晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

原爆の脅威 3/29

2007-03-30 | 旅行記

 2007.3.29(木)曇り 26度
                      
 7:00 起床 
 9:00 長崎カトリックセンターYH発~長崎原爆資料館~長崎原爆死没者追悼平和記念館~長崎市歴史民俗資料館~長崎医科大学門柱~山王神社一本鳥居~聖徳寺下原爆柳~県立歴史文化博物館~日本二十六聖人殉教の地~原爆落下中心地~浦上天主堂~
16:15 長崎カトリックセンターYH着

 怪しげな空模様なので、行きたいところから先に行く。先年広島の資料館は一日掛けてじっくり訪問したので、今回の旅で行かないかも知れない。それで長崎はまづ訪れてみようと、いの一番に訪ねる。真っ黒に焼けこげた死体、既に骨となっている死体、全身のケロイド、手足や首の吹き飛んだ写真など、この世のものとは思えない地獄絵図が展示されている。合わせて鉄骨や階段、橋の銘板、火鉢や洗面器などの日用品に至まで被災時のあらゆる物が展示されている。あらゆる方面から原爆投下の影響を分析展示してある。そして現在の核の現状、問題点、私たちが何をすべきか提起しているのは長崎ならではの発想か。長崎に投下された原爆はファットマン「ふとっちょ」のニックネームのごとく天上まで届く大きなものだが、現在の核兵器は格段に破壊能力は優れていて、プラモデルのように数十センチの大きさなのだ。非核保有国であっても手にすることができる。世界中の核兵器で地球を十数回破壊することができるということである。愚かしい事ではないか。
自らを滅ぼすことは無いとして、人間の叡智に対し期待する考えもあるが、私は期待しない。人間にそんな叡智があれば、長崎のような悲劇も無かったであろうし、巨大な軍事費の影で大部分の人間が飢えているという現状は出てこないだろう。人類はその愚かさでもって自らを滅ぼしてしまうものだと私は思う。Img_3665
Img_3664
原爆資料館と歴史民俗資料館



 資料館は当然撮影禁止なので、市内に残る原爆の遺物を探すこととする。一部はガイドブックにも載っているが、自転車でぐるぐる回っていればあちらこちらにあるものだ。大切に保存していただきたい。市立、県立歴史資料館は長崎の南蛮貿易などが主流で、私にとってはあまり興味のあるものではなかった。
 医大正門、一本鳥居、浦上天主堂のドームなど一見して原爆の脅威を感じることができるが、やはり爆心地のモニュメントは強烈である。傍らに浦上天主堂の遺壁もあり、爆発のすごさを思い知らされる。Img_3666 Img_3669 Img_3688










左:長崎医大正門  中:山王神社一本鳥居  右:浦上天主堂遺壁
 
 近年、アメリカの資料から、原爆を投下しなくても日本は降伏していただろうという見方が出てきている。資料館でも科学者、軍関係者からそのような意見や論文が存在したことを展示しているが、ではなぜ大統領は原爆投下に踏み切ったのか。朝鮮戦争や東西冷戦の将来を見越しての実験だったのか、いづれ明らかにされなければならない。大統領は「米国の青年を何万と殺すわけにはいかない」として原爆投下を決意したということである。
 爆心地で帰り支度をしているとき、右翼団体の宣伝車から大きな音の喧伝が聞こえてきた。平和の街に彼らの声は似合わない。Img_3689

爆心地

 走行距離13Km 累計 7、823Km  経費3,755円

コメント (2)
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葵の御紋は誰のもの 3/28

2007-03-30 | 旅行記

 2007.3.28(水)快晴 20度
                      
 7:00 起床 
 8:45 島原YH発~本光寺常磐資料館~グリーンロード~R251~R34~
16:00 長崎カトリックセンターYH着

 朝食をとり、ゆっくり朝刊を読んでいると島原鉄道の記事が載っている。同宿の鉄道マニア君の言うとおり、九州運輸局に島原南線(島原外港~加津佐)の廃止を提出したということだ。従って1年以内に廃線の可能性が高いということだ。開業から100年、諫早水害や普賢岳の噴火に耐え、住民や観光客の足を守っていた路線が無くなると言うことだ。
普賢岳災害の時に存続がどうのというニュースが流れていたことを思い出す。見事に復興したのに10年で廃線の危機とは、厳しい話である。こうしてやがては日本中の地方路線が姿を消すのだろうか。
 YHのおじさんおばさんに礼を言って出発すると、目の前に飲泉場があるではないか。あまりに熱そうなので、水で薄めてボトルに入れる。とにかくどこでもお湯が出ているようだ。Img_3643 Img_3641

島原YHと向かいの飲泉場


 昨日の福知山藩の葵の御紋の確認と比叡山から福知山城、島原城と移ってきた如意輪観音を是非見てみたいとの思いから本光寺の常磐資料館に寄ることとする。藩主の菩提寺というのは藩換えがあるたびに一緒に移転するものだそうだ。当然と言えば当然だが、大変なことである。本光寺も三河の深溝(ふこうず)から福知山、島原と転居してきたそうである。さて、葵の御紋だが残念ながら違っていた、扇二つの紋であった。すると福知山音頭の葵の御紋はどなたのものなのか、福知山在住の方是非調べていただきたい。もう一つの課題、如意輪観音は本光寺の脇本尊ということで本堂内にあり、撮影は禁止なので、この目にしっかりと焼き付けてきた。本当に柔和なお顔で、この話が本当なら織田信長というのは何とも無粋で、明智光秀は粋な武将であったということである。その他世界最古の地図とか信じられないような作者の壁画や襖とかがあって驚きである。福知山藩領地図なんてのもあって、我がふるさとの古地図もある。なんでも松平の殿様が福知山を出る際に文化遺産を(当時は文化遺産でなく、単に家財であったのだろうが)すっかり島原に運んだということである。従って現在福知山には何も残っていないということだ。あのみっともない福知山城を再建するより、こういった文化財を収集整理した方がいいんじゃないの。
その他三の丸の蟄居切腹の間とか、隠し部屋のある御殿とか様々な遺産もあり、この資料館は民間の資料館であるが、凄い値打ちのある資料館である。Img_3645 Img_3609

観音堂と山門、如意輪観音さまは撮影不可




 グリーンロードは広域農道だが、海沿いの国道より走りやすいためか交通量が多い。大型トラックがほとんどで、本来の農業用車両は極少ない。春霞なのか黄砂なのか、段々霞んできて、平成新山もほとんど見えなくなってきた。平成新山と眉山、垂木台地の位置関係がよく解るので、ビニールハウス越しに写真を撮っておく。Img_3651 Img_3653Img_3655 水晶観音駅跡と有料支払い箱



やがて左側に海が見え出すと、有料道路の標示が出てくる、しまった自転車は通れないのかと心配するが、歩道は続いている。料金所に行くと、軽車両10円の表示があり、歩道脇に料金箱が備えてある。8,000Km走ってきたが自転車の有料は初めてだ。有料だけに綺麗な道が続き、10円なら納得と思いつつ走り続けると、矢上大橋を過ぎ、すぐに有料部分は終わった。橋だけのものだったのだ。長岡京市にある一文橋のようなものか。人を雇って100円や10円の通行料をとって一体どうするのだろう。
 しばらく行くと、日見腹切り坂という物騒な名の標識がある。ちょっとした公園になっていて、三基の墓標がある。細川公の家臣がこの地で一手申し込み、町民に負けてしまい
面目が立たず切腹したということだ。武士とはつらいものである。その先に日見坂の案内がある。かつては西の箱根峠と言われた難所であるらしい。地図で山越は解っていたが、それほどの坂とはと腹をくくって登り始める。ところが箱根どころか東山よりも簡単に越えてしまって、あっけないやら、ほっとするやら、、、、。どうもバイパスの新トンネルのおかげらしい。トンネルを過ぎると長崎の市街で、下り一方だ。桜町郵便局で郵便物を出す。手紙を朝から用意していたのだが、島原からここまで一軒も郵便局が無かったのだ。Img_3658

腹切り坂

 必要の無いときは嫌というほどある郵便局が、70Km程の間に見つからないとは、信じられないことである。
 カトリックセンターYHは浦上天主堂の真ん前にあり、ユースホステルのお手本のようなユースホステルである。寝具や洗面所、トイレ、風呂など清潔なのが第一で、トイレなどぴかぴかである。夕食は無いのだが朝食がサービスなのも嬉しい。

 走行距離72Km 累計 7、810Km  経費8,349円

★長崎カトリックセンターYH 朝食サービス付2,700円 設備は今まで泊まったYHで最高、例えばタオル、バスタオル付、コーヒー、お茶サービス、インターネット無料、
朝食はおにぎり、みそ汁、漬け物、コーヒー付きで美味しい。Img_3696

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おめく ちんぐ 3/27

2007-03-30 | 旅行記

 2007.3.27(火)雨
                      
 7:00 起床 
13:45 島原YH発~島原鉄道島原駅~島原城~武家屋敷~耳洗公園~桶川洗い場
~白土湖~島原鉄道本社前駅~
17:30 島原YH着

 タイトルは島原の方言だが、一体どういう意味か。答えは今日の最後に有り、全部読んでから見てね。
 明け方から強烈な雨が降っている。そのうち止むかなと思うが、ちっとも止まない。昼過ぎに諦めて、電車で出かけることとする。島原鉄道はYHの真ん前を走っており、観光用にトロッコ列車も何本か走っている。噴火の際に大変な被害を受け、廃線かという危機もあったが、みんなの応援もありなんとか再開したようである。ところが被災から10余年たった今、島原外港から南の部分について廃線の届けを九州運輸局に提出したそうである。従って一年以内に廃線となる公算が強いという昨日の同宿者の言である。雨も止まず、今の内に乗っておくかという気もあって、歩いて出かける。島原外港駅では切符も自販機ではなく、懐かしい厚紙の切符である。Img_3610 Img_3611_1 Img_3612






廃線となりそうな島原南線

島原駅で降りてお城まで雨の中を歩く、堀端は桜の街路樹でちらほら咲きというところか。あと3日で満開だろう、よくぞこの雨が咲く前に降ったことか。
 咲く前に 吹き降りつくせ 春嵐     うとく

 島原城は松倉氏の築城となるが、島原の乱、島原大変にも耐えた名城ではある。島原大変とは、1792年に普賢岳が大爆発しその前衛峰である眉山が崩壊し島原湾になだれ落ち大津波が起きて対岸の熊本にも何万の死者を出した大災害なのである。「島原大変肥後迷惑」というのがこのときのフレーズなのである。
 島原城には歴史的な資料が多く保存され、特にキリシタン関係、島原の乱関係は充実している。教科書では島原の乱など憶えているが、では実際どういうものであったのかなどはよく解らない。現地に来て、現物の資料を見たときに初めて解るものだ。島原の乱は単にキリスト教弾圧に対する一揆ではなく様々の要素がからんで起こったものである。徳川幕府に対する反抗としては規模的にも最大であるし、犠牲者もまた最大である。Img_3613
 さて島原は我がふるさと福知山市と深い関わりがあるのである。勿論そのことはここに来て解ったわけであるが、、、。福地山音頭に「福知山さん葵の御紋、いかな殿様でもかなわせぬ~」などという歌詞がある。寛文9年当時福知山城主であった松平忠房が国替えで島原藩に来たということである。松平だから葵の御紋かと、いまさらながら思っているわけだけれど、福知山市と島原市が姉妹都市だって事、福知山の市民だって知らないのじゃないか。もう一つ福知山と島原のつながりを案内しよう。昨日訪れた本光寺の観音堂に如意輪観音菩薩という鎌倉時代の仏像があるのだが、実は織田信長の比叡山焼き討ちの際、明智光秀が秘かに持ち出し、福知山城に祭っていたところ、松平氏の島原国替えの際、一緒に島原に来たという逸話の仏像である。遠く離れた両市であるが、なんなりと結びつきのあるものなのである。
 さてその本光寺の資料館なのだが、今日は訪れる予定をしていたのだが、時間的に困難となり残念ながら諦めることとした。その代わり時間的に無理のない武家屋敷や島原湧水群を見ることとする。
 武家屋敷はお城の北西にある、かつての武家屋敷の一部を保存しているものだが、ほとんどの敷地には現在在住されているもので、数軒が昔のままの姿で公開されている。
その特徴は通りの真ん中に一直線に用水が通っており、往時は生活用水として利用されていたものである。用水が通っているのは珍しくはないが、通りの真ん中を貫通しているのは日本でもここだけでは無かろうか。屋敷は通りによって少し広さが変わるようだが、このあたり一帯は90坪に統一されており、仕様は少しづつ違うが似たり寄ったりと言うところである。Img_3617 Img_3623
通路の真ん中を水路が走る。武家屋敷は総て90坪。


 武家屋敷から南に歩いてゆくと、日本名水100選の島原湧水群の名所が現れてくる。
まず耳洗公園(じせんこうえん)で豊富な水が湧いており、水飲み場も用意されている。
次は樋川洗い場でここも豊富な水が湧き出て流れており、かつては野菜を洗ったり洗濯物を洗ったりと利用されていたに違いない。今でも地元の許可を受ければ利用できる。湧水の最大のものは白土湖(しらちこ)でこれは島原大変(1792年)の際にできた湖で、毎日4トンもの水が湧き出ているそうだ。当時はあふれ出て洪水となるために、急遽水を逃がす水路を造ったそうで、それが現在の音無川だそうだ。Img_3633 Img_3635 Img_3637





島原湧水群、左から耳洗公園、桶川洗い場、白土湖

 白土湖に 白鳥のこえ 寒椿    うとく

 水の湧き出ている箇所は市内にいくつでもあり、いつでも美味しい水を飲むことができる。同じように温泉も湧き出ていて、飲泉場、足湯などの施設があちこちにある。島原鉄道本社前の飲泉場で一口頂いたが、なかなか上質の味であった。火山災害は大変だけど、水と温泉はそれゆえの賜である、大切にしていただきたい。Img_3638

 さてクイズの答え、ドキドキしていた御仁もあろうかと思うが正解は、おめく(叫ぶ)
ちんぐ(親友)である。ばってん方言ば無くなりますけん、つこうてください。

 走行距離0Km 累計 7、738Km  経費5,435円

★島原YH 島原外港駅のすぐそばにあり、便利至極。1泊2食4、260円 笑顔のおばちゃんが人気者
★島原温泉YHの湯 市から供給を受けている温泉で、成分表はないが市中に湧き出ている飲泉と同一ならNa,Mg炭酸水素塩泉である。 ほぼ透明で無臭の温泉で、ツルッとする。

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恐ろしき噴火 3/26

2007-03-30 | 旅行記

 2007.3.26(月)晴れ
                      
 8:00 起床 
 9:55 東横イン熊本新市街発~R3~県道15号線~熊本港12:25~島原港13:30着~
13:40 島原YH着~眉山ロード~平成新山ネイチャーセンター~本光寺~
17:30 島原YH着

 本当は昼頃まで眠っていたいのだけれど、チェックアウトがあるのでそうもいかない。
天気は上々、船の便は沢山あるので適当に熊本港へ走る。県道15号線は熊本の南の郊外で、まだ田んぼも多く残っている。北に昨日登った金峰山が見え、のんびりしたところだ。
ここで田んぼの中にレンゲを見つける。ピンクの絨毯とはいかないけれど、うっすらと咲いている。よく見ないと解らないぐらいだ。なぜレンゲが無くなってしまったのか、先日小埜種苗店に寄ったとき聞いたのだ。それはコンバインで稲刈りをするかららしい。コンバインで稲を刈ると藁がそのまま田んぼを覆ってしまって、レンゲが発芽しないのだそうだ。レンゲはマメ科の植物で根粒細菌による土壌の肥沃化や通気性の確保など様々な効用がある。困っているのは養蜂家ということで、種を買ってレンゲを育てているそうである。Img_3568 Img_3569

ささやかなレンゲと昨日登った金峰山

 島原へ行くフェリーも桜島フェリー同様効果的な航路で、陸地を行けば200Kmもあろうかというところを高速フェリーなら30分でつないでいる。島原に近づくと街の後方に急な火山が控えている。これが雲仙か、思ったより小さいな、それにしても緑化が進んでいるなと思ったら、それは眉山(まゆやま)といって昔に噴火した、前衛峰と言ったところの山である。この山のおかげで島原の街は火砕流の被害から避けられたのだろう。
市街を南に行くと平成新山が姿を現す。いやはや凄い迫力で、噴火当時映像で見た山容がよみがえってくる。眉山ロードを登ってゆくと大火砕流で報道陣や消防団の死者を出した上木場地区のあたりが見えてくる。当時村があったあたりはすっかり土砂で埋まり、とてつもなく大きな堰堤がいくつも築かれている。自然の威力というものは恐ろしいものだ。Img_3570 Img_3572

眉山と平成新山


 眉山ロードの最高点、垂木台地にネイチャーセンターがある。雲仙の自然や噴火の様子などを展示している。大火砕流はこの台地をも越えて、千本木地区を襲ったのである。その様子は眉山ロードの下りに小公園があり、そこに写真で展示してある。現実の千本木地区を目の前にして愕然としてしまう。ここも土砂の中に村が埋まっているのだ。かつては牧場を営んでいたのだろう、堀畜産という門標が荒れ地の中に残っている。何とも痛ましい光景だ。Img_3578 Img_3581
Img_3588





左:上部の噴火物は手つかずだ。  中:垂木台地のネイチャーセンター   右:千本木地区の惨状

 眉山ロードを下りきると「がまだすロード」という自動車専用道が出合う。がまだすとは、元気を出すと言う意味で、いろんなところに使われている。きっと被災後の復興に元気を出して取り組もうという気持が込められているのだろう。
 がまだすロード入口をを左に見て下ってゆくと、資料館入り口という看板が目に付く。
何かと思って行ってみると本光寺という禅寺があって、藩主松平家の墓所があり、山門や十六羅漢、首無し地蔵、丸尾城跡などの見所が沢山ある。資料館は時間がないので明日見るこことし、境内を見て回る。首無し地蔵は昨日の五百羅漢同様あちこちで見かけるが、これほどまで見事に首の無いのは珍しい。しかもこの首は廃仏毀釈が原因でなく、島原の乱の際にキリシタンによって切られたとのことである。多くの僧侶も首をはねられたそうであるが、愛を説くはずの宗教が戦となると残虐非道になってしまうのは、現在の中東における宗教戦争も同様である。宗教が悪いというのではなく、人間が如何に愚かしいかということである。
 石段を登って行くと松平家の御廟があり、その中に十六羅漢がある。中国風の円い石門
があり、その中に鎮座されているが、なぜ羅漢さんは首をはねられ無かったのだろう。
 このお寺の山門は赤門で切り妻流れ屋根造りという格調の高いものである。島原城の天守とこの山門の敷居が同じ高さで、天守の上に御廟を築いた言われている。その他貴重な仏像など多くの歴史的遺産があるお寺なのに観光案内やガイドブックには載っていない。Img_3593 Img_3597

首無し地蔵と十六羅漢


 走行距離40Km 累計 7、738Km  経費7,619円

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金峰山に登る 3/25

2007-03-30 | 旅行記

 2007.3.25(日)曇りのち晴れ
                      
 6:50 起床 
 9:00 県青年会館ユースパルYH発~味噌天神~熊本中央郵便局~クシサイクル
11:00 クシサイクル発~峠の茶屋12:00~金峰山12:53着~霊厳洞~
16:30 東横イン熊本新市街着

 ホイールは昨日できあがっていたのだが、あの強烈な雨では取りに行くことが出来ない。
今日の午前中に取りに行くこととして、中央郵便局に局留め郵便物を取りに行ったり、溜まりに溜まったブログを更新したりしたいので、熊本にもう一泊することとした。
 宿の近くに味噌天神という変わった名の天神さんがあるので寄ってみる。全国で唯一の味噌の神様ということで、味噌の製造業者の寄進も見られる。この神社の笹が味噌の味を良くしたという言い伝えもあるようだ。Img_3542

味噌天神

 中央郵便局で郵便物を受け取る。その内容はボトルのキャップが壊れ、換えを送ってもらったのだ。長旅になるといろんなものが消耗する。浜田氏の本などを送り返す。中央郵便局から坪井川沿いに北上してクシサイクルに向かう。川沿いのプロムナードコースは清正公の銅像があったり、有名な長塀があったりで楽しめるコースだ。熊本市は城下町だから、道路が複雑である。直角に交差する道はほとんど無い。それでも私の天才的な方向感覚で、地図を見ることなく道を尋ねることなくクシサイクルに着くことができた。Img_3545 Img_3546

加藤清正公の像と長塀


日曜日とあってショップのイベントでみんな出かけ、ご主人が一人店番をしておられる。旅先だからといって何かと便宜を図っていただき、ありがたいことである。ご主人は早稲田時代、野球部で阪神の岡田監督と同期生ということである。地元高校野球の解説員もやっておられるそうである。自転車は、と聞くと「口で乗ってるんです」と面白いお答え、こういうサイクルショップのおやじさんも珍しい。
 天気も良くなってきたので郊外の金峰山(きんぼうざん)に行くこととする。金峰山は熊本市の西方にあり、雲仙や阿蘇の眺望もよろしく市民に親しまれている山だそうだ。サイクルショップで道を教えてもらい、適当に漕ぎ進む。すぐのところに夏目漱石の居住跡というのがある。Img_3548
八校教授時代に何でも6回引っ越ししたとか、なかなかしゃれた建物で、館内には資料もあるようだが、有料でもあるので外からの写真だけにしておく。小泉八雲も八校に教授で来ており、記念館だかがある。金峰山への道は段々登りが急になり、峠の茶屋では汗びっしょりとなっている。峠の茶屋で昼弁当を買い、漕ぎ始める。車でも頂上直下まで行けるので結構多くの人出がある。標高は665mなのだが、ほぼ0mあたりから登って行くので、登りがいがある。峠から一時間弱で頂上に着く。そこには金峰山権現が祭ってあり、高所とあって各社のテレビ塔が競って建てられている。期待した展望は、春霞のためさっぱりで、熊本市街がようやくと言ったところである。Img_3551 Img_3554

金峰山権現と熊本市の眺望、本来なら阿蘇の景色がみえるのがだ。


弁当を食べて霊厳洞(れいがんどう)に向かう。ここは宮本武蔵が立てこもって五輪書を書き上げたと言うところで、霊気漂う、いわゆるらしいところである。そこに至間に五百羅漢があり、1779年から24年間かかって奉納されたものである。自然崩壊したものや廃仏毀釈で壊されたものなどで半数に減っているとのことだが、何とも凄い風景ではある。この中に首無しの羅漢さんが沢山ある。明治初期の廃仏毀釈時に首をはねられたのだろうが、国の政策とはいえ、それまで信仰篤く手を合わせていた仏様の首をはねるという行為が理解できない。それは日本人の無宗教性とは違った何かが原因だと思う。Img_3557 Img_3561

五百羅漢と霊巌洞


 霊巌禅寺で先程金峰山でであった夫婦連れに出逢う。熊本市内から来ているということなので、昨日から疑問に思っていたことを聞いてみる。「熊本の市民は熊本城や加藤清正は誇りに思っているでしょうが、その後明治まで続いた細川氏についてはあまり良くは思ってないのじゃないですか」「よくわかりましたね、実はそうです。やはり熊本人は清正公ですよ、細川氏は一体何をしたのだかわかりません」これが熊本市民全体の気持だとは思わないが、その一端であることは間違いない。
 ホテルに帰り、ブログを更新する。夜中の3時までかかってしまった。

 走行距離57Km 累計 7、698Km  経費17,714円

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