晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大成・三郡山の考察(7) 4/7

2012-04-08 | 歴史・民俗

2012.4.7(土)晴

 (4)続・大成の廃村の状況について

 廃村大成を見て知って驚いたのはそこが決して山奥では無いと言うことだ。現在の状況で見れば、村の中心部から最寄りの鉄道駅立木まで直線距離で1,2Km、国道27号線まで2Kmの位置にあるのだ。実は由良川沿いに京丹波町和知に入り3Km足らずの間に左岸に四本の谷が南に走っている。大成川(おおなるがわ)、大簾川(おおみすがわ)、草尾川(くさおがわ)、そして塩瀬から三峠山に至る川(河川名未確認)である。そして大簾を除く大成、草尾、塩瀬の集落が廃村となっているのである。草尾、塩瀬の由良川からの距離は大成よりも近いようである。
 廃村というとどうしても廃村八丁のイメージがあってやむを得ないかという感がするのだが、現在であれば京都市への通勤も可能かと思われるこの地のしかも三集落が廃村となっているのは不思議というか割り切れないものがあるのである。
 例えば上林など最奥で由良川から30Kmも離れており、鉄路も国道も走っていない。そして幹線の府道1号線からさらに何キロも入ったところに集落は存在しているのだ。しかし伝説の生守村(いもりむら)以外に廃村となったところは聞かない。これは一体どういうことだろう。一般的には八丁村のような交通不便な辺鄙な山奥が廃村となるように思うのだが、現実にはそういうものでも無いと言うことだ。
 里山ねっとあやべでもらった資料、「丹波高地における廃村化と耕地荒廃の過程」(坂口慶治、地理学評論47-1)という論文はこの三地域について立地環境、耕地の状況、挙家離村の過程等々詳細に調査されている。特に個別の家についてその位置、耕地や職業、離村の年、移転先等々調査分類されている。そして隔絶性や耕地荒廃など廃村の原因について考察されているが、内容が膨大なだけにここに記することが出来ない。
 大成を出られた方が、38豪雪が引き金になって昭和41年に集団離村となったと言われていたが、それは雪の量ではなくて孤絶が主な原因なのでは無いだろうか。量だけなら上林など比では無いだろうが、地形的なものあるいは村に残っている人数の違いで孤立の度合いが低かったのではないか。
 一説には、安栖里(あせり)という変わった地名は斜面が山にせり上がっているという意味があるそうだ。Img_3287

JR安栖里駅


  大成、草尾が廃村となった1966年(昭和41年)といえば地方といえどもモータリゼーションの波が押し寄せようという頃なのだが、大成に向かう道は谷の徒渉を繰り返す山道だったということで、道路の整備が出来なかったのはその傾斜のせいではなかったか。Img_3676
 
国道27号線から大簾、草尾方面。


 同様に電化の波も押し寄せていたが、道が山道では冷蔵庫も洗濯機も背にして登るしか無い、そんな苦労の無い生活が極近くの眼下に見えたとき、離村という重大な決意をされたのかと想像するのである。
 同じ地域にある四本の支流の内、大簾が廃村に至ること無く存在していることは、傾斜が緩いため道路が整備されてただろうことが論文の中にある。村の存廃を分けたのは山の傾斜による道路事情の違いなのかも知れない。おわり。

今日のじょん:今朝も草を食べているので写真を撮ったらバックに梅が写っている。思い起こせば4年前の3月23日、この地に来たとき満開だったので、今年は半月の遅れがある。桜はまだまだつぼみかたし。Img_0442 
 2008.3.23



P1010465
本日。

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