2011.10.23(日)曇、雨
地名や地史についての研究論文がウェブサイトで多く流れています。その中には大変熱心に研究されているものもありますが、明らかに他のサイトや文献のみを資料として編集されているものがあります。いわゆるフィールドワーク無しに机上で編集された研究論文です。そういったものは中身が無いか、あっても軽薄なもので少し読んでみればわかるものです。
犯罪捜査の刑事ものの小説などに「現場百ぺん」という言葉が出てきます。何度も現場を訪ねて、自分の目で見る事によって新しい発見、新しいヒントが出てくるということでしょう。事ほど左様に今回の峠考も再度訪問することによって新しい発見、新しい構想がありました。従って前回までの考察が覆っていることもあります。それがアマチュア研究者の良いところであって、学者大先生のように持論を覆したからと言って命取りとなるようなことはないのです。
さて、今回10月21日の大栗峠再訪で発見、あるいは再確認したことは次のとおりです。
峠の岩室にあるお地蔵様左をa、右をbとします。またお地蔵さまの岩室の後ろに倒れている石柱をc、ハイキングコース整備時の看板をd、弓削道の山田方面への分岐石柱をeとします。
わかりやすいように大栗峠の図を書きました。クリックして大きくして見てください。
aの台座にある銘文について
施主 ワチ 川合 村中 カンバヤシ 志古田 村中 同 長野村中
であり大栗峠考(1)(2011.7.26)でその後に文が続いているように書いていたが、以上の通りの文でした。
bの台座にある銘文について
台座の前に大きな石の台があり、銘文が隠れて見えません。木切れなどで土を取り除いて限界まで読みました。これ以上はバールなど用いて石をどける必要がありますが、一応書かれていることは解読できましたので良いかと思います。
右 志古 わか 左 城下 奉納地蔵口口
右 志古田 わかさ と書かれているようです。
cの石柱の銘文について
(表) 右 わち 左 志こた 上部に梵字あり
(裏) 文政七申 十月吉辰
本願
山田村世話人中
阿波国 行者 長治郎
eの石柱の銘文について
(表) 文政七申 右 ゆけ道
南無大師遍照金剛
十月吉日 左 志ろ下
(裏) 願主 世話方中
山田村 助左エ門
阿波国行者長治良
山田村 助左エ門とは念道の小林さんの親元の家系に当たるということで、今回裏書きを確認するよう頼まれていたところです。
つづく(大栗峠考(6)は2011.8.1)
【作業日誌 10/23】
倉庫棚作り
椎茸小屋草片付け
今日のじょん:朝起きてゆくと、階段の下でお座りして待っているのだがこの時だけ妙な声を出す。クンクンでもワンワンでもなく、「おうお~ん」というのに抑揚がついておとー、おかーに一声ずつ発するのだ。どうもこれは「おはよう」と言ってるようで、毎日云っていたらオームみたいにしゃべるようになったのではなかろうか。