虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

美濃郡上藩一揆(東洋民権百家伝)

2007-03-28 | 一揆
郡上一揆についても「民権百家伝」に書いていたが、著者小室信介の時代には、まだ「その名隠滅して伝わらず」で、義民たちの名も現在のようにはわかっていなかったようだ。で、この本では、越前の杉本左近なるものの名をあげていた。現代の「郡上藩宝暦騒動史」には義民伝ものっているけど、杉本左近なる人物は出てこない。越前の人だからだろうか。杉本左近は、実在の人のようだ。
また、昔、書いたものをコピーします。一揆があったよ、というただの紹介だけの記事ですが。

美濃郡上藩一揆(岐阜)
( 8) 98/04/25 12:03 03494へのコメント コメント数:1

岐阜県の「郡上(ぐじょう)八幡」という地名は知っていました。
郡上踊りというのが有名なんだそうですね。アユもうまそうだが。
山に囲まれ、川のきれいな小さな静かな村里なのだろうか?
この静かな村里に領主を押し倒すエネルギ-があったわけです。

この踊りが生まれたのもこの一揆が原因とする有力説があるそうな。
一揆によってズダズタにされた四民の融和をはかるために、
新領主が保護奨励したとか。また、この盆踊の歌詞の中に「郡
上義民伝」という一揆の歌詞もあるそうです(大石慎三郎「田沼意次の
時代」)。

経過とかを書いていたら、長文になるので、「日本史年表」(岩波書店)
に出ている記事を引用します。

*宝暦元年 美濃郡上藩の庄屋ら、年貢軽減を要求して、江戸藩邸に出訴。
     (これは、直接、一揆とは関係はないのかもしれないけど)
*宝暦4年 美濃郡上藩の農民強訴、祖法の改悪を阻止。(ここから本格的に
     一揆が始まる)
*宝暦5年 美濃郡上藩の農民、庄屋らの祖法改悪承諾を怒り、老中にかご訴。
*宝歴8年 悲政により農民が越訴した責任を問い、美濃郡上城主金森頼錦(よ
     りかね)を改易する。

宝暦4年からでも4年もかかった闘いですね。
城主金森頼錦は、幕府の奏者番につき、出世コ-スを進むために資金が必要で、
年貢(税)のとりかたを改悪して収入をふやそうとしたそうな。この政策には
幕閣の人間も協力していて、ために、老中や若年寄りも処罰されています。
そして、その空いたポストに登場してきたのが、田沼意次さん。この年から評
定所に顔を出せるようになります。
この郡上一揆は田沼時代の幕を開けた一揆なのかもしれません。

さて、「東洋民権百家伝」にはこの郡上一揆の概略は書いてあるものの、残念な
がら頭領たちの史料見つからず、ということで、わずかに白山神社(越前大野
郡)の杉本左近のことをのべているだけです。
白山神社(社領500石)のある大野郡は、美濃郡上藩の領地らしく、領主から理不尽
なことを命ぜられ、江戸に直訴するというものですが、長文になったので、
おしまい。次の話に移らせてもらいます。
                               

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