晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

最勝河原-3 7/8

2017-07-07 | 上林たんけん隊

2017.7.8(土)晴れ
 最勝河原の河原は紙屋川ではないかと思っている。1975年に郵便局に就職したときは郵便課の配属で差し立て(全国に郵便物を送り出す)と配達(区内の配達)の区分が主な仕事であった。退屈な作業なのだが、区内の通りや地理は憶えられるし、全国の市名や郡町名を憶えることが自動にできた。紙屋川という地名をわたしが憶えているのは紙屋川という通り名か河川名が配達区分の地図上に載っていたのだと思うのだが、現在の地図や地名辞典をみても中京区内には現れない。配達区分図の左上、西ノ京の北の方に紙屋川の記載があったように思う。ところが紙屋川通りという通りは見つからないし、紙屋川は無くてあるのは天神川である。そしてその天神川は現在のところ、太子道付近から西に流路を取り、天神川通りに沿って南下しているのである。角川日本地名大辞典をみると、天神川は流域によって様々に呼ばれ、かい川、かえ川(柏川)、荒見川、仁和川、神谷川、西堀川、高陽川、鳥羽川など多彩である。太子道あたりまでを紙屋川と呼んだそうだ。やはり最勝河原の川は紙屋川であったかと思ったが、天神川(紙屋川)の流路はあまりにも離れすぎている。ところが平安京造営時に朱雀大路を挟んで、東堀川(現堀川)と西堀川が開削されたと書かれている。堀川とは名のとおり人工に掘られた河川、つまり運河のようなものであるが、どうやらこの西堀川が御土居の西あたりを流れていたらしいのだ。明治25年の仮製図では太子道付近で二分し、一つは西大路四条下るあたりまで南下していた、とあるのでそれが西堀川の痕跡であろう。
 三条から西土居通りを下がっていくと六角通りに出る。東に進み後院通りを越えると六角獄舎跡がある。ここは宝永年間に移転したものだが、西円町にあったとされる右獄は平安時代に遡るものである。これらが直接最勝河原とは関わりは無いが、太子道にあった西土手刑場は関わりがあったと考えられる。
 六角西土居のすぐ西に斜めに西大路に向かう細い路地が見える。升目に沿って道路がある京都では何か不思議な感がする。いかに洛外とはいえ気になるなあと思っていたところ、「京師五三昧考」の最勝河原の略図に斜めの道路が記載されていることに気づいた。



六角通りから路地の入り口。


路地を出たところから蛸薬師通りを望む、東から来た蛸薬師通りとは直角に交わらない。
 その位置から推察すると、西土居通り六角あたりから南西に走り、蛸薬師通りから真西に向い佐井通り(平安京佐比大路)に突き当たっているのだ。現在の地図に照らし合わせると、斜め下半分が西大路通りに埋没しているが、西大路蛸薬師西側が北に跳ね上がっていて、六角からの斜めの道につながるようである。つづく

【今日のじょん】親鳥がびっくりするのでじょんを近づけないようにしていたのだが、覗いてみると巣はすっかりからになっていた。そんなすぐに孵化して巣離れするものなのか。やっぱり蛇に襲われたのか?なんとも悲しい気分になる。
空の巣はさみしいもんだぜ、そんなのカンケーねえ。

 
 

コメント
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