虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

涌井荘五郎(明和5年新潟)

2007-03-28 | 一揆
9年前、はじめて一揆について歴史フォーラムで話しだしたのがこの話。このあと、一揆観光とかだんだん悪のりしていった。一揆についても難しいところはかっとばし、自分がかじったところ、わかるところだけ、興味のあるところだけしか話していません。

涌井(わくい)荘五郎(新潟)
( 8) 98/04/24 00:47 コメント数:1


宝天(宝暦-天明)の百姓一揆を$岩波文庫「東洋民権百家伝」の中から
とりだして紹介しま--す。

「東洋民権百家伝」は明治16年に民権家小室信介によって編集された、
日本での最初の、そして、その後は皆無の百姓一揆の頭領列伝です。

講談調で、善は民衆、悪は官といったところがなきにしもあらで、史実的
には確かでないようだけど、しかし、現代でも、この手の本がないのだか
ら、貴重だと思うな。

まずは、涌井藤四郎(藤五郎にはひとつ足りない奴です)。
この本に、初め藤四郎、後に荘五郎と改めた、としています。すると荘太郎
と藤五郎を合体させたような奴ですな。農民ではなく、町人です。百姓一揆とい
うより、これは町人闘争というべきか。

この本には、天明期と書いてありますが、実際には、明和5年、山県大弐が
処刑された翌年のことです。岩波書店「日本史年表」には「9月、越後新潟湊
の町人、御用金賦課に反対して、うちこわしを行う」と出ています。

越後長岡藩(牧野家)も財政難だったのでしょうね。
新潟の町役人(町名主?)と奉行は過酷に御用金(特別税みたいなものか?)を
とりたてるので、藤四郎は人々の困窮をだまっていられず、御用金のとりた
てを延期してほしいとか、町役人は公選にせよ、とか、つまり、市民の立場から、
お上に請願行動をしようとしたらしいですね(むろん藤四郎一人ではなく、かれ
は代表者だったのでしょう)。

しかし、藤四郎たちは密告され、投獄される。これを機に町人たちの怒りは爆発し、
「藤四郎を奪いかえせ」と役所に集団抗議行動。
この本(東洋民権家伝)では、鎮圧に出動した奉行所部隊との衝突がおもしろく書
かれています。

奉行所勢は一揆勢に鉄砲をうって脅かし、一時、一揆勢は散乱しかけるのですが、
この時、「一揆の中より、黒色の衣服にしかと身を装いたる一人の猛者あらわれ
出、いかに方々、恐れたまうな、空砲なるぞ、逃げるな、すすめ」と励ます人が
現われるのです。この言葉で一揆勢は勢いを盛り返し、反撃。役人側は敗走。

役人側、今度は実弾をこめて出動。今度は実弾を発射し、一揆勢もあわてる。
しかし、そこで、また「以前の黒装束の者あらわれ出、またも人々に指図して手
早く屋根に上らしめ、薪(瓦?)をとりて雨のごとく」なげつけさせたそうです。
で、このため、役人たちも鉄砲をうつこともできず、再び、退散。

一揆勢はその日は町役人他、恨みある家々をうちこわすのですが、翌日、またまた
奉行所側との対決があります。
石垣という町奉行が馬にまたがり、部下を従えて、一揆勢の前にきた時、またもや、
あの黒装束の男が「しゃ!物々し!」と笑ってあらわれ、石垣とわたりあい、
「ふみ込み、ふみ込み打ち込む武勇に、石垣、これをあしらいかねて、次第に後へ
と逃げ退きほとんど危うき」という状態に。
決局、この奉行は取り逃がしますが、部下が一揆勢につかまり、命をとられそうに
なるのですが、黒装束の男は、人の命をとっても何の手柄にもならぬ、逃がしてや
れ、と一揆勢にさとす。

どうです?まるで鞍馬天句か怪傑黒頭巾ではないですか(当時はテレビや映画はなか
ったはずだが(^^))
この黒装束の男(たぶん浪人?)の名は五賀野右衛門というらしい。

長くなったので、あとはまとめます。
決局、藤四郎は釈放され、御用金も延期になり、奉行が逃亡してしまったため、2か月
間、民衆が町を支配する状態になります(なにせ、この本だけでは詳しいことはよく
わかりませんが)。もちろん、藩権力がこれをほっておくはずはなく、そのうち藤四郎
も死刑になり、黒装束の男も牢死します。

天保期に「江戸繁昌記」を出版した寺門静軒という浪人も、この一揆について書いてい
るそうです。
                                藤五郎

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