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観・環・感

野鳥観察や旅行、映画などの趣味と日常生活や世の中の状況について、
感じる事を書いています。

世界遺産 「日光の社寺」 東照宮その2 「三猿」

2014年03月09日 | 旅・風景・グルメ
日光東照宮の表門をくぐり、左あるのが神厩舎の有名な三猿

猿が両手で両目、両耳、口を覆っていることから「見ざる、聞かざる、言わざる」と語呂合わせが上手くできているため、三猿は、日本が起源と思われがちだ。
しかし、世界各国にこの意匠は存在するようで、有名なとろでは古代エジプトやアンコールワットにある。これらは当然、日光東照宮より古いので、日本が
起源でないことについては、はっきりはしている。現認できているもので一番古い物は、古代エジプトのものらしい。だから、シルクロードを経て中国から
日本に伝わったとする説が有力だそうだ。


しかし、東照宮の神厩舎の長押の上の猿の彫刻は、有名な三猿だけではなく、全部で8面あり、独自のストリーを持っている。
ストーリーは、母猿が小猿の将来に思いを馳せているこの場面から始まり、最後の場面は、この小猿も身籠もるということでまた最初に戻るというお話になっている。


2番目の場面がこの有名な三猿だ。
分別の難しい幼少の頃は、悪い事を見たり、聞いたり、言ってはいけないという教訓


ここに1面毎の意味が書かれている。


神厩舎全景

ところで、厩舎になぜ猿なのかというと、猿「は、馬の病気を治すという信仰があり、また、実際に馬小屋に猿も一緒に飼ってていたそうだ。
猿が馬の守護神とされたのは、「陰陽五行説の馬は火、猿は水に相当する」だから、火を水で消すということで猿が馬を守ると説明がつくらしい。

世界遺産 「日光の社寺」 東照宮その1

2014年03月08日 | 旅・風景・グルメ

入口に東照宮と書かれた葵の紋が光る石柱が置かれている。


この石鳥居(一の鳥居)は、黒田官兵衛の長男、長政が奉納した物で石材は九州から運ばれている。
また、扁額に書かれている東照大権現という文字は、後水尾天皇の宸筆といわれている。扁額の大きさは畳1畳分


表門
阿吽の仁王像を安置しているので、昔は仁王門と呼ばれていた。仁王は仏教の守り神ということで、明治4(1871)年実施の神仏分離令により、
この仁王像は大猷院の仁王門に移された。それ以来、門の名称も表門と呼ばれるようになった。仁王像がここに戻ってきたのは明治30(1897)年
になってから。


表門の裏側には狛犬がいる。

家康が日光に祀られることになったのは、家康本人の遺言からである。家康は遺言中に「遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に
小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること。」と示したので、二代将軍の秀忠は忠実に簡素な霊廟を建てた。
しかし、家康を敬愛する第三代将軍の家光によって、「寛永の大造替」が行われ、その結果が今日の世界遺産登録に至ったということ。
派手派手しさもここまで徹底すれば(芸寿的に高めれば)けばけばしさとかいかがしさは感じない。

世界遺産 「日光の社寺」 輪王寺その2

2014年03月05日 | 旅・風景・グルメ

真ん中にロケットのような形をした変わった青銅のオブジェのような物があある。(左は平成の大修理中の三仏堂、右は大護摩堂)
高さ、13.2メートルで、徳川3代将軍家光の発願によって天海大僧正(家康、秀忠、家光のブレーン)が建てた相輪塔というものらしい。天台宗の宗祖
伝教大師最澄が建てた塔を模して造られたようだ。この中に法華経を 始めたくさんの経典が納められている
当初は東照宮も奥院にあったが、慶安3(1650)年に二荒山神社近くに移築。明治8(1875)年に、神仏分離令によって現在の場所に移された。

相輪橖(塔)を検索するとkotobank(ことばんく)に
“【相輪】より
…相輪の原形はインドのストゥーパが中央アジアを通って中国に伝わり,基壇,土饅頭形の墳丘,平頭,宝傘という構成が,露盤,伏鉢,請花,九輪に
変形し,木造高楼上に安置された。相輪自体がストゥーパを意味し,相輪のみを地上に建てた相輪橖(塔)(輪王寺)もある。古くは複数の相輪をもつ塔
(長谷寺千仏多宝塔銅板など)もあった。…

【塔】より
…石塔は日本では小さなものしかなく,形式としては多層塔,多宝塔,宝塔,宝篋印(ほうきよういん)塔,五輪塔,無縫塔,笠塔婆などがある。鉄塔や
銅塔には相輪橖(そうりんとう),宝塔,五輪塔などがある。木造塔は舎利奉安のため,または大日如来の三昧耶形(さんまやぎよう)として建てられたが,
のちには伽藍(がらん)を荘厳(しようごん)するものとして,あるいは故人の供養のために建てられるようになり,神社にも設けられるようになった。…”

次にストゥーパを検索すると
“サンスクリット語で「stuupa」は、本来ものが堆積して高くなり目立つ、という意味である。

(1) 古代インドの丸く土を盛上げた墳墓
(2) 仏陀(あるいは阿羅漢など)の遺骨(あるいは髪、持物など)を埋納し、仏教徒たち が尊崇の対象とした半球形、またそれが変化発展した形の建造物、
  すなわち仏塔。
 通常は(2)の意味に用いる。
 中国、日本などの卒塔婆、塔婆、塔という語もストゥーパに由来する。
 伝説によると仏陀の入滅後、火葬骨(仏舎利)が分割されて8基の仏塔が建てられ、アショーカ王の時代にこれを発掘して、再分割して8万4千基の仏塔が
 建てられたという。"

さらに相輪塔など「塔」について調べていくとウィキペディアに詳しく載っていた。


尖端部分を拡大してみた。葵の紋もきっちり刻まれている。

世界遺産 「日光の社寺」 輪王寺その1

2014年03月03日 | 旅・風景・グルメ

輪王寺の三仏堂は、約50年ぶりの大修理(2007年から2020年 予定)が行われている。
工事の施工業者は、スカイツリーを建設した大林組


これが実物大の三仏堂(金堂)の写真 扁額には金堂と書かれている。
中に入って参拝できる。


大護摩堂

日光山内の社寺は、東照宮、二荒山神社、輪王寺に分かれ、これらを総称して「二社一寺」と呼んでいる。東照宮は徳川家康を「東照大権現」という
「神」として祀る神社であり、二荒山神社と輪王寺は、奈良時代に山岳信仰の社寺として創建されたのが起源である。「二社一寺」が明確に分離する
のは明治初年の神仏分離令以後のことであり、近世以前には、山内の仏堂、神社、霊廟等をすべて含めて「日光山」称し、神仏混淆の信仰が行われていた。
グーグルマップで日光山内を見ると、輪王寺に属する建物が一箇所でなく、日光山内の各所に点在しているのがよく分かるが、それは、このような事情
によるものだ。

この日光東照宮、日光二荒山神社(別宮本宮神社、別宮滝尾神社を含む)、日光山輪王寺(大猷院霊廟を含む)は、1999年12月2日に世界遺産と
して登録された。登録名は、「日光の社寺」である。」103棟(国宝9棟、重要文化財94棟)の「建造物群」と、これらの建造物群を取り巻く
「遺跡(文化的景観)」が登録されている。

私がここへ来たのは、3回目だが、世界遺産に登録されてから来たのは初めてである。
この二社一寺、纏まって世界遺産になっているから仲が良いのかと思ったら大間違い。かっての東照宮は、神仏両方からの参拝を基本としていて、輪王寺の
僧侶が仏事、二荒山神社の神主が神事を執り行う共通の神廟だったらしい。東照宮と輪王寺の争いの発端は、明治4年のいわゆる神仏分離令に遡る。この
事情は、「東京高等裁判所第十二民事部昭和45(ネ)1356:民事控訴事件」の判決の以下の要旨で分る。

「一、 元和三年創建以来日光山座主の管理下にあつた神仏混淆の東照宮は、独立の法主体性を有する神社であつて、神地内にある仏式の七堂塔は、その建造の
当初から東照宮の所有に属していたものと解すべきである。二、 明治政府は明治四年、いわゆる神仏分離令に基づいて、満願寺(筆者注:輪王寺は、戊辰戦争後
の明治2年に政府から称号を没収され、旧称の満願寺に戻された。)僧侶に対し東照宮神地内にある仏式の七堂塔を寺地に移遷すべきことを命じたが、この命令
によって右堂塔の所有権が満願寺に移転したものと解することはできないのみならず、移遷の命令も後に撤回されたので、堂塔は、その所有権の帰属になんらの
変更を生じなかつたものと解すべきである。」

さらに、「経蔵」「薬師堂(本地堂)」など、一部の建物については21世紀の現在になっても東照宮と輪王寺のいずれに帰属する建物であるか決着していない
ようだ。これらの懸案が未だに尾を引いていることは、ごく最近の地元「下野新聞SOON」の二社一寺共通拝観券販売を巡る以下のニュースを読めば分かる。

“世界遺産「日光の社寺」の共通拝観券制度(筆者注:明治時代から続く)をめぐる社寺間の問題で、日光東照宮は2月27日、日光市内で会見を開き、新たな
共通券の販売に向け、日光山輪王寺や日光二荒山神社との協議に応じる意向を示した上で、「輪王寺が謝罪しない限り、崩れた信頼関係は戻らない。協議成立も難しい」
と強調した。輪王寺が東照宮、二荒山神社と共同で運営してきた共通券の販売再開を求めた仮処分申請は、26日に輪王寺が申請を取り下げて終了した。宇都宮地裁が
まとめた審尋調書は「協議成立時には」との条件付きで、新たな共通券の発行が確認された。仮処分取り下げについて、東照宮の稲葉久雄宮司は「400年祭の開催前に
終わることができ、良かった」と述べた。ただし、共通券の再開に向けた協議はそれぞれの主張や思惑で対立する可能性は高く、難航が予想される。稲葉尚正総務部長は
「信頼関係の再構築が不可欠で、そのためには輪王寺が直接または文書での謝罪をするべきだ」とした。3者による協議は今後、「二社一寺」の当番である二荒山神社が
呼び掛けるなどして、開催する見通し。”

私にとっては、神も仏もありがたいと思っておりどちらも平等だ。しかし、明治政府が天皇の神権的権威の確立のためにとった神道保護と仏教抑圧のための政策(神仏分離令)
のせいで両者の対立が深まったのだろう。国が宗教に関与する事はいけないのは当然だが、寺と神社間の裁判を担当する裁判官も大変だろう。白黒つけがたい事案に一方的な
判断を下すと、敗者側のたたりが身に及ぶかもしれないなどと不謹慎な事を考えてしまった。


駐車場から見た風景

2014年02月28日 | 旅・風景・グルメ
2月23日から25日までの2泊3日のバス旅行、いつもと違うのはバスでそこまで行けるのかというような長距離旅行。
今回は香川、徳島の合同の穴吹トラベルのツアーだが、香川の宇田津町から乗客の初日の乗車時間は、なんと13時間を超えた。
その上にツアー初日は、観光地への立ち寄りもなく、高速道路のSAかPAでのトイレ休憩のみ。目的地は、ホテルのある鬼怒川温泉。
現在、この旅行の写真を整理中。最初のブログは、旅行番外編の駐車場編


駒ヶ岳サービスエリア 2月23日12時半
後ろに見えるのが駒ヶ岳?


横川サービスエリア 2月23日15時
後ろの山は表妙義の山並み 
左のピークから順に 白雲山、天狗岳、相馬岳


日光で駐車した磐梯日光店屋上駐車場 2月24日10時半


那須高原サービスエリア 2月24日12時半
山が見えないので代わりに


サービスエリアのフードコートにある「好好炒飯」の「那須高原ちゃんぽん」(口に入れる直前に写真を撮ることを思い出したので、具を少し混ぜている)
添乗員さんが、「これ一杯で厚生労働省が野菜摂取量の目標として掲げている350gを補える。」と言ったので食べてみた。
旨味たっぷりだが、しつこくないスープと太麺が特徴のこのチャンポン、結構美味かった。

元旦の五箇山

2014年02月13日 | 旅・風景・グルメ
もう20日以上鳥を見に行っていない。夜のウォーキングも同様だ。今日は、市役所に用事があったので、
車で出掛けたが、体調は戻っていない。暖かい車から外へ出たとたん咳が止まらなくなる。市役所から外へ
出るときも同じだ。それに生憎の天気だ。仮に鳥が見えたとしても写りが良くない。ということで、ビデオ
で映画鑑賞をしている。映画のことを書きたいが、どうしても「ネタバレ」ということになってしまいがちなので
書きづらい。
ところで、明日また雪が降るようだ。
雪と言えば、今年の元旦に五箇山へ行った時に雪が少ないのに驚いた。









粟津温泉 法師

2014年02月09日 | 旅・風景・グルメ

法師の玄関


茶室「松風」


松風の入口から右側の部屋の床の間


松風の入口から左側の部屋の床の間(この部屋で講話を聞いた。)


講話の際、この写真の左端に写っている銅鑼を使用された。
話の中でこの朱や群青の色壁は、加賀三代藩主・前田利常公から特別に使用を許されたものだ言っていた。

今年の元旦は、「伝承一千三百年 この温泉にはわけがある」がキャッチフレーズの石川県小松市の粟津温泉「法師」で
迎えた。旅館 法師の歴史は、白山の開祖・泰澄大師が粟津温泉を発見したとされる718(養老2)年から始まる。
泰澄大師が弟子に、湯治宿として任せたのが法師の始まりのようだ。
ところで、 創業の古い企業としてよくテレビにも出てくる一番有名な企業は、大阪市四天王寺にある金剛組。この四天王寺
や法隆寺など寺社の建築で知られる金剛組も2006年に578年から続いた金剛家による経営は終わっている。
長い歴史があるからというだけで経営が続くものでないことは誰でも分かっていることだが、創業家の子孫としたら、自分
の代で終わるのは申し訳ない、情けないと思い、歴史の古さを恨むこともあるだろう。
先の金剛組に話を戻すと金剛家の家訓の一つにある「儲けすぎるな」という事業の基本に外れることをしたということだ。
経営破綻の原因はバブル時代にあり、当時は、何でも高いものから売れた時代で、寺の本堂なども高級志向となり、材質や
デザインのグレードも高くなり、しかも競争でなく、特命受注が多かったので利益もかなり出た。そんな環境下で、金剛組は
高コスト体質になってしまった。コストは下方硬直性が高いので元に戻すことは難しい。しかし、やがてバブルが崩れ、厳しい
生存競争が始まった。寺の本堂なら1棟8千万円だがホテルやマンションなら1棟で5億円。とはいえ、一般建築を専門とする
ゼネコンと金剛組とでは、コスト体質が違いすぎ、常識的に考えると勝ち目がない。しかし、それを無理して受注し、5億円で
請け負ってコストは6億円ということもあったらしい。
 話を法師に戻すとバブルの頃は法師を予約をするだけでも大変だったらしい。もちろん、それが続いていれば私などは泊まれ
ていなかったのだが。当主のお話によると最近はバブル崩壊以降の長く続くデフレの影響で、合理的な手法で料金を低く抑える
旅館やホテルのチェーングループも増え、苦戦が続いているとのこと。
「耐え忍ぶこの時期に、伝統ある法師だからこそできることがある。」と一昨年亡くなった長男の寛(享年四十六歳)さんに
生前、肩を押されて始めたのが、法師の宿泊者への早朝講話である。私たち夫婦は元旦の朝に聞かせてもらった。
 午前6時45分から約1時間、北陸の伝統や文化、泰澄大師や粟津温泉の歴史やなどについてのお話を伺った。この早朝講話の
きっかけは、3年前の東日本大震災。東北で1万5千人以上の方が亡くなり、現在も自宅に戻れない人が多くいる。新聞やテレビ
で被害状況を知るうちに、自分たちが生かされている存在であり、旅館業ができることに感謝することが大事だと気付かされた。
このため、現地で復興支援のお手伝いをと考えたが、距離も遠いことから、まずは、旅館として何ができるのかを考えた。創業約
1300年の歴史を持つ法師だからこそできることは、粟津温泉を訪れた人たちに少しでも多くの文化を伝えることだと気付かされた。
長男の発案で震災から9日後の3月20日から始めた。
 4年後には創業1300年を迎え、粟津温泉1300年祭事業がある。私は、年を取ってしまったが、まだ頑張らなければならない。
しかし、人々の心と体を癒やすという旅館の目的は、1300年前も今も変わりらない。どんな工夫をしていければ今後とも今後も
考えていく必要があることなど貴重な話していただいた。

お話をしてくれたのは、1938年生まれの46代目当主、法師善五郎(ほうしぜんごろう)氏。
  



リストランテ ラ・リサータ

2014年02月08日 | 旅・風景・グルメ
風邪は少しずつ良くなっているようだが、まだ鳥を見に行く気にはならないというか、気乗りがしない。しかし、極寒期の野鳥観察を終えなければ
レポートが完成しないという事情があり、2月の中旬までには1度は行かなければならない。
しかし、今年は特に野鳥の出現が良くないのだ。
今日は雪が降った。体調の方、月曜日くらいからは出掛けられるような状態だが、天気はあまり良くないようだ。
ずっと、昨年撮った写真を整理している。京都に紅葉見物に行った時の昼食会場は、京都駅にある「ホテルグランヴィア京都」の最上階15階にある
「リストランテ ラ・リサータ」。ランチのメニューはごく普通だったが、時間がたっぷりあったので、眼下に見える新幹線の発着を楽しんだ。


野菜が美味そうに見える。


肉は美味しかった。


今日もコンビニのモンブランを食べたが、味はまだこっちの方が数段上。


新幹線には長いこと乗っていないので、この車両は新しくはなさそうだが、いつ頃完成したものかも全く分からない。

蓼科温泉ホテル新湯

2014年02月05日 | 旅・風景・グルメ
風邪がなかなか治らない。
本来だと、天気が良い日は、家にいるのが嫌になるけど、今は、体が外出しようという気にならない。
このところ、毎日家でごろごろしている。
ネットで原発関連の本を2冊買った。1冊は、現役キャリア官僚のリアル告発ノベルと銘打った「原発ホワイトアウト」
もう1冊は、有名な元キャリア官僚、古賀茂明氏の「原発の倫理学」だ。前者は、小説というスタイルをとっているので
寝転がっていても簡単に読めたが、後者は中身を自分で考え、整理・理解するのに時間を要し、なかなか進まない。
昼間、ずっと寝てばかりだと、夜眠れなくなるので、まだ、整理しきれていない写真を整理している。


昨年の11月20日に宿泊した長野県茅野市にある蓼科温泉「ホテル新湯」 山と渓谷に囲まれたリゾートホテルだ。

この時は、ミステリーツアーと題されたツアーで何処へ行くか何処に泊まるかも全く客には知らされていない。
今まで参加したミステリーツアーは、募集チラシに多少ヒントが書かれていたのだが、今回のヒントは、畳敷きの温泉に泊まる
ということだけ。
1泊のツアー行くことが可能な畳敷きの温泉は何ヶ所があり、私が推理した温泉とは違ったが、この温泉も結構良かった。
部屋食か食堂でのワイン飲み放題が選択できたので、ワイン飲み放題を選んだ。比較をしてないので分からないが正解だったと思う。


部屋に着いて、まず目についたのがこの暖炉。実際に薪が燃えているように見える。ガス仕様になっているだろうか。


こたつがあったが使わなかった。


シャワーを使ってみたが湯の温度調整が分からず冷たいことになり………………


窓から見える夜景


これが部屋の全景(ホテルのチラシから)





琵琶湖クルーズ

2013年12月26日 | 旅・風景・グルメ

琵琶湖周遊で乗船したこのミシガン号は、1982年進水の総トン数1,038トン、全長59m、幅11.7m、定員787名の外輪船。
ミシガンという船名の由来は、滋賀県が姉妹携帯しているアメリカのミシガン州からきている。船体は、かつてミシシッピ川を往来した船をモチーフと
しており、「外輪船」と呼ばれる推進機構にしたのは、琵琶湖南岸は浅瀬が多く、水位が低下した場合でも運航が可能であるため。ウィキペディアに
よると建造費用97億円のうち70億円は琵琶湖総合開発に伴う代替船建造の補助金だそうだ。
私の乗ったコースは、琵琶湖の南湖の大津港を出港し、また大津港に戻るという80分の「ミシガン・モーニング」と言うコース。11月の始めだったが、
寒くてしかも小雨の降る中でのクルージングだった。しかし、結構大勢の客で賑わっていた。


こちらは、ビアンカ号
ビアンカとは、イタリア語で白を意味する女性単数形で女性の名前にも多い。ちなみに、男性単数形はビアンコ、男女両性複数形はビアンキ。現存する
世界最古のイタリアの自転車メーカーの名前にも使われている。
定員は、604名とミシガン号より少ないが、大きさは、ミシガン号より少し大きいアルミ製の船体で琵琶湖最大の船舶。


目の前の地上38階の建物は、大津プリンスホテル。上下船する予定の客がいる場合にここ大津プリンスホテル港に寄港する。
大津港から大津プリンスホテル港への所要時間は、25分。


右端が出発した港で左端が大津プリンスホテル
この日は朝から雨だったので、雨降り用に買ったオリンパスの防水デジタルカメラTough TG-1を使用。パノラマ写真を撮ってみた。