散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

山下真・生駒市長『橋下徹論』とヴァレリー『党派』(1) ~「政治家のウソ」に関する一考察~

2012年05月30日 | 政治
山下真・生駒市長が橋下・大阪市長についてつぶやき、反響を呼んでいるようだ。そのなかでツイッター5/25にまとめて「橋下徹論」を展開した。

まとめて口角泡を飛ばすように“つぶやく”のは橋下氏のオハコであり、アワにあえなく吹き飛ばされた被害者もひとり、ふたりではなかったようだ。しかし、山下氏は連続20回の“つぶやき”であったが、冷静な口調で罵倒もアワもなく、橋下氏と(ツイッターで反応する)支持者の特徴を掴み、批判した。

山下氏は先ず、橋下氏の著作「まっとう勝負!」(小学館)から取り上げる。
『なんで「国民のために、お国のために」 なんてケツの穴がかゆくなるようなことばかりいうんだ?政治家を志すっちゅうのは、権力欲、名誉欲の最高峰だよ。自分の権力欲を達成する手段として、嫌々国民のため、お国のために奉仕しなければいけないわけよ。(略)ウソをつけない奴は政治家と弁護士にはなれないよ!』

「政治家=ウソつき」と橋下氏が喝破したところをポイントとして山下氏は『大飯原発臨時稼働の発言、敬老パスの公約違反…彼がウソつきであるとの前提であれば理解は容易だ』と断言する。続いて、『世間の常識では、弁護士、政治家に一定の誠実さが求められる』と逆手をとり『それをわかっているから、「再稼働容認ではない」と言訳』と解説する。更に返す刀で、「支持者は、この発言をどう理解するのか」と問う。

筆者は橋下氏の支持者ではないが、そのリーダーシップを創造的と認識している。しかし、橋下氏のこの著作は読んでいなかったので、改めて「政治家=ウソつき」の言葉から思い浮かんだ言葉を山下氏へ返信として送った。

ポール・ヴァレリーの以下の言葉『彼らは、自分らが存立せんがためにかつて約束したことを、存続せんがために取り消す』山下氏は丁寧に「礼ツイッター」を送ってくれた。(「党派」『ヴァレリー全集12 現代世界の考察』(筑摩書房)P45)政治家の公約違反はウソであっても単なるウソではない。この間の事情を「存立と存続」との対句で簡潔に表現したアフォリズムだ(なお、訳は寺田透氏)。しかし、それでも何故、という疑問に対してヴァレリーは『権力を得た彼らには彼らだけの値打ちがあり…』と答える。

しかし、それだけだろうか?更にそれ以上の理由をヴァレリーは『常識のある人間ならば誰だって知っているとは言えない問題に関して自分の考えを述べずには、政治をすることができない。』(同上,P48)と表現する。但し、ヴァレリーは政治家を非常識と言っているわけではない。一方、山下氏は『(世間の)常識では政治家にも一定の誠実さが求められる』と言う。どちらも“真”を含むのであれば、政治の中での“常識”は微妙なバランスに置かれている。決して確固たる姿で鎮座しているのではない。

そこで、私たちが政治を必要(悪)と考えるのなら、1)常識を持つ、しかし、2)常識を破れる、更に、3)その二面性を統合できる、これらを備えた人間を政治家として育てることが大切な課題の一つ、それが、山下氏とヴァレリーから筆者が学んだことだ。ヴァレリーは続ける『政治の出す問題の大部分に関して一つの意見をあえて持つためには、無限に愚鈍であるか無限にでなければならない』のだと。橋下氏の言う“決断の政治”はある面での愚鈍・無知による不確実性を多く抱え込んで成り立つことを示唆するようだ。

橋下氏は1)と2)を併せ持つ、しかし、3)にはやや難点があるようだ。また、法律的アプローチを基盤とする氏の発想には、愚鈍・無知を許す余地は少ないように見える。従って、機械的な割り切りの手法になる。一方「政治状況」は本来複雑である。課題が重なり、プレーヤーの数が増えれば、選択肢も多くなる。新たな方法論を如何に見出すのか。創造的指導者の道は当然のように険しい。
(to be continued)
                         (12-016) 以上

        

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