ここに昭和初期、富山にあった「日本海詩人」という詩誌の一枚の表紙がある。主宰者は「大村正次」。彼は後年北海道旭川東高の生物教師となった人で、同校逍遥歌の作詞者でもあった。
敗戦を間近に控えた昭和20年7月富山での教師生活に区切りをつけ、家族疎開するとの理由で「渡道」したと語られているが、決して真実を語っているとは思われないものと解している。
確かにその直後、昭和20年8月1日~2日にかけて富山市内だけでも3000人の死者を出したとされる「富山大空襲」があったが、単に家族の身の安全を図る疎開のための移動なら、近隣でも十分なのでは、と考えると、北海道行きの理由としては、薄弱なものと思われてならない。
ここはやはり、隠された理由としては、昭和3年発行の「春を呼ぶ朝」刊行後の自身の虚脱感と、その後の同人仲間が詩集を発行し、彼の元から離脱していったことから嫌気をさして、詩作に限界を感じたのでは、と考えるのが妥当なように思えてならない。
そのことは、その後筆を折って永年詩作をしていないことからも伺われることでもあり、そして思いっきり遠くの地に行くという、「北海道行き」となったのでは?と思うのは考え過ぎであろうか。
摂津国の怪人
しかし、昭和7年に「日本海詩人」を廃刊して13年もの時間がたったあと、詩作に限界を感じたからといって北海道に行くとは考えにくいのも事実です。
富山県と北海道は屯田兵の入植以来縁がありますが、北海道行きはどのようなきっかけで決断されたのか、資料を読み込んでもそのことに触れた文書は見つかりませんでした。
しかし、貴兄が集めた厖大な大村正次資料のおかげで謎の詩人・大村正次の一端を知ることができて感謝しています。
確かに筆を絶ってから長い年月が経ってからの北海道行きですが、戦争疎開であればそう遠くない場所でも
良かったものと思います。然し、大村先生には身近に北海道の情報が沢山有り、近くの全然知らない土地よりは親しみがあったと考えれば、可能性としては大きいものとおもいます。追々その辺の根拠を披瀝させて頂く積りです。