虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

白馬の半左衛門

2010-03-30 | 一揆
久しぶりに一揆旅。

篠山市福住の禅昌寺というお寺の境内に白馬の半左衛門の供養塔がある。

お寺の門前にある説明版によると、こうだ。

「江戸時代の中頃、福住に白井半左衛門という庄屋さんがおりました。頭もよく、気が強く正直な人でした。そのため、自分がよいと思ったことはだれにも相談せず、すぐ実行する人でした。
 そのころ、天候が悪く米ができず、農民は何度も強訴を起こすほどでした。半左衛門は、柼木川の上流から溝を掘って、福住の家々の前を流す工事を始めました。もしも、火事のときには、消火の役にも立つし、いろいろ便利だと考えたからです。
 ところが、それを知った大庄屋は上役にも相談せず、勝手な事をしたというので、篠山藩に訴えました。藩では、大庄屋をないがしろにすることは、つまり、藩を恐れぬものだということになり、奉行所の判定で半左衛門に死罪を申し渡しました。
 刑場に立った半左衛門は、「村人たちのために、喜んでもらえると思ってしたことが、こうなればしかたがない。しかし、わが一念は今に見ておれ、災害のあったときに思い知るであろう」と言って、享保16年(1731年)12月25日に打ち首の刑に処せられました。
 半左衛門が言った通り、それから17年後、寛延元(1748)年に大火が起こり、福住の町52軒が次々に焼けていきました。その猛火の中に白馬にまたがった半左衛門を見たという人が何人もあり、大騒ぎになりました。そこで、町の人たちが相談して、半左衛門の供養塔を建て、その霊をなぐさめることにしました。しかし、それから五十一年目に9軒が焼け、さらに10年後(文化6年)には83軒、町中が全焼するという災害が起こり、明治14(1981)年にもまた大火がありました。町の人々は禅昌寺の境内にある供養塔に四季の花を供え、今もいましめあって火の用心につとめています」

火事の中、白馬にまたがった半左衛門を見た、という話はおもしろく、この話は、結局、火事をいましめる話にされてしまっているが、これは当然、一揆の話だと思う。一揆の話だけど、一揆のことは故意に隠されてしまったのではないか。

説明版に一行だけ「そのころ、天候が悪く米ができず、農民は何度も強訴を起こすほどでした」とあるが、おそらく、半左衛門は当時の篠山藩への強訴に関わりを持っていた人物に違いない。篠山藩は過酷な藩政で知られる。強訴を計画中に、大庄屋に密告され、打ち首。半左衛門は無念だったろうし、村人たちも罪の意識をもっていただろう。で、火事の中の半左衛門ということで、供養塔を建立。実際は、一揆の半左衛門の供養塔ではなかろうか。

説明版には半左衛門と一揆についてはいっさいふれない。火事のいましめとしての半左衛門になってしまう。しかし、この説明版を見た人はだれが読んでも、これはおかしいな、一揆の供養塔ではないのか?と思うのでないのだろうか。篠山の福住に住む人に調べてほしいな。






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2 コメント

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Unknown (kanaliapapa)
2011-05-10 19:00:56
はじめまして。
篠山・福住に住んでいます。
毎年、11月28日に供養塔に近くの住人30人程でお参りをしています。
大火があったので火事をいましめるためだとばかり思っていました。
一揆の供養塔と思えば確かにそう思えます。
また、歴史の詳しい長老に聞いておきます。
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Unknown (荘太郎)
2011-05-11 18:38:03
コメントありがとうございます。
篠山・福住にお住まいの方からコメントいただき、感謝です。
毎年、お参りされているのですね。いつごろから続いているのでしょうね。

あの「説明板」を読んで、なんか変だなあ、と思ったのですが。きっと、なにかの史料があるのでしょうね。

>また、歴史の詳しい長老に聞いておきます。

ぜひ、ぜひ!よろしくお願いします。
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