2011年6月号
今回は、『それでも町は廻っている』の単独感想(①)と、
その他作品の感想(②)になります。
以下、ネタばれあります。 (未読の方はご注意ください)
●それでも町は廻っている (石黒正数 先生)
今回の話は、かなり素晴らしい内容でありました!
時期は、2巻収録「それでも町は廻っている」の少し後くらいでしょうか。
入院していた時、お見舞いに来てくれた紺先輩を、お礼がてらスケートに誘う歩鳥。
・・・という歩鳥と紺先輩2人の話だったのですが、
その中身は、紺先輩の内面の変化を描いたものになっていました。
中学時代の紺先輩。
(※) こちらは高校に入ってからの紺先輩でした。
この前のシーンで中学時代が描かれていてます。
冒頭、部活動での人間関係などの問題があり、
そこから独りで過ごすことが多くなったらしい紺先輩が描かれます。
髪の色も黒くて、どことなく歩鳥と重なるイメージになっているのも重要かもしれません。
食事は買ったパンのみ。
これは両親が海外に行ってしまったことが大きな原因で、
かつ自分で弁当作る気にはならないという、紺先輩の状況・心情を表現していますね。
この場面は後半のシーンの大事な伏線になっていて、
かつ紺先輩の重要な変化を示す大きな前提。
また、自分で弁当作る気にならないのも、部活動を含め学校がつまらないからと思われ、
でも「学校行かなくなったら、ママ、ガッカリするかな・・・」と考えて学校へ行き続ける、
そんな紺先輩の“無気力な前向きかげん”も描かれています。
スケートで歩鳥を気づかう紺先輩。
場面はスケート場。
経験者ぶって紺先輩を誘った歩鳥だったものの、
運動神経抜群の先輩の方が上達も早く・・・という展開に笑いを誘われます。
が、紺先輩は歩鳥を気づかって、いろいろアドバイスしようとしてしまう自分を押しとどめ、
「・・・私も初めてでよくわかってないし・・・好きな様にすべりゃいいか・・・ごめん」
なんて、一歩引いちゃうのです。
このあたり、中学の経験から「出しゃばっちゃいけない」とか「相手の顔色をうかがう」
といった特性を持ってしまったのかな~と思われるのですが、同時に相手を気づかえる
謙虚さを持っているともとれて、ふだん無愛想な紺先輩のやさしい一面を垣間見れますね。
でも歩鳥は、ここでべつだん不機嫌になるわけでもなく、紺先輩といっしょに滑ることに
こだわったりして、そのため先輩もきちんと楽しめているが、なんとも安心感あふれる
良いシーンになっているのです。
スケート場を出た後の紺先輩の喜びようから、いかに楽しかったかがよく伝わってきます。
そして、今回の大事な場面ともいえる食事のシーン。
帰りにそば屋へ寄る2人。
いなり寿司だけを頼んだ紺先輩を心配する歩鳥に、
「普段からあんまり食べないからな」と答える先輩。
ここで思い出すのが、冒頭の独りパン食。
あそこでは、食の少なさが「無気力」を表現しているのですが、
それが同時に「生きる力の減退」をも示していると考えられるのです。
学校行きたいくないな、でもママが悲しむかな、じゃあ仕方ないな・・・・・・フゥ。
ここで重要なのは「食」が「生」と直結している点。
つまり「食べること」は、そのまんま「生きること」という意味合いを持っているということです。
このあと紺先輩の前で歩鳥は、それはそれは美味しそうにそばをたいらげてしまいます。
この時使っているのが丸々1ページ!
「ハフッ」 「ズーッ」 「がぶ」 「もぐっもぐっもぐっ」 「じゅじゅ・・・じゅ」 「ぐぴっ」
ただただ、そばを食べるだけなのに、このぜいたくなページの使い方。
見ているだけで、こっちまでよだれをたらしそうになるくらい、美味しそうに食べるんですよ!!
「生きる力」を補充した歩鳥、満足げ。
歩鳥の見事な食べっぷりに触発されたのか、「ごく」と生唾のむ紺先輩。
このあと先輩も、かけそばを頼むことになるのでした。
そして帰りの電車の中、「楽しかった・・・ですか?」と歩鳥に聞かれた紺先輩は、
「こんなにメシ食ったの久し振りだ」と答えています。
楽しかったか?の問いに、満腹と答えている点で、いかに「食」が重要だったかが
うかがえるというものですし、それが紺先輩にとっては久方ぶりの満足だったこと、
おそらく「生きる力」や気力を取り戻したことが、しっかりと受け止められるのです。
さらに電車内の会話に出てくる「石炭袋」も、
かの名作における“暗黒”をイメージすると考えれば、
決して中身のないやりとりというわけでもないと思われますね。
また、今回のタイトル「歩く鳥」について。
これは、そのまま歩鳥のことともとれるのですが、私はちょっと違ったとらえ方をしています。
それは、「飛べる鳥」=一般・普通に対し、部活動などの影響で学校生活に
無気力になってしまった紺先輩を「飛べない鳥」=はぐれ者と位置づけて、
そのうえで「飛べない鳥」が「歩く鳥」になった、というとらえ方です。
行きの電車内から飛ぶ鳥の大群が見えていたのも象徴的で、
帰りの電車で紺先輩は「歩く鳥」になっていた、ということを表現したものなのではないか?
と私などは考えているのです。
これには食事をとれて「生きる力」を回復したことが大きい。
そして、そこに歩鳥が関わっていたことも・・・
「歩く鳥」とは、他の鳥のように飛べはしないのだけれども、
それでも前に進んでゆくために「歩く」という選択をした者、
そうしたものを象徴しているのではないでしょうか。
最後に、トビラを開くシーンについて。
こちらは中学時代の紺先輩が、屋上のカギを手に入れ、
そこから自分だけの居場所を見つけるシーン。
ここでは、それまで「暗い」一辺倒で描かれていた絵が、
扉が開いたことで「明るさ」を取り戻すという表現になっています。
今回のラストでも、扉を開くシーンが出てきているのですけども、
その先にあるのは孤独ではない場所、友達のいる学校であり、
そこへ向かう紺先輩の後ろ姿は、もはや無気力なそれではなくなっているのです。
扉を開くということが、道を開く、もしくは進む・歩くことを表しているように思うのですが、
いかがでしょうか。
紺先輩は、歩鳥の存在によって孤独ではなくなり、また「生きる力」を取り戻して扉を開き、
「歩く鳥」として前へ進んでゆくことができるようになった・・・私にはそんな気がするのです。
母親からの電話に嬉々として「友達とスケートに行った」と語る紺先輩。
その表情は闇の中にあっても、笑顔で和らいでいることがわかります。
もう暗闇も怖くはない。
朝が来て、学校へ行けば、大切な友達が待っているのだから・・・
まあ、ほぼ妄想交じりな感想ではありますが、
私はそういった風に読み取ったわけでして、かなり素晴らしい内容だったと感じております。
紺先輩バンザイ、歩く鳥バンザイ。
そんな感じで、今後もますます楽しみです!