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趙の軍師 李牧

2023-03-29 09:59:23 | 漢詩・古典・エトセトラ

      まだまだ、優れた軍師がいました。                                             

                                                                     李       牧

                                                                     

李 牧(り ぼく、紀元前229年)は、戦国時代の趙の武将。名は(さつ)、字は。  白起(はっき)、王翦(おうせん)、廉頗(れんは)と並ぶ戦国4名将の一人。『史記』「廉頗 蘭 相如列伝」において、司馬遷は李牧を「守戦の名将」と位置づけています。

 李牧は代郡・雁門郡に駐屯した期間、軍を率いて匈奴を大敗させた。また、肥下の戦い・番吾の戦いで秦を大敗させ、武安君に受封された。だが、最終的には讒言を信じた幽繆王(ゆうみょうおう)によって殺害された。李牧の死後、趙の首都、邯鄲(現在の河北省邯鄲市)は秦軍によって陥落し、幽繆王は捕虜となり、趙は滅んだ。

北方の長官

 元々は趙の北方、代郡・雁門郡に駐屯する国境軍の長官で、国境防衛のために独自の地方軍政を許され、匈奴に対して備える任についていた。警戒を密にして、烽火台を多く設け、間諜を多く放つなどし、士卒を厚遇していた。匈奴の執拗な攻撃に対しては徹底的な防衛・籠城の戦法を採ることで、大きな損害を受けずに安定的に国境を守備していた。兵達には「匈奴が略奪に入ったら、すぐに籠城して安全を確保すること。あえて討って出た者は斬首に処す」と厳命していたからである

だが、そのやり方は匈奴だけでなく、趙兵にさえも臆病者であると思われてしまうこととなる。趙王は李牧のやり方を不満に思い責めたが、李牧はこれを改めなかったので、任を解かれた

 李牧の後任者は勇敢にも匈奴の侵攻に対して討って出たが、かえって被害が増大し、国境は侵された。そのため、趙王は過ちに気付き、李牧に任を請うたが、李牧は門を閉じて外に出ず、病と称して固辞した。それでも将軍に起用されたので、李牧は「王がどうしても私を将軍にしたければ、前の方針を変えないようにさせて下さい」と言い、これを許された。そして、李牧は元通り、国境防衛の任に復帰することになった

 ある日、匈奴の小隊が偵察に来た時、李牧は数千人を置き去りにして偽装の敗退を行い、わざと家畜を略奪させた。これに味をしめた単于(たんう)が大軍の指揮を執ってやってきたが、李牧は伏兵を置き、左右の遊撃部隊で巧みに挟撃して匈奴軍を討った。結果、匈奴は十余万の騎兵を失うという大敗北に終わった

 その後、李牧はさらに襜襤(せんらん)を滅ぼし、東胡を破り、林胡を降したため、単于は敗走し、匈奴はその後十余年は趙の北方を越境して来なくなった。紀元前243年、悼襄王(とうしょうおう)の命で燕を打ち、武遂や方城等に侵攻した。

斜陽の趙を守る

閼与の戦いで秦を破った名将、趙奢を亡くし、政治外交で秦に対抗し得た藺 相如(りんそうじょ)が病で伏せていた趙は、紀元前260年の長平の戦いで秦に大敗し、そののち藺相如も世を去り衰亡の一途をたどっていた。また、紀元前245年に廉頗が楽乗と争い出奔したことから、秦の侵攻が激しくなり、紀元前236年に鄴が秦に奪われ、234年には趙将扈輒(こくちょう)が指揮を執る軍勢が平陽で敗れて、10万人が犠牲になった。(平陽の戦い)。そのため、幽繆王は李牧に軍を任せて、反撃に転じることにした。

233年、北辺の功を認められた李牧は幽繆王の命により、中央に召還され、大将軍に任じられた

 同年、秦が趙の赤麗および宜安を攻めたが、李牧はこれを破り退けた。その際、宜安を攻めた秦将、桓齮を肥下の戦いで討っている(あるいは敗走させた)。この功績により、李牧は武安君に封じられた

 紀元前、232年秦は趙の番吾を攻めたが、李牧は秦軍を再び撃破した(番吾の戦い)。さらに、李牧は秦から韓・魏の国境まで領土を奪還し、その勢力を南に押し返した。当時、秦の攻撃を一時的にでも退けた武将は李牧と楚の項燕のみである。

最期

  紀元前229年、秦王政(後の始皇帝)は趙攻略のため、今度は王翦を将とした大軍を趙に侵攻させた。そのため、趙は李牧と司馬尚(司馬卬の父)に応戦させた。苦戦した秦は李牧を排除するため、幽繆王の奸臣の郭開に賄賂を送り、趙王と李牧との離間を画策した。郭開は趙王に「李牧と司馬尚が謀反を企てている」と讒言した。また、幽繆王の母の悼倡后(とくしょうこう)も秦から賄賂を受け取り、趙王に讒言をした

 趙の軍事を掌握し功名の高い李牧を内心恐れていた幽繆王はこれを疑い、讒言を聞き入れ、李牧を更迭しようとした。だが、李牧は王命を拒んだため、幽繆王によって密かに捕らえられて誅殺され、司馬尚も解任・更迭された

 李牧の死後、趙軍は趙葱と顔聚が指揮を執ることになったが、3ヶ月後(あるいは5ヶ月後)に彼らは王翦に大敗し、大勢の趙兵が殺害された。邯鄲は秦軍によって陥落、幽繆王も捕らえられ、趙はついに滅亡した(紀元前228年)

北方の守備隊長
李牧の悲劇 - ゆっくり歴史解説者のブログ (rekishi-shizitsu.jp)  こちらから引用させて頂きました。

 李牧は、趙の宰相として登場したりもしますが、史記だと秦王政の言葉で「宰相の李牧が秦に来て誼を結んだ」とする内容があります。始皇本紀の統一後の嬴政(えいせい・始皇帝)の言葉です。

 史記の廉頗、藺 相如列伝では、李牧は北方にある代の守備隊長として登場します。戦国策の趙策に李伯が趙の孝成王の信任を受け、代の長官になった話があり、李牧の一族か本人の可能性もある様に感じました。李牧は代の守備を任されるわけですが、敵が攻めてくると、城に籠ってばかりで戦おうとしません。味方の趙兵でさえも李牧の事を臆病な人だと思っていたそうです。

趙王(趙の孝成王??)も李牧に戦えと命令しますが、李牧は守ってばかりで戦おうとはしません。損害も大してありませんが、何の手柄も立てない状態でした。趙王もついに李牧を解任して別の人を代の長官にします。すると、新任の長官は匈奴が攻めてくるたびに、出撃して戦ったのですが、被害ばかりが増えてしまい、手柄を上げる事が出来ませんでした。

代の地は軍費で消耗し多くの家畜を匈奴に奪われ、農耕も牧畜も出来ない土地になっていきます。趙王は自分の非を悟り再び李牧を隊長に命じます。この時に、李牧は趙王に「自分のやり方に口を出さない事」を条件に隊長(長官)を引き受けたとされています。

この後、また守備重視の方針でやったとされています。尚、史記によれば李牧は幕府を開き自分の裁量で決められる権利を有していた様です。李牧が治めた地では兵士の待遇がかなり良かったらしく、兵士が自分から戦いたいと李牧に戦いを望みました。

それを聞いて李牧は「然り」と喜んだとされています。兵士が戦いを望むようになると、李牧は原野を人で溢れさせ大規模な軍事訓練を行います。その後、北の匈奴が少数で攻めてきた時に、わざと負けて敵を油断させています。

匈奴は李牧は弱いと判断し、大軍で攻めて来ますが、ここで李牧は応戦する事になります。ただし、李牧は匈奴が突っ込んで来るように、匈奴に略奪させる為に家畜と民衆も用意していたのではないでしょうか。

しかし、李牧は鳥の羽を広げるような陣形を用いて、敵を破ったとされています。つまり、鶴翼の陣を使ったと言う事なのでしょうか?

西の方ではカルタゴの名将ハンニバルが左右の騎馬隊を重視した戦法を使っているので、同じ時期に東西で名将が鶴翼の陣らしきものを使っていた可能性があります。その後、北方に攻め込み匈奴などを大敗させ、匈奴などは10年間に渡って趙に手を出せなかったとする話があります。

中華の国と匈奴

李牧が名将たる由縁の一つは、匈奴を完膚なきまでに破った事でしょう。歴代の中華王朝は、漢の劉邦が冒頓単于に敗れたり、西晋が八王の乱で混乱し北方などの異民族が大量に中華の地に押し寄せてきました。

国では北虜南倭の言葉もあり、歴代中国王朝は北方の遊牧民に苦しめられています。秦の始皇帝が万里の長城を建設したのも匈奴への備えです。

李牧が北方の匈奴に対して、大戦果を挙げ中華を守った事は名将と言われる所以ではないでしょうか。因みに、蒙恬(もうてん)も秦の統一後に30万の兵士を使い匈奴を破っています。秦軍を相手に連戦連勝です。李牧は北方での手柄が認められたのか秦軍と戦う事になります。北方での功績が認められ、中央に召喚されたのでしょう。

尚、廉頗が魏に亡命するなどの事件もあった関係で李牧が呼び出された可能性もあります。しかし、ここでも李牧は大活躍します。燕の城を落としたり秦軍が攻めて来ても撃退したりと大活躍しています。桓騎を破ったりもしているのです。

分かっているだけでも、宜安の戦い肥下の戦い番吾の戦いで秦軍を撃退し趙の防衛に成功しました。紀元前236年に秦の王翦、楊端和(ようたんわ)、桓齮(かんぎ)によ鄴攻めが行われ趙は多くの土地を失っています。

この時期に秦軍を相手に連戦連勝した李牧の活躍は特筆すべきものがあります。

この時代ですが、戦国七雄の楚・魏・燕・趙・韓・斉などの国がありましたが、秦軍の圧倒的な強さの前に太刀打ちが出来ない状態で、秦軍を撃退出来るのは李牧だけだったとも言えるでしょう。幽穆王も李牧の功績を認め武安君としました。

趙の悼襄王に諫言

趙の悼襄王は、美貌で知られる遊女の悼倡(とうしょうごう)を側室に迎えようとします。李牧は「悼倡后は過去に嫁いだ家を破滅に導いている」とし、反対します。

しかし、悼襄王は李牧の進言を聞かず、悼倡后を側室として迎えてしまうわけです。悼倡后が子を生むと、悼襄王は太子を趙嘉から、趙遷に変えています。趙遷が後の幽穆王であり、悼襄王が紀元前236年に亡くなると趙王に即位する事になります。

尚、紀元前228年に秦が攻めて来ると、悼倡后は郭開と共に李牧を讒言した話があります。

とまあ、この位にしておきます。後は文献探し出して読んでね。司馬遷の『史記』とか『十八史略』なんか見るといいざます。→と勝手な事を言う針外しなのでした。

 

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