虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

日本に来たナロードニキ

2005-04-18 | 読書
日本に来たロシア人革命家、ナロードニキがいました。
岩波文庫の「回想の明治維新一ロシア人革命家の手記」(渡辺雅司訳)の著者メーチニコフという人です。

この人は、ゲルチェンとも親しく、ゲルチェンの「過去と思索」という自伝にも出てくるし、バクーニンとも仲がよく、秘密警察の密偵にあとをつけられる筋金入りの革命家です。

この人が明治7年(1874年)に日本にきます。たしか2年くらいで帰るけど。
1874年といえば、ヴ・ナロード運動が最高潮になった年で、メーチニコフの日本行きも一種のナロード運動の一つといえないこともない。パリ・コミューンがつぶされ、ゲルチェンも死に、ヨーロッパが保守反動化したころ、日本に革命が起きた、というニュースを聞いて、日本を見たい!と思ったのでしょうね。

もともとは、(その経緯を書くと長くなるけど)、パトロンは西郷隆盛。
パリで大山巌と知り合い(互いにフランス語、日本語を教えあっていた)、ついで、岩倉使節団のトップ岩倉、大久保、木戸と話す機会を持ち、薩摩藩のための学校の教師として招聘されます。

ところが日本に着いて見ると、西郷さんは故郷に帰ってしまっていたため、文部省の東京外国語学校のお雇い教師として採用されることになります。このとき、東京外国語学校の校長が中江兆民、生徒には、自由民権運動の飯田事件の首謀者村松愛蔵などがいます。

日本の最初のロシア語科教師にナロードニキがいたとはおもしろい!
メーチニコフについては、調べたらもっとおもしろそうなので、いつかまた書きたい。

ついでにトルストイの有名な短編「イワン・イリイチの死」の主人公のモデルはこのメーチニコフの長兄。メーチニコフ自身はこの作品では、「いくさきざきでへまばかりしでかし、・・彼の父親や兄弟、とりわけ細君連中は、彼と会いたがらなかったばかりか、よほどの必要でも迫られないかぎり、その存在すらも想いだしもしなかった」と書かれているそうな。(「回想の明治維新」解説)。革命家って、世間の人から見たらこんなもんでしょうね。