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観・環・感

野鳥観察や旅行、映画などの趣味と日常生活や世の中の状況について、
感じる事を書いています。

修善寺の桜

2014年04月30日 | 旅・風景・グルメ


ツアーのバスの中では、観光地に到着する前に添乗員さんが名所の由来を説明してくれる。ここ修善寺での説明は、弘法大師がこの地を訪れた807年
に際に病弱の父親の体を洗う少年を見つけ、その孝心に心を打たれた弘法大師が「川の水では冷たかろう」と手にした独鈷杵で川の中の岩を打ち砕き、
そこから霊泉を湧出させた。という伝承話を説明してくれる。
さらに話は続き、大師が父子に温泉療法を教えたところ、摩訶不思議、父親の十数年の固疾はたちまち平癒、その後この地には温泉療法が広まったと伝え
られている。伊豆地方最古の温泉。


桜の背後にあるのが本堂
修禅寺という地名の元になった寺の修善寺は、空海(弘法大師)が同年807年に開基し、その後荒廃・再興を繰り返し、真言宗から臨済宗 、そして曹洞宗
になったそうだ。
鎌倉幕府2代将軍の源頼家が御家人間の権力闘争に巻き込まれた形で修善寺に幽閉され、実母の北条政子に許しを乞うたが聞き入れられず、暗殺されたこと
でも知られている。


かなりの雨が降っている。


この川は、蛍が舞う川として有名な桂川


修善寺温泉街を流れている桂川のほとりにある竹で囲まれた遊歩道「竹林の小径」
「竹林の中に自然石を敷き、建仁寺垣や桂垣を配した風情のある光景は、「伊豆の小京都」と称される修善寺にふさわしい。」と喧伝されている。
しかし、この竹林の小径はもともとこの地域に繁茂していた竹の活用ということで、1995年から1997年に工事をされた事業であり、小径自体は
新しいものだ。

熱海後楽園ホテル

2014年04月20日 | 旅・風景・グルメ
三嶋大社の桜見物の後は早めの宿入りということで、熱海後楽園ホテルに4時半頃着いた。しかし、生憎雨がかなり
降っていたので、繁華街の散歩は適わなかった。


熱海後楽園ホテルは、株式会社東京ドームグループ内の株式会社東京ドーム・リゾートオペレーションズが運営をしている。


ホテルの部屋の窓は開かないので、窓ガラス越しに相模湾と市街地を撮影。


ここの夜景は、東洋のナポリと呼ばれているらしい。ナポリは行ったことはないが、確かに素晴らしい。
天気が良ければ外に出ていたのだが残念だった。


撮影の許しをもらって担当の仲居さんをパチリ この笑顔が旅の疲れ癒やし、料理とお酒を美味しくしてくれる。

三嶋神社 その3

2014年04月18日 | 旅・風景・グルメ
三嶋大社内の神池(心字池)は、鎌倉時代、源頼朝が放生会を行ったことで有名。
※ ウィキペディアによると放生会(ほうじょうえ)とは、捕獲した魚や鳥獣を野に放し、殺生を戒める宗教儀式である。仏教の戒律である「殺生戒」を元とし、
 日本では神仏習合によって神道にも取り入れられた。

この池で大きな錦ゴイや真鯉が泳いでいた。


屋台の鶏のからあげの看板に目を奪われ、下の池にいる錦鯉が目に入らない。






鯉は、この桜の花びらが全部餌だったらとか考えていないのだろうか。考えているのは人間だけか。

三嶋大社の桜 その2

2014年04月16日 | 旅・風景・グルメ

このような曇り空での桜の撮影は、上手くないカメラマンにとっては、非常に難しい。カメラ撮影の教則本には画面に空を入れるなと書いてあるが、
素人はどうしても画面に出来るだけ多く景色を取り込みたい。


昨日のブログに大勢の花見客で賑わっていたと書いていたが、UPした写真を後から見てみると、どういうわけか人は疎らで神官たちがひまそうにして
いる感じに見えたので改めて大勢人がいる写真をUP


同上


バスツアーで桜見物にも割合行っているが、桜の開花状況がちょうどいいという確率は約3分の1だ。旅行日程に自然が合わしてくれるはずがないので
致し方ないないが、七大桜巡りツアーと題した今回のは桜には恵まれた。


三嶋大社の桜 その1

2014年04月15日 | 旅・風景・グルメ
しばらくの間、今月の4月2~4日に行った桜の名所の写真をアップしようと思う。と言っても気に入った野鳥の写真が撮れたらそちらが優先になるのだが。
(むしろそのほうが望ましい。しかし、実際のところは、今日久しぶりにバードウォッチングに出掛けたのだが、手ぶらで帰ってきた次第。)


三嶋大社は、平日で天気も良くなかったが大勢の花見客で賑わっていた。


本殿
本殿の大きさは、出雲大社とともに国内最大級らしい。
三嶋大社で結婚式を挙げたい人というは多く、レッドソックスの松坂大輔投手、柴田倫世元アナもここで結婚式を挙げてる。


神官の着ている祭服の上着の色が桜と似合っている。


キンモクセイ(金木犀)
樹齢は1200年を越えると推定される巨木で円形に広がっている。(国指定天然記念物)


この案内板に、風向きによっては10キロ四方に渡って甘い芳香を放つと書いてあるが、そのこともあってここはパワースポットとして有名なのだろうか。

月岡温泉 華峰

2014年03月26日 | 旅・風景・グルメ

左が白玉の湯 華峰、右が別邸越の里 (越の里は全室スイートタイプ)
写真のように周りには何にもない田んぼの真ん中にある月岡温泉。しかし、流行のスーパー銭湯の集まりではなく本格的な温泉だが歴史は浅いようだ。
添乗員さんの説明では“1915年に石油開発が始まり、新潟県の新津を中心とした東山油田の一部地域として当地月岡でも大勢の小規模事業者が
入り、石油の掘削が行われていた。事業者共同で最後の一本を深く掘削すると温泉が出てきたが、温泉の下には石油なしと判断した石油事業者は解散。
しかしその中の石油組合の専務理事であった本間周三郎氏が石油業に見切りをつけ、温泉場の建設を思い立ち湯小屋(共同浴場)を作り、人夫達に
旅館経営をすすめたのが、月岡温泉発祥の始まり”と言う話だった。温泉街には大小24軒の旅館があるらしい。また、この月岡温泉が全国に知られる
ようになったの1982年の越新幹線開業と関越自動車道開通によって関東・首都圏からの交通アクセスがよくなったことが大きな要因だと話してた。


正面から見た華峰
旅行新聞新社が主催した全国旅行会社による投票・集計による100選の施設を選出し、その結果、「もてなし」「料理」「施設」「企画」の4部門の
合計点からなる総合ランキングの3位が華峰らしい。
ちなみに、このランキング10の中で外に2軒泊まったとことがあるが、そのうち1軒は疑問符がつく。しかし、華峰は、全国3位かどうかは別にして、
いい旅館だった。
ここの温泉の大きな特徴は、まるで入浴剤を使ったのかのような綺麗なエメラルドグリーンの色をしていること。泉質は含イオウ・ナトリウム塩化物温泉
ということだが、温泉の色はその日の天気や気象条件によって微妙に変化するらしい。


宿泊階の廊下から温泉街を眺めると同じ白玉の湯の泉慶が見える。


部屋からの眺め


ロビー
この旅館に来る道中のバスの中で見たビデオ、月岡温泉界隈やここ華峰を舞台とした奥田瑛二主演の「新雪国(2001年)」は面白くなかった。映画の中で
ここの女将さんと主人公の話す場面にこのロビーが使われていた。女将さんは、私たちバスツアーグループの夕食会場まで挨拶に来られていた。

鶴ヶ城

2014年03月21日 | 旅・風景・グルメ
2月24日、日光の社寺の観光の後、会津若松に行った。


案内板に鶴ヶ城と書いてある。
地元では、会津若松城が鶴ヶ城と呼ばれていることも知らなかった。
幟に八重のふるさと、福島県とある。

綾瀬はるかは、2004年の「世界の中心で愛を叫ぶ」でヒロインを演じた時に彼女の役作りのための坊主頭や10kgもの減量という役者魂に感心し、
その時からの隠れファンだ。(高倉健主演の映画「あなたへ」での漁師町の娘役も良かった。)
しかし、彼女がNHKの大河ドラマ「八重の桜」で演じた「新島八重」については、何も知らなかった。夫の新島襄は知っているが。
テレビは見ていないが、同じ鶴ヶ城つながりで、郷土のライバルといわれている「大山捨松」のことは、その名前の強烈さから知っていた。(捨松の名前の
由来も知っている。)
鶴ヶ城と話はそれるが、来年の大河ドラマ「花燃る」の主人公である吉田松陰の妹、文(美和子)のことも全く知らない。


石垣の角がきれいに揃っている石組み


この石垣を見てると天守閣が倒れないかと不安だが、天守閣全体を4本の柱だけで支えており、土台の石垣には、重量がかかっていないとのこと。
ちなみに、江戸時代からあった天守閣は幕末の戊辰戦争で傷み、その後、1874年に取り壊され、写真の鉄筋コンクリート造の天守閣は1965年に再建されたもの。
野面積みの石垣は江戸時代のもの。


城の周囲に桜が植えられているが、戊辰戦争当時は植えられていなくて、1908年にここ会津若松市に陸軍歩兵第65連隊が設置された記念に植えられたもの
だとボランティアの案内人が言っていた。
この辺りの角度から見た城が一番綺麗と思った。


天守閣の最上層か見た山容の美しいこの山は磐梯山だろうか。






世界遺産 「日光の社寺」 東照宮その5

2014年03月14日 | 旅・風景・グルメ

国宝の唐門とそれに連なる透塀、後ろは拝殿その後ろに本殿がある。


唐木を使用しているので唐門と呼ばれているようだが、門全体も中国風である。
唐木とは、紫檀、黒檀 、白檀、鉄刀木(たがやさん)など遣唐使のころ日本へ中国を通じて輸入された銘木のこと
東照宮の最も重要な本殿への正門がこの唐門で、現在この門を潜るのは、正月や大祭など中祭以上の祭典の時か、国・公賓相当の方の参拝の時だけだそうだ。
江戸時代は「御目見得」以上の幕臣や大名だけが通れた。


唐門正面の上部には、「舜帝朝見の儀」の彫刻(写真一番下)があり、舜帝は、古代中国の伝説上の皇帝で、舜帝が残したとされる「内平外成」の
言葉から平成の元号が選ばれたそうだ。1本のケヤキに4列27人の人物が彫られている。ところで、舜帝は堯から帝位を受け継ぎ禹に渡した。
そのことは、徳のある者へ正しく政権が移った理想の政治とされている。この彫刻は、実は家康を立てながら、家光が正式に将軍職を継いだことを
表しているそうだ。

(中央部分で椅子に腰掛けているのが舜帝で、家康の顔に似せているようだが、この写真は、上から2枚目の写真の一部を切り取った写真。しかも
2枚目の写真も他の写真の一部を切り取った写真であるので不鮮明。というか、この彫刻のことを後で知ってからの作業なので、撮影当初から舜帝朝見の儀
にはピントが合っていない。
唐門が国宝であることも知らず、しかもこの門は胡粉が塗られていて白く、他の建物に比べると地味。そのう上に間口3m。奥行き2mの小さな門なので、
余り写真を撮っていない。これから撮影に行く時には事前に撮影スポットの下調べをしておかねばと思った次第。)


この国宝の透塀は、唐門の左右から延びて本殿、拝殿を囲み延長は160メートルあまり。


東照宮内をなぜお坊さんが闊歩してるのか、はたまたお堂の中にもいるのか、行った時は不思議だった。しかし、この本地堂(輪王寺側は、薬師堂)と次の輪蔵は、
東照宮と輪王寺がその所有権を巡って争っており、これら2棟については、財団法人日光社寺文化財保存会が管理団体に指定されている。しかし、実質的な管理運営は、
輪王寺側がしているということだろう。


輪蔵(経堂)その横は鼓楼
仏教の経典を納める経蔵だが、建物の真ん中に8角形の回転式の書架が置かれていることから輪蔵の名がついている。
  

世界遺産 「日光の社寺」 東照宮その4

2014年03月13日 | 旅・風景・グルメ

この五重塔は表参道の一の鳥居(石鳥居)をくぐった左手にある。1650年に小浜藩主・酒井忠勝によって建てられたが、1815年に落雷のため焼失。
現在の塔は忠勝の子孫である酒井忠進が1818年に再建したもの。この五重の塔もこれだけが存在してれば、豪華絢爛、裏返せば派手で、けばけばしい
五重塔としか思わないが、東照宮全体の建物が派手なので特に違和感はない。しかし、一般的な多塔は上層部へいくに従い細くなる、いわゆるツリー状に
なるのに対し、この五重塔は一層部分と五層部分の大きさが大きくは違わない。つまり、見た目には細長く安定性の悪い建築物のように見える。しかし、
この塔の免震構造をスカイツリーが参考にしたといわれるほど構造的にも優れた塔であるようだ。


下神庫
特に有名なものもなく、周りに誰もいなかった。


左から上神庫、中神庫、下神庫
三神庫とは下神庫・中神庫・上神庫の総称で1635年に建てられた。
高床式で校倉造りとなっており、内部には「百物揃千人武者行列」に使用される1200人分の装束や舞楽用の装束などが収められている。


上神庫の屋根の軒下にあるこの象の彫刻は、「三猿」、「眠り猫」と共に日光三彫刻の1つとされている。
この彫刻のことは後で知ったもので、特に写真を撮っておらず、無理に拡大した写真なので、不鮮明な上、左の象は白飛びしており本来の色が全く
分からなくなっている。
下絵を書いたとされている狩野探幽は、本物の象は見たことがなく、象についての話を聞いただけで想像してこの象を描いたといわれており、「想像の象」と
呼ばれている。この上神庫は「御宝蔵」とも呼ばれ、最重要な御神宝をしまう庫である。


眠り猫の案内板


左甚五郎の作と言われている眠り猫の彫刻で国宝である。猫の大きさは、20cm程度だろうか。

世界遺産 「日光の社寺」 東照宮その3

2014年03月11日 | 旅・風景・グルメ

左から陽明門、鐘楼、朝鮮鐘、オランダ灯籠、鼓楼

日光東照宮で一番の見所の陽明門は、写真のようにすっぽり覆われていた。
鐘楼には釣鐘が納められている。


朝鮮楼は、3代将軍家光公の長子(後の4代将軍家網公)誕生を祝賀して、日本に来た朝鮮通信使が献納したもの。


オランダ東インド会社から1636年、1640年、1643年と3回いずれもオランダアムステルダムで製造された灯籠が
献納された。
1636年(寛永13年)に贈られたこの灯籠は、奇しくも寛永の大造替(現在の東照宮)が完成した年と重なる。
ところで、オランダのアムステルダムで造られたこのオランダ灯籠がここにあるには訳がある。
この献納は、ポルトガルとの貿易の利権をめぐる熾烈な競争の中のオランダ側の幕府の対する賄賂のようなものだが、ネット検索でもっと面白い
ことを見つけた。

オランダは、スペイン、ポルトガルに対抗し中国の生糸を入手するため、1624年年、台湾に拠点として商館と要塞(ゼーランディア城)を設けた。
同じ頃日本も台湾などを拠点にアジア各地との貿易を拡大しようとしていた。1626年に2隻の日本船がゼーランディア城近くに立ち寄った。
中国大陸との貿易のためである。オランダは、貿易品に課税しようとし、日本が支払いを拒否すると、貿易品を没収した。

1628年、報復のために、日本の朱印船(船長:浜田弥兵衛)が500人の乗組員と武器を満載して、ゼーランディア城を攻撃し、貿易品を奪い返し、
オランダ人5人を人質に取った。浜田らの訴えにより、オランダとの貿易は全面的に停止され、長官のヌイツは責任者として日本側に引き渡され、
人質と交換に幽閉された。(1636年解放)これにより解決が図られ、1633年(寛永10年)貿易が再開される。貿易許可の「御礼」としての
オランダの長崎商館長の江戸参府は、このとき義務付けられ定例となった。


葵の紋が逆さまになっている。これが大名が寄進した物なら切腹ものだが、オランダだから咎めはしてないようだ。


日光東照宮には、全国の大名等から献納された灯籠が121基もある。
透塀の前に立つ雪で見えないこの銅製の灯籠は、一本灯籠と呼ばれ2代将軍秀忠の5女で、後水尾天皇の中宮となった(東福門院和子)が奉納したもの。