3月20日(木),地元の小学校で卒業式が行われました。わたしは地域のある役員をしているので,招待をいただき参列しました。式そのものは引き締まっていながら,温かみを感じるものでした。
式の形態はいわゆる対面型で,臨席に座られた知人には新鮮な思いが残ったようで,「いつからこのようなかたちでしているのか」と尋ねられました。この際,そんな周辺の話をすこし取り上げておきましょう。
対面型の卒業式は,伝統的な型とは異なり,演台をフロア中央付近に置いて,参列者がそれを囲むようなかたちで位置するものです。形式的で,厳粛な雰囲気に包まれた従来型の式に対して,みんなで式を祝う,みんなで式をつくる,そんな理念が込められた式なのです。
伝統的な式に慣れ親しんできた人には馴染めない人が多いらしく,わたしが知る範囲でも,それを全否定する人が何人かありました。
ある校長は,対面型の式を徹底して嫌い「卒業式はあくまで厳粛な,証書授与の儀式だ。わたしがいる間に,なんとしてでも元に戻す。学校運営の最高責任者はわたしだ」と,あちこちで息巻いていらっしゃいました。結果,そのとおりになりました。
ところが,十分に議論されていなかったようで,校長が退職された翌年度は元通りに。結局,議論に費やした時間がどんな意味をもっていたのか疑ってしまう結末です。わたしが職員だったら,疲れがどっと出たと思います。伝家の宝刀“最高責任者”を楯にしても,個人的な見解の押し付けだけでは職員の意識はどうにもならないという見本です。腰高で前のめりの姿勢には限界があります。
ある会での雑談です。ときの教育長が,「対面型の卒業式をする学校がある。あれは止めてほしい。卒業式を厳粛な場に戻さないことには。式が終わってからなら,どんなかたちで交流の場をもってもよいが……」と,ひどく憤慨しておられました。感想を求められて,わたしは「十分検討された上でのことだから,それはそれでしかたないことだと思いますが……」と答えるほかありませんでした。「この方の教育観には付き合えないな」と感じたことがよみがえってきます。結果,この市ではなくなりました。でも,教育長が交代した今は見事に(?)復活しています。堂々と!
わたしはこの類いの短絡的な見方,古い感覚にひどく違和感を覚えました。きちんと弁えていれば,場の厳かさと学びの重さを見失わずに式を演出できるはず。そこに,最高の内容を盛り込めるはず。形式にこだわる一般論からは,新しい教育の営みはなにも生まれません。斬新さは,つねに教育を革新する可能性を秘めています。要は,教職員の素養と洞察の深さにかかわる話だと思うのです。
もともとこの型が始まったのは,子どもの成長を核に置いて,「子どもを式のまことの主役に!」と願う教師の着想からでした。それが一世を風靡して,全国的に広がってゆきました。問題は,これによって式をつくることの意味を根底から問い直すきっかけになり,教育の営み全体を子ども主体のものに変革する契機につながったか,です。
もしつながっていったなら,式を変えることを通して学校の変革,教職員の意識改革にテコ入れができたわけですから,これはもう大したものです。式が変革の一つのシンボルともいえるのですから。逆にかたちを真似ただけで,ほとんど学校の体質改善につながっていないとすれば,寂しい話です。
この学校は,幸いにして人権教育の長年の積み上げによって,いのちを大事に考える土壌が育っています。主張がはっきりしているのです。それゆえに,こうした対面型の式が行われても,ほとんどの人が違和感を覚えないでしょう。学校文化の一側面として定着しているといってもよいほどに。
もっとも,肝心の学校の変革,職員の意識改革にどれだけつながってきたか,それはまったくわかりません。
何事も続けていると形骸化が始まるもの。自省が求められます。こころに残る式だったと思いますが,「わたしならこうしたいな」と感じた改善点がいくつかありました。そうした教育評価が学校内で細かくなされているか,この視点を忘れないことが真に学校を変える鍵になるでしょう。