散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

政策形成の方法論、福島復興政策の再検討~澤昭裕氏と齋藤誠教授の一致点

2016年01月19日 | 現代社会
一橋大におけるご自身のHPに掲載された、齋藤教授の「澤昭裕氏の論考」に対する読後感は、澤氏の主張に100%賛成はしないと云いながら、その姿勢に共感して次の様に述べる。

「異なる議論がぶつかり合って,前向きな妥協を積み重ねながら,誰もが根本的なところでは賛成しないが,次善の政策として多くの人々が納得しコンセンサスを形成できるものを見つけ出すことについて,私は,私たちの社会の可能性に,いぜんとして希望を持ちたい。というか,希望を持っている。」
「澤氏の論考にある勇気ある提言は,そうした私の希望が幻でないことを雄弁に語っているのでないだろうか。」

教授は澤氏が亡くなるとは思っていなかったはずだが、不謹慎であることを省みず思い浮かんできたことを言葉にすれば、全く偶然のことで、今となって上記の言葉は澤氏に対する見事な弔辞になっていると感嘆せざるを得ない。

それは教授が澤氏の次の提案に両手を挙げて賛成する処から出てくることだ。
「16年度は根本的な課題について,「全てのタブーなく」議論する時期だ。政治や行政,そして社会がタブーに逃げ込めば,福島で自立しようと考えている人たちの行き場や頼り所がなくなり,復興を遅らせてしまう。」

続けて教授は言う。
「これほど重要な社会課題に対して,すべての人が完全に賛成できるような政策提言など存在しない方が当然だと思う。澤氏と私の間に主張の違いがある方が,政策議論として健全な姿であろう。」

教授の目指す政策論争は何も福島復興政策だけの話ではないことは抽象論として、容易に理解できる。今日、重要な政策であるほど、様々な利害関係者が存在し、そのもつれ合いで現状維持か、あるいは、パイの分け合いによる痛み分けに終わることが多々ある。

そして、その「現状維持によるツケ」あるいは「パイの負担」が将来世代に押し付けられるのが現在の政治社会での最大の問題なのだ。そうは言っても、具体的に何をどうするとなると、様々なしがらみの中で、直ぐに案も出せず、日常性への埋没の中で時間だけが過ぎてゆく。

澤氏が「タブーに挑む」という正面からのアプローチを採ったことは、その意味で具体論を展開する前提条件を明確に指し示したことになる。このことが、教授の琴線に触れたと思われる。

「タブーに挑む」という意味で、澤氏がリスクコミュニケーションのあり方として、「福島=絶対危険」という非科学的な判断を流布させ、不安を募らせることへの批判に、教授は同意すると共に、逆に「福島=安全」を強調することにも違和感を持つことを表明する。

その「福島=安全」を主張する人たちの一部が、時として攻撃的なとさえ見えるような姿勢を示す、との批判的な指摘から読み取れる。この態度は、「福島=絶対危険」の主張をする人たちの政治的イデオロギーに巻き込まれていることを示唆している。

これは、かつて永井陽之助が米国の「反共イデオローグ」を批判した際に、その考え方をアメリカン・イデオロギーと命名したことに良く似ている(『何故アメリカに社会主義はあるか』1966年)。

閑話休題。
教授の態度が優れているのは、そのタブーを避けることなく、正面から取組むことで、澤氏と対峙できる政策論を提起していることだ。そこから更に両者によって展望を切り拓く機会が無くなり、政策形成モデルを創り出す機会も失ったことは痛恨の極みなのだ。その意味で、澤氏の突然の死は、私たち社会にとっても大きな損失と認識すべきことだ。

      

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