小林恵のNY通信

NY在住47年、2011年より東京谷中に居住。創造力をのばすためのエッセンス、スパイスをいれた私の暮らしの手帖です。

1964年のオリンピック:私のセンチメンタル ジャーニー

2013-09-08 20:48:08 | 暮らしのジャーナル

1964年6月24日、日本脱出。憧れの世界へ飛び出す。

 日本では大京町、新宿御苑行幸用の扉の向かい側、慶応病院の坂下、有名人?が多く住んでいた傑作なアパートに住んでいた。毎日神宮外苑の競技場の屋根葺きが始まり、
カーン、カーンとその槌音を聞きながら日本を後にした。オリンピックの年。初めてツーリズムが4月に解放され、すぐビザを取った。13か国を6か月で回る予定。
予備知識皆目なし。大雪山連峰を見ながら、あの山の向こうに行きたいと夢見て育った。当時は帽子デザイナーで、夢中で働いていたので昔のお客様に会うととても恥ずかしい。

 大勢の友人が羽田に見送りに来てくださlった。タラップを降り、階段を上り、バンザイの声に送られてプロペラ機がとびたったときはわれながら感動した。
”私はひとり” 初めて一人きりになった。
素晴らしい冒険の旅が待っていた。途中で寄ったデンバーの友人、勤めていた麹町のベルモードのモデルをしていたフエイス・カークの美しい暮らしぶりに心から感動した。
デンバ―をたつとき彼女が言った。「ニューヨークには普通のアメリカ人でさえ中々いけないのにあなたは本当に勇気があるわ。アメリカの家があると思っていつでも帰ってきてね」
とハグしてくれた優しさは今でも忘れない。思えば長く、そして短いく楽しいニューヨーク生活だった。

 ニューヨークのアメリカの魅力に取りつかれて47年間,振り向かず自分に負けすに生きてきた。
偶然のチャンスで即刻決定して谷中に住むことになり、
2度目のオンピックを日本で迎えることになり、感慨無量である。

感動を分かち合って

 オリンピックのプレゼンをテレビで見た。高円宮妃 久子様が特に一番素敵だった。テレビの映像を駆使して完成予定未来図をみせ、[既にスポンサーの資金がこれだけ集まっています] と大画面に
スポンサーの名前が出て知事が説明た時、勝負が決まった瞬間だったと思う。その時スペインもブラジルもトルコも負けたことを自覚したと思う。
 帰国して驚いたことはみながお金の話を平気で話題するのにいつも恥ずかしいと思っていた。お金を稼げない人はプロとは言えないともいわれた。価値観が変わってしまった日本を寂しくおもっていた。

 しかし企業がこぞってスポンサーになりうる日本はやはりすごーい!

 オープニングの企画は宮崎駿がやってくれるといいなーと思う。アニメや映画はもう作らないというけれどもたぶんそれ以上のことを考えているに違いない。
ディスニーのおとぎの国はもう古い。想像力を駆使した夢の国、ディスニーを超える世界規模の未来に遊ぶ「科学館」を彼が作ったら世界中のマグネットになれるのでないかしら。

 メイン州から来た最後に残されたシェーカーの老婦人の講演会がフォークアート美術館であったとき、(たぶん彼女は今の私より若かったと思う) 彼女が言った。
「私を醜いと思ってくださっても結構です。皺だらけと思ってくださっても結構です。
しかし年寄りだとは言わないでください」と。

お金でオリンピックを用意できるのもすばらしい。しかしそれだけではない。震災の経験で団結した精神力の勝利ではないだろうか。やはり働き続けた精神力のほうに価値がある。

昔から育まれた日本人が誇る日本の精神力でないだろうか。「たそがれ清兵衛」さんを今の日本に連れ戻してきてあげたい。

こぞって心から応援しよう。外国で暮らすと愛国心が高まる。母国がよくなることは本当に誇らしいことだ。帰国してよかったと日本に心から感謝している。

人生は楽しい。夢見るのは楽しい。夢中になれるのも楽しい。小さくてもいい。そこそこでもいい。休みたいとは思ってはいけない。

 

 


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