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晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

バイクトラブル少々 4/11

2007-04-18 | 旅行記

 2007.4.11(水)快晴   
   
 7:00 起床 
 9:00~10:40 自転車整備~山口大学埋蔵文化財資料館~中原中也記念館~
            松田公園~
16:00 KKRあさくら荘(湯田温泉)着

  今日はかみさんが山口に来るというので、KKRに宿を確保し、自転車整備をする。前半戦はまめに自転車整備をしたが、最近は調子がいいのと天気がいいので整備をさぼっていたのだ。歯ブラシとタオルで汚れを落としながら点検をして行く。すると、後部キャリアのビスがはずれて、キャリアが浮いている。また、後輪タイヤのサイドのヒビがかなり大きくなっている。前後輪は同様のタイヤを同じように交換したのだが、やはり後輪に対する負担が大きいのは致し方ない。しかし、このタイヤは耐久性に問題がある。最初に使ったフェミスファーEXは実に耐久性が良かった。しかし在庫が無いと言うことで、使っていないのだ。いずれにしても、日常の点検、整備は必須である。異常部分を早期に発見して対処することが如何に大切か思い知らされた。
 レンタカーを借りに山口大学の前まで行くと、ナカムラサイクルという自転車店が見つかった。ビスはあるだろうけど、タイヤもサイズの合うのがあれば換えてしまおう。これから、中国、四国の山中へ入っていくのだから、換えられる間に換えることが有効だ。オンロード用の期待するタイヤは無かったが、オフロードのタイヤがあった。思い切って交換する。
 山口大のキャンパス内にある埋蔵文化財資料館で弥生時代の稲作の実験を展示しているので見学に行く。大学は画期的な実験とチラシやパンフを作って特別展をやっているが、結構あちこちの博物館などでやっていることで、珍しいことではない。能登遺跡や最上の遺跡でもやっていた。研究員にかつての疑問、古代における漢字文化の移入の遅れを質問したが、そんなこと解ったらとっくに博士になっているとお笑いで終わってしまった。Img_4150 Img_4153
 
山口大学埋文資料館と中也記念館



 続いて中原中也記念館に行く。湯田の地は三度の訪問をしており、最初は30数年前大和農園の出張で訪れ、その際高田公園の帰郷の詩碑を見に行く。次の訪問はいわゆる温泉旅行で飲み食いだけで帰ってしまう。いずれにしても中也記念館などは無く、今回が初の訪問である。生家の地に建てられており、訪れているファンも多い。私は10代からの中也ファンで全集が揃っているのは中也全集だけである。高田公園には中也の帰郷の詩の碑があり(原文とは違うのだが)30余年前には中也の面影はここしかなかった。それが今は記念館や喫茶店、地ビールまで出ている。かつての高田公園は殺風景な公園であったが、足湯や各碑の説明板なども整備され、おしゃれな公園となっている。Img_4154 Img_4157 Img_4156





左:中也帰郷の詩碑  中:足湯ができた。  右:高田公園
   
走行距離7Km  累計8,541Km  経費7,140円

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2号線はたまらない 4/10

2007-04-18 | 旅行記

 2007.4.10(火)快晴   道中21度
   
 7:00 起床 
 9:20 火の山YH発~R9~下関市立長府博物館~R2~R490~県道231~
県道28~R9~
17:30 YHパルトピア山口着

  火の山ユースホステルは関門海峡の真横にあり、宿からは海峡と関門大橋が望めて最高のロケーションである。それにしても狭い海峡である、向こう岸まで1Kmぐらいか、その間を大船、小舟がひっきりなしに通過する。衝突防止の汽笛の音があちこちで響いている。どのくらい通過するものか5分間数えてみる。2回数えたが、共に5隻の大型の船が通過した。1分に1隻の割である。よく衝突しないものですねえとスタッフに聞くと、「衝突しますよ、この間も船が沈んで遺体が出たことがありました」だって。Img_4111

YHの部屋から関門海峡

 下関は歴史的にも重要な位置にあるので、名所旧跡が沢山ある。面白いものは床屋発祥の地で、立派な碑が建っており、碑文がまた面白い。床屋の発祥は鎌倉時代にさかのぼり、藤原基晴なる人物が初代の床屋らしい。その家に亀山天皇と藤原家先祖を祭る祭壇があり、「床の間のある店」転じて「床場」「床屋」という屋号となり、床屋が全国に広まったということである。
 火の山のあたりはみもすそ町という町名で、「今ぞ知る 身もすそ川の 御ながれ 波の下にもみやこありとは」という二位の尼辞世の句から地名が生じたということである。
 国道9号線を東に進むと、道路下の海岸に井戸が祭られており、平家の一杯水と言われている。
壇ノ浦の戦いで命かながら泳ぎ着いた平家の武将が水たまりを見つけ、一杯飲んだところ真水で、もう一杯飲もうとしたら潮水に変わっていたという伝説がある。今でも平家ゆかりの赤間神宮の若水として使われているそうだが、いまは真水なのか、塩水なのか味わってみたいものである。 Img_4101
Img_4115 
床屋発祥の地と平家の一杯水



 長府まで行くと功山寺(こうざんじ)という禅寺があり、高杉晋作挙兵の地として有名である。境内に市立博物館もあるので、立ち寄ってみる。功山寺には国宝の仏殿や山門など見所があるが、境内に名水があり、晋作らも飲んだという。折から桜が名水に舞い、素晴らしい光景となっている。

 名水に はなひら浮かべ ささとならむ     うとく

 市立博物館は建物自体が博物館で、特に幕末関係の貴重な資料が展示してある。狩野芳崖は下関の出身で、掛け軸などが無造作に展示してあるところがこの地の文化の奥深さを思わせる。Img_4129 Img_4126 Img_4133





左:国宝仏殿  中:名水  右:下関市立博物館
 国道9号線から2号線に入り、ひたすら東進する。厚狭バイパスの途中でユースホステルでもらった昼食のおにぎりを開く。包み紙に「体調は大丈夫?無理せず楽しい旅を、安全運転で、、、また来てください」の激励文有り、本当にありがたい。流石に幹線道路であり、もの凄い交通量で、特に大型トラックが多い。最初は広い歩道があり、そちらを走るがやがて、細くなり、無くなってくる。宇部市舟木というあたりで、「こんな狭い歩道で、トラックがガンガン通り、私は今一度通過するだけだが、生活している人や、通学の子供達はどうしているのかなあ」と思っていたら、新一年生らしいぶかぶかの制服を着た子供達が集団で下校してきた。すぐ横を恐ろしい大型トラックが次々と通り過ぎてゆくのである。たぬきやきつねしか通らないところに高速道路造るより、子供達が安全に通学できる道を造るのが先決だろう。Img_4137_1
 
この歩道じゃたまらない。


 私自身も大型トラックに疲れ果てて、脇道の国道490号線に逃げる。するとどうだ、さっきまでの轟音は消え去り、遅い桜を楽しみながらスイスイ走れるのだ。少々遠回りになっても、峠があってもこの方がずっといい。2号線なんて走るもんじゃない。峠の県道に入ると車はもっと少なくなり、道ばたにお地蔵さんや馬頭観音などが現れてくる。こういう道が大好きだ。
 湯田温泉は20年ほど前家族で来たことがあったが、こんなに賑やかだったろうか。中原中也の記念館なども出来ており、明日が楽しみである。
   
走行距離84Km  累計8,534Km  経費2,252円

★峠列伝(40)国木峠(142m)山口県宇部市県道231号線 困難度 2
 風景  3  水場無し 細い道、交通量ほとんど無しImg_4141 Img_4145

桜満開の県道と国木峠

★パルトピア山口YH 防長青年館の経営するユースホステル 一泊朝食付き3,780 円 職員さんが親切で気持ちの良いYH。無銭LANサービス有り。

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関門人道 4/9

2007-04-18 | 旅行記

 2007.4.9(月)快晴 
   
 7:00 起床 
10:10 東横イン小倉南口発~松本清張記念館~小倉城~小倉城庭園~R 3~
関門トンネル人道~下関~
16:30 火の山YH着~下関市内

  九州最後の日が来た。3月5日に徳之島に入ったので、一ヶ月以上滞在したことになる。
名残惜しさもあって、小倉城を訪れる。すると松本清張記念館なるものがあるのだ。九州生まれとは知っていたが、この地の出身とは知らなかった。私の書架には「Dの複合」と「考える葉」の古本がある。文学者の記念館など面白くも何ともないのだが、清張は別だ。彼の社会派としての作品は格別である。面白くなくても行かねばなるまいと思って行ってみると、記念館の作製したドキュメンタリー「日本の黒い霧ー遙かな照射」という映画をやっており、面白いの何のって、すっかり満足してしまった。Img_4059
帝銀事件、下山事件、松川事件、に「黒地の絵」であつかった黒人兵集団脱走事件を加え、日本の敗戦と松本清張の戦後をドキュメントとして上映しており、80分があっという間の佳作である。恥ずかしながらこれらの作品を読んでなくて、おぼろげにしか理解していなくて、特に小倉の黒人兵集団脱走事件などまるきり知らなかった。帰ったら是非読みたいと思うが、やはり清張の好きなところは、権力、時に国家であり進駐軍であり、大企業であるところの支配者によって、虐げられあるいは殺されてきた抵抗すら出来ない弱くて小さい市民の立場に立って、彼らを告発しているところである。
 一方で古代史における彼の推理力というものは超人的で、学者の枠を持たない発想は実は歴史の真実に一歩近づいているのかも知れない。遺作「吉野ヶ里と邪馬台国」も帰ったら読んでみたい。いや、今読んだらいいのだが、もうバッグは道中に買った本でふくれあがっているのだ。毎日晴天で雨読が出来ないので、困っているところだ。
 帝銀事件について、戦後のどさくさの中で起こった凶悪な事件で、平山被告の冤罪事件として社会問題化していたのであるが、実はその裏に七三一部隊とGHQの裏取引があるのだという彼の論には驚いた。七三一部隊については戦後日本のタブーとして世に出ることは無かったのであるが、赤旗紙による連載や出版物によって知るところとなった、旧日本軍の細菌兵器研究機関である。中国人などの人体実験を行い、将に戦犯として処刑されるべきところが、誰一人裁かれることなく、製薬会社等で要職を占めているということである。帝銀事件に使用された毒物が青酸カリではなくて、青酸ニトリールである点について、当初警察は七三一部隊関係者を洗っていたそうである。青酸ニトリールは徐々に死に至る毒物で、国内における七三一部隊と言われる登戸研究所で開発されたもので、最初から兵器として開発された薬品が一般に手に入るものではないのである。ちなみに登戸研究所は現在の明治大学の農学部で、今でも当時の建物が残っている。今回の旅で写真に納めるべく小田急に乗ったが、腰痛のため訪問できなかったところである。GHQは七三一部隊の残した細菌兵器の資料が欲しかったのである。免罪と資料提供の裏取引がある以上、事件として七三一部隊が表沙汰になっては都合が悪いわけである。将に目から鱗の話である。詳しくは小説帝銀事件を読むこと。
 ついでと言っては語弊があるが、小倉城、小倉城庭園を訪れる。小倉城は細川忠興公による築城で、唐造りと呼ばれ、破風のない独特の造りなのだが、再建された天守は破風があり普通のお城風である。何のための再建かよく解らない。細川家は熊本に移り、小笠原家が小倉に入り明治維新まで続くわけだが、作法の小笠原流はここから来ているそうである。庭園は遺跡を元に再現されており、丁度桜の散り時で中々の見応えである。
 
 はなひらの 泳ぎ着きたる 懸造り    うとく

  にらみたる 石に舞い散る さくらかな  うとく

二首を投句する。懸造りとは書院の広縁が池に張り出しているところである。また、城内八坂神社にある大石は中津門口にあった石で、にらむと成功するというので石にらみと言ったそうである。Img_4076 Img_4074
Img_4071




左:桜は満開、天守は工事中  中:小倉城庭園  右:八坂神社の大石(石にらみ)
すっかり時間をつぶしてしまい、二時半となっている。行動食のアップルパイをほおばって小倉を去る。長崎で知ったことであるが、広島に次ぐ原爆は当初小倉兵器廠を狙ったもので、天候不良のため長崎に落とされたのである。また、最終決定の前の段階までは京都が第一目標になったいたそうである。運命というのは紙一重で変わるものだ。
 門司まではすぐに着くと思ったが、中々着かなくて車も多くてはらはらする。門司からは関門トンネル人道があり、歩行者、自転車、原付が海を越えることができる。自転車は押して行くべしなのだが、誰もいなければ乗ってやろうと思っていたら、トンネルは凄い人気で、ジョギング、散歩、観光の人が続いている。自転車の人もみんな押して歩いているので、ずるはできない。登り下りはエレベータで海底歩道部分が780mである。真ん中に福岡、山口の県境があり、変に感動する。下関側に着くと、料金ボックスがあり、原付と自転車は20円、歩行者は無料である。これも正直に納める。Img_4089 Img_4091 Img_4095





左:県境のあたり  中:下関側料金所 右:この下を関門トンネルが通っている。

Img_4093
  
走行距離28Km  累計8,450Km  経費5,697円

★下関火の山YH  一泊朝食3,530円 公営で設備完璧、何よりロケーションが最高。スタッフの心遣いが嬉しい。

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