てきます。
応永27年11月10日と宝徳元年11月30日です。
わたくしはこの「少所」は謙遜の意味なのではないかと思っています。
詳しくはブログ「千曲滔子」で検索してみてください。(「康富記」「少所もkeyWord」)
リンクしてみたのですが、うまくいきません。また、トライします。