自然となかよしおじさんの “ごった煮記”

風を聴き 水に触れ 土を匂う

カラスウリの"カラス"

2023-07-05 | 随想

考えてみれば,生物の名の由来は話題提供という点で考えるとじつにおもしろいものです。語源がはっきりしていれば,それはそれで納得できるのでしょうが,そうでもない場合はやっかいです。「そうらしい」ということがあまりにも多くて,推測の域を出ないままにとどまっている例が多すぎます。そこからおもしろさが生じます。

このカラスウリにしてもそうです。響きは鳥のカラスを連想させます。実際,漢字名は烏瓜なのですから。しかしそうだからといって,この植物がカラスとどんなつながりがあるのか,それは不明です。調べてみると,カラスが食べる光景からそのように命名されたようだ,という説明が付いている例をよく目にします。というか,最有力説のように扱われているように思われます。

しかし,カラスウリの真っ赤な実をカラスが食べているのを見た経験はわたしにはまったくもってありません。「好んで食べる」という記述すらあるのに,カラスはまったく感知しないようなのです。もしかすると,真っ赤なウソかもしれないのです。だから,見もしないで,ある説に飛びついたり,それをいかにもありそうだという感じで吹聴したりすることに,わたしはこころから疑問を感じざるを得ません。

ある市広報誌の今月号のコラム記事に,この植物についてこんな紹介がなされています。なお,下線はわたしです。

 

諸説あるものの,カラスとの結びつきを強調する文言になっています。市民に広く科学的な情報を提供する欄としては,気になる表現です。中途半端な記述に見えます。ふつう誤った知見が一度定着すると,修正は困難です。「カラスが好んで食べる」という話題は,まことしやかに取り上げるほどの価値はありません。わたしは信じていません。こうした説が流布されると誤解が残り続けるだけです。

もう一つ気になる点があります。「花は大きく咲きますが、(以下略)」の箇所です。この花の場合,大きさはもちろん,細長い筒状のかたちが重要であり,実際,このかたちに適応したスズメガが夜間に頻繁に訪れているのです。この事実からは,「考えられています」という表現はあまりに現実離れし過ぎているということになります。

話は飛びますが,カラスウリがあれば,スズメウリもあります。このスズメウリはたぶん,カラスウリという名称と対比するように付けられたのではないかと想像できます。調べてみると,カラスウリの果実よりぐっと小さな果実を付ける,あるいはその果実がスズメの卵を連想させるという話題が出ています。けっして,スズメが好んで食べるわけではなさそう。

要するに,語源は大事にしなくてはいけませんが,俗説を鵜呑みにしてはならない,事実・根拠にもとづいて考えなくてはならない,ということでしょうか。観察事実を踏まえて思い,考えるようにしてきたわたしの経験則です。

 


公園で見た樹木の剪定

2022-12-24 | 随想

街路樹のことを書いていたら,公園の樹木の管理のことが浮かんできました。もちろん,具体例は身近な公園で,市の観光スポットといわれています。

久しぶりに訪ねたら,カツラ並木の下を彩って来ていたツツジがばっさり伐り込まれていました。

 

今はこんなふうに剪定をする時期ではないのに。

 

わたしが抱いた印象は,景観はすっきりしたものの,これだけばっさりやったのでは来年の景観はまったくダメだろうというものです。花芽がすっかりなくなってはどうしようもありません。もしかすると,再来年にも影響が及ぶかもしれません。そして,同じするなら,公園の入口なのだから根元付近もすこしはすっきりしておいてほしいなと思いました。わたしの知る里山の方がはるかにこころが行き届いた管理がなされています。

落ちた枝や枯れたままの草などで,雑然とした感じがしますが。

 

公園には樹木がつきものです。樹木の緑と花は,人の心に潤いを与え,癒しをもらたしてくれます。その点を踏まえて,計画的に剪定するのが筋でしょう。大きくなり過ぎないうちに剪定する,計画的に樹形を整えていく,それがとてもたいせつな点です。

数年前,同じ公園のドウダンツツジがばっさり切り込まれました。石階段に沿って植えられ,見事な景観を形成していました。結果,二年間紅葉は見られず,苦情が寄せられたのは当然です。剪定直後,これで果たして新芽が出て来るのか,景観が復活するのか,心配で,管理する担当課に直接聞くと,「委託外郭団体に任せている」。責任逃れですね。わたしの知る人たちも管理責任を問うたそうですが,時すでに遅しでした。

団体の話では剪定についてノウハウを持たない高齢者に作業をお願いしているとのこと。それは働く場を提供するにはよいことなのですが,一人でも剪定法を知る人が入ればこんな結果にはならなかったでしょう。もったいない。公園づくりの理念のなさが結果を招いたといえます。

それに続いて同じことがまた起こりました。昨年度のことです。公園の主要な樹木であるコブシの枝がスカッと伐り落とされました(下写真では,残った枝がハンガー代わりになっています)。花芽がたくさん付いていたときだったので,びっくり。これでは春先,花が見られないではないかと誰もが思うでしょう。そのとおり花はなく,そして緑陰をつくる葉もなく,寂しい姿で立ったままに終わりました。

 

当団体の責任者曰く,「高齢者が高木を剪定するのは危険です。それで高さ3mで伐り落としてもらいました」。公園に樹木を植える意味を考えたこともない答え方に聞こえました。剪定作業に携わる人の雇用がまずあって,公園利用者が快適に過ごせる空間を整えるという視点が欠けています。

行政事務は担当者が次々変わっていきます。まちづくりを柱にして各部署に事業を展開する理念があって,共有される体制が整っていない限り,市民本位・利用者本位の手腕が発揮されることなど望めません。あり方を先取りするほどでなくては信頼は醸成されないでしょう。似たことがこれからも繰り返されそうです。

 


街路樹ケヤキの微笑み(続)

2022-12-23 | 随想

街路樹のケヤキが,ヒトと共生して気持ちよさそうに育っているように見えた最近の例の二つ目です。

ついこの間,北九州の小倉を訪ねました。そこにわたしが大好きな故松本清張氏を記念する市立施設があります。そこを訪れたのでした。施設の最寄りの駅は西小倉駅。そこからは徒歩8分の道のりです。通りは清張通りと名付けられ,歩道にはケヤキが植わっています。

 

ケヤキは大木というほどの樹齢ではありませんが,じつにみごとな樹形を保ちながら,堂々と立っているのです。一目見て,一気にケヤキの呟きが聞こえて来そうな気持ちになりました。「いい気分」とでもいっているようでした。それはまた,ヒトの接し方に感謝を込めたことばに聞こえました。

 

広い道路,広い歩道,という点はわが市のケヤキ街路樹とは異なった環境なのですが,手入れの仕方はみごと。ケヤキのいのちを尊重する心遣いがあります。そこにはケヤキの権利を大事にするという発想が流れていると感じました。

ケヤキの樹形は大きくなるのが当然,大きくなる方向でいかにバランスよく整えて行くか,これをどう景観づくりなりまちづくりなりに生かすか,そんな理念が伝わって来ました。施工業者も担当部局も街路の維持管理という点で,長年にわたりノウハウを蓄積してきているということなのでしょう。たぶん多くのまちでも同じことがいえると思います。

この日は雨が時折降りました。しっとりとした通りを体感しました。清張記念館で過ごしたひとときは,おかげさまで一層感動的で,味わい深いものとなりました。ますます,清張氏にどっぷり浸って行くことになりそうです。

 


街路樹ケヤキの微笑み

2022-12-22 | 随想

「ケヤキの嘆き」の例と雲泥の差と思われる例をご紹介します。

一つは隣市。ここは幹線道路です。交通量はさすがに多め。枝ぶりを一目見て,本来の樹形が尊重されていることがわかります。

 

樹形がわかるかたちで枝が伸びています。よく見ると,かつて枝が大胆に伐採された痕跡が残っています。ただ,その後樹形を大切にした管理がなされているようです。感じからすると,これからの成長を考慮して街路樹としての景観を考え,すっきりした整枝が必要では?  幹から出る太枝は5,6本程度に抑えるのがよいと思います。  

 

 

必要以上の整枝はなされず(最低限度は手入れされています),なかには枯れかけた枝が目立つケヤキもあります。安全対策はもちろん大事ですが,木のいのちを守るという発想が流れているようです。

 

行政のあり方としていったいなにが違うのでしょう。公園や街路で樹木を育てる理念があるか,ないか,暮らしと自然がどれだけつながっているかを慮る素地が培われているかどうか。そうしたことを立ち止まって思う感性が育まれ共有されているか,どうか。ひとことでいえば,そんなことかなあと思います。

 

二つ目は県庁所在地のA市。市HPを見ると,担当部が街路樹の維持管理全般について詳細を解説しています。そして,ビルの谷間にあるケヤキ並木の写真が,これまたみごと! その説明にこうあります。「まちに『彩り』『風格』を与えてくれる街路樹の役割や魅力を紹介します」。風格とは降参です。わがまちづくりへの自負心といったものがずばり窺えます。

そのまちの高木街路樹では本数が第二位。その解説に「美しい緑のトンネルをつくる姿が人気の樹木です。夏にはさわやかな緑陰をつくります。新緑や紅葉も美しく、一年を通して楽しめる樹木です」とあります。写真をご紹介したいところですが,著作権の関係もあり控えておきます。こういうまちの好感度は相当なものでしょう。暮らしよさも一定水準以上のものがありそう。

これらのまちのケヤキはきっと微笑んでいるでしょう。

 


街路樹ケヤキの嘆き

2022-12-21 | 随想

一つのいのちには生きていくかたちがあります。ヒトの営みとはいささかも関係なく,それぞれがいのちを全うするプロセスがあります。それを思うと,ヒトには尊重すべき人権というものがあり,生きものにも生きものとして生きる本来的な権利があると思うのです。それは動物にも植物にも当てはまる気持ちがします。

それをヒトの一方的なものさしで勝手気ままにバッサリ刻んでしまっては元も子もないのでは? 生きとし生けるもののおかげで穏やかに暮らせるというのは,わたしたちヒトがいつもこころしておきたい座標軸です。

ところが,この勝手気ままが往々にして出過ぎることがあります。ついこの間見かけた,わが市のケヤキ街路樹の手入れがその好例です。手入れというより,「エイッ! ヤーッ!」とばかりに切り刻む単なる伐採です。入札でより安く応札した施工業者がレンタル作業車を使い,剪定のノウハウを心得ていないと思われる作業員が木の高さを一律に揃え,バッサリバッサリ伐っていくだけ。機械的で物理的な手を加えるに過ぎない単純作業。そこには知恵の入る隙はまったく感じられませんでした。記憶にとどめるために,ついつい撮影してしまいました。

 

見ていて,わたし"自然となかよしおじさん"はケヤキの嘆きが聞こえて来そうな気持ちになり,やり切れなくなったほど。

並木の中に,枯れてずうーっと放置されてたままのケヤキが一本悲しそうに立っています。何年も。これ,ヒトの身勝手さでは?

 

こうなるのは業者の問題ではありません。作業内容を提示して業者入札を設定した行政の理念の問題です。街路をまちづくりとしてデザインする指針が欠けているのです。

経費削減? 思考が停止したままの状態ではなんら前向きの解決策は生まれません。もしかすると,落ち葉の苦情が多いのかなあ。それにしても担当部局もそうだし,幹部の皆さんも同じで,長年同じ風景を眺めてきて何も思えなくなっているところがそもそもの問題です。慣れというのはじつに怖いもの。

 

わたしには哀れな風景に見えますが。

 

ケヤキの権利は「ヒトの生活空間にあっても,できるだけ自分風に生きていきたい」というものでしょう。そうだとしたら,樹形を健全に保つほかありません。太枝をもっともっと整理して,何本かの枝が高く伸びることを尊重するだけでOK。大きくなると困るというなら,樹間を広げるために間引いてもいいでしょう。それらは電線や建物などの構造物がない場合の簡単な手です。それでも困るというのなら,そうした区間については樹種を変更したらよいのです。そもそもケヤキを植える当初の計画ではどんなデザインが描かれていたのでしょうか。

 

ふつうなら春以降は緑のトンネルがずうーっと続いて,誰の目にもここちよい景観が出現するはず。ケヤキ一本一本の個性的な枝ぶりがこころを和ませてくれるはず。緑は友だちのはずなのに。冬は冬で,枝ぶりが景観をゆたかにしてくれるでしょう。イルミネーションだってできます。ところが,作業が終わった通りに立つとこころには殺風景さが広がるだけ。これでは緑の季節は到底期待できません。

 

幹線から外れた支線。ここも同じ。若木にも地衣類が生えて,青息吐息の感。表皮がめくれあがって,その下から形成層ができつつある木があっちにもこっちにも。

 

申し訳ありませんが,錆びた感性からはゆたかな土壌は育まれないとわたしは強く感じています。

 


地域ミュージアムで考える(96) 

2022-04-21 | 随想

ミュージアムの生き残り戦略がいろいろ話題になる時代です。実際,刺激がいろいろある時代にあって,個性的な内容を魅力あるかたちでずっと提供し続けるのはたいへんなことです。

不易と流行がある限り,あるものは残り,あるものは廃れるのは止むを得ないことです。ミュージアムを運営する立場にある人は,切実感をもってあれこれ見定めようとしているでしょうが,うまくいかない例が後を絶ちません。公費を潤沢に投入できるところとは違って,厳しい状況を抱える小さなミュージアムではさらにたいへん。それを乗り越えるには決定的な創意が欠かせません。それは小さな知恵の積み上げと言い換えてもよいでしょう。

わたしは地域ミュージアムに身を置いて6年間,ミュージアムのこれからについて内容面や運営面でいろいろ考える機会に恵まれました。たまたま自身は長年サイエンスと青少年の育ちに関心を持って来て,それに関連したしごとに携わっていました。その経緯から,青少年の育成にこころを寄せる市民とともにつくる,市民参加のプログラムを創造する,そんな視点を欠いたミュージアムには先がないのではないかと強く思うようになりました。簡潔にいえば,地域こそパートナーだということです。「地域とつながるミュージアム」づくりともいえます。そのためにはまずこの意識を職員で共有しなければなりません。

最近の話題では,高齢者を中心にした市民グループ提案による「蝶の庭」づくりがあります。ミュージアムの前庭に,一年中チョウを観察できる憩いと学びの空間をつくりたいという声が寄せられました。管理維持はグループが責任を持つ,ミュージアムはその取組をバックアップしてもらえばよい,というものです。

 

わたしたちはそんな試みができないか,これまでに検討したことがあったのですが,いつの間にか立ち消えになっていました。そこにこのありがたい話です。ミュージアムは公共用地にあります。そこは公園になっていて,たくさんの来園者でにぎわいます。グループの代表の方いわく,「そこにチョウが訪れる観察園ができて,たくさんの人に観察してもらえれば,グループとしても活動のしがいがあります。これがきっかけでミュージアムに関心がある方が出てくればさらにうれしいです」と。

公園担当課の理解と協力を得て,さっそく庭づくりが始まりました。はじめはアサギマダラが立ち寄るようにとフジバカマの植栽から。と思っていると,あれよあれよいう間に広がりを見せていきました。広さは2a。資材の調達ではできる範囲でミュージアム及び市役所で協力。花苗・苗木等はグループで準備。

なにしろ,一年中いろんなチョウが訪れる庭ですから,中身は大したものです。花壇の花以外の食草・食樹は柑橘類,ウマノスズクサ,カンアオイ,ホトトギス,フジバカマ,サンショウ,エノキ,ユキノシタ,ブッドレアなど。

この取組がローカル紙に紹介されました。その報道がきっかけで県の緑化担当者が来館。今後,申請すれば緑化事業として全費用を助成させていただくという,ありがたい話です。

「蝶の庭」には木製の名札が複数準備されました。もちろんグループの手によります。

 

高齢者の生きがいにもつながる今回の庭づくりです。科学のたのしさを伝えようとしてきたわたしたちミュージアムにとって,強力な協力者の出現です。

地域ミュージアムが生き残るには待ちの姿勢では到底叶いません。この一例でもご理解いただけるでしょう。「(地域・市民と)ともにつくるミュージアム」「つながるミュージアム」という視点が欠かせません。

 


地域ミュージアムで考える(95) ~続 地球ティッシュボックス~

2021-02-01 | 随想

展開図をパソコンに取り込んで修正を重ねました。それを印刷してボックスを組み立て,六面の図がうまくつながるようにさらに修正。こうして原図が完成。

 

いよいよ着色段階です。パソコン画面上でいくつかのパターンをつくり上げました。

 

組み立ててみます。「さあ,うまくいくかな」。グッズとして来館者に認めていただけるまで到達するには大苦労。

 

スタッフから色についてのアドバイスを聞きながら修正を続けやっと仕上げました。

 

いかがでしょうか。わたしたちのミュージアムでしか発信できない表示内容を含んだグッズです。机上に置いて,気軽に使っていただければと願っています。展開図を印刷した厚紙にティッシュペーパーを付けて販売します。ご来館記念によろしければお買い求めください。

次は,宇宙バージョンのボックス制作をスタッフに提案しています。

 


地域ミュージアムで考える(94) ~地球ティッシュボックス~

2021-01-27 | 随想

魅力あるミュージアムショップのあり方の一つが、展示物とグッズがつながっていて,好奇心をくすぐる提案が見えるかどうか,だと思います。ことばを換えれば,ミュージアムのテーマに沿ったたのしさが伝わり,そこを訪ねた印象が残り続ける仕掛けがあるかどうか,でしょう。

わたしはこのことを念頭におきながら,時間のあるときは知恵を絞って地球グッズをつくってきました。これぞというグッズはなかなか開発できないのですが,いろいろつくってはスタッフや知人に評価をしてもらうのが習慣化しています。いずれいくつかは日の目を見るだろうとの淡い期待感を抱いてもいるわけですが。

そんな中から,最近つくり出したティッシュボックスをご紹介します。地球を描いたボックスにティッシュを入れます。中身がなくなれば,取り換えができるようにしています。特徴は,普通サイズのティッシュでなく,小さめのサイズが入る点。この背景は普通サイズでは“勿体ない”感覚がぬぐえない,つまり大きすぎるという反省によるものです。

まずは展開図づくりから着手。球体を直方体で表す工夫からの開始です。

 

トレーシングペーパーに写しとります。

 

地球儀を手しながら陸地を描きます。

 

完成後,海岸線をマジックでなぞっていきます。

 

まずはこれで展開図が完成!

 


地域ミュージアムで考える(93) ~両蓋付き地球ボックス~

2020-12-31 | 随想

コロナ禍にあって,ミュージアムでクラスターが発生しないよう来館者対応や消毒にはとくべつ気を配って来ました。しかし今の状況は,そんな日常的な心掛けなど軽々と吹っ飛ぶような気がします。

わたしの住む市でも感染者が次々に出てきています。その度に市長が防災無線をとおして各家庭に必要な情報と注意事項を伝えています。わたしなど,人混みに出かける気持ちなどまったく起こりません。しかし,世の中そんな人ばかりではありません。この先どうなるのでしょう。不安でいっぱい。

さて,本題です。今,ミュージアムのスタッフとして「この際,時間を一層生かしてグッズ開発をしよう」と励んでいます。いくつか開発した中から,一点ご紹介しましょう。今回は両蓋付き地球ボックスです。かたちは立方体で,上底面・下底面ともに蓋になっています。折り曲げて見えなくなる内蓋にもデザインを施しています。

展開図を作った後,トレーシングペーパーにそれと地図を写しとります。

 

厚紙に印刷して,切り取ります。

 

それを組み立て,いくつか修正。

 

パソコンに取り込んで線を仕上げ。そして陸地を緑色に着色しました。両底面が蓋になっているのがご理解いただけますか。

 

箱にしてみると……。なんとかイメージに近いものに仕上がりましたが,さて。

 

せっかくなので,手にする方の目を引き付けたい! そこで用紙はツヤのある紙に。いかがでしょうか。まずは非売品としてショップにおき,皆様の反応を見ておこうと思います。

今年一年,皆様方には幾度となくアクセスをいただきまして,まことにありがとうございました。刺激をたくさんいただきましたこと,深く感謝申し上げます。併せて,来年の交流をよろしくお願い申し上げ,本年締めくくりのご挨拶とさせていただきます。

 


学校と除草剤

2020-06-27 | 随想

ある小学校前を自動車で通りかかったとき,そこの斜面が妙に褐色になっていました。自動車が近づいたとき,それは斜面を覆う草々であることがわかりました。ここの直接の管理者,つまり管理職が除草を簡単に済ませようと散布剤を撒いたのでしょう。

とても印象的だったので,申し訳ないと思いながら記念に数枚撮っておきました。校門階段の脇です。

 

学校を含め公共施設で敷地を管理する上で,除草作業には苦労が伴います。自分の経験では,昔からそうした作業は管理職や校務員に委ねられてきました。あるいは教育予算が許すならシルバー人材センターに作業を委託したもので,今も事情はほとんど変わらないのではないでしょうか。

人が頻繁に出入りする施設で,行き来する場所で,薬剤を散布して草を枯らすのは,わたしの範疇では禁じ手です。とくに子どもが生活する空間は厳禁です。いくら毒性が弱い薬剤だからといっても,皆無ではありません。この例の場合散布面積からすると,相当な量だと思われます。健康被害に加えて,景観維持,環境教育上も好ましくないでしょう。

わたしが現職だったときは,除草は管理職の仕事として引き継がれていました。わたしも複数の学校で草刈りを重ねました。いくらたいへんな作業でも,草払い機の維持費と燃料代以外,経費をかけるのは無理な時代でした。作業をしていると地域の人から「おつかれさま」の一声が掛かりました。立ち話もしたものです。みんなの財産を汗で守るのは管理職に課せられた当たり前の仕事で,職員がこうしたことに振り回されずに教育に専念する上でも当然だという雰囲気でした。

考えてみると,周りの水田の畔や土手はみんな手作業で定期的に除草されています。安易に除草剤を撒く人はだれもいません。だからいつも草の色。その中で学校の敷地だけがぽつんと変色しています。一定期間,草枯れ色。このコントラストは異様です。

 

学校はだれにとっても大事な公共施設。住民の血税で維持管理されている施設。そのことへの自覚がしっかりしていないと,こんな光景が繰り返されるでしょう。そうしたいのなら,なによりも地域住民の理解を得なければ……。

さて,今後取るべき話になります。教育予算に計上できるだけの理解が市町当局にあれば,シルバー人材センターに作業委託できるでしょう。あるいは,学校支援ボランティア制度を充実させて,その中で知恵を絞ればどうでしょう(わたしはそうしてきました)。さらに話を発展させれば,学校づくり協議会が設置されているのなら,そこがおおもとになって解決策を探ったらいかがでしょうか。 

まず管理責任者として改善に向け声を上げていただきたいですね。自己判断だけで動くのは禁物です。今施設を管理なさっている方にはたいへん申し訳ないと感じつつ,敢えて書かせていただきました。