自然となかよしおじさんの “ごった煮記”

風を聴き 水に触れ 土を匂う

マンサクと昆虫(19)

2014-03-07 | マンサク

訪花昆虫を探していると,「ほほーっ!」と思うような珍しい昆虫を発見。花弁の幅が2mmなので,それと同じぐらいの体長です。

名はまったくわかりません。体型から見て,長めの脚と大き目の翅,それに長い触角が際立っています。翅は透明で,屋根型に閉じられています。 


確かに,脚と触覚が長いなあという感じがします。腹部の先に,一対の突起が矢のように付いています。 


ゆっくり歩いて移動しているのを見ていて,口吻が針のように出ているのが目にとまりました。植物の汁を吸うときに突き刺すのでしょう。 


赤い複眼,黒と緑が入り混じった体色,艶の感じられる体表,なんだかスマートで,かっこよく見えて来ました。 


マンサクの何を求めて飛来したのでしょうか。撮っていると,突然プイッと消えて行きました。 

 


自然がより広く,より深く見えるということ

2014-03-07 | 随想

マンサク・ロウバイと訪花昆虫,ジャガイモの実生実験など一連の記事を書いていて,そして画像で記録していて思うのは,これまで知らなかったことを知ったり,わからなかったことがわかってきたりすることのおもしろさです。できなかったことができるようになるのも,また然りです。

未知を自覚して既知に変えたくなるのが人間ならではすがたで,そのように突き動かすエネルギーを知的好奇心と言い表しています。未知のままにしておくと,もどかしさ・未消化感が残るというわけです。

このとき未知が既知に変化して,そこで好奇心が収束するのではありません。既知になることで,また新しい未知が生まれます。その未知をまたまた知りたくなるのが人間ゆえの存在価値なのです。

これを追求心・探究心と言い換えることができます。

じつは,学校の真の学びの本質はそこにあります。筋からいえば,実際にできているかどうかは別にして,“教師”という学びの援助者の手助けを受けながら,子どもは好奇心を膨らませ続けることになります。学校を去ってからも,生涯をとおして人間の活動を支えるのは,大なり小なり追求心・探究心というものだといえます。

そうした営みの本質的な部分を今冬,個人として味わうことができたように思います。つまり自学自習方式で。

例を挙げます。最近の記事では今後のアップ予定も含め,マンサクシリーズ27回,ロウバイシリーズ8回,ジャガイモ42回を数えます。それだけ回数を重ねるということは,これまでわたしが認識していた自然像をはるかに上回る知見が見えてきたということです。おかげさまで,自然のすがたが前よりも広く,深く見え始めた気持ちがしています。

 


言い過ぎかもしれませんが,1月から3月にかけて,わたしは自分がハッピーな環境にいると感じました。昆虫たちにこころから感謝したいとも思いました。だって,こころが驚きで震える経験を重ねることができたのですから。極寒のなかでの観察・撮影は,まず気になりませんでした。


こんなわけで好奇心・健康は最高の財産ではないかと,つくづく思うのです。わたしの目に沿って自然との付き合いを共体験してくださっている皆様,アクセスをいただきありがとうございます。

(注)写真は3月6日(啓蟄)のアカバナマンサクとロウバイ。