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in Switzerland  酪農場の国にて

ただいま、復興支援中。
このブログは著者の恩師・知人・家族への近況報告です。

水、今すぐ。

2014年02月24日 | Haiti


ハイチの町中の看板や装飾は、職人さんが描いて、とても凝ってあることが多いのだけど、今日見かけた給水車の文字のやる気のなさには驚いた(写真)。実は、それを狙ってデザインしていたり?

ハイチの水道管が整備されているのは町のほんの一部で(統計とかあるのかな?)、給水車や井戸に頼っている人がほとんどやと思う。自分の家も給水車から2ヶ月に1回ほど水を買って、裏庭の貯水槽に入れてもらう。貯水槽とかタンクがない家庭は、女性や子供達が朝晩水汲みをしに地域の(ほとんど私営やと思われる)水汲み場までバケツを持ってやってくる。

お葬式

2014年02月22日 | Haiti
友人Cの父親が病気で亡くなったので、他の共通の友人Yとお葬式に参列する。キリスト教信者だったので、教会で式があげられた(写真)。まず告別式(というのだろうか、お棺に入った姿に最後に挨拶する)が朝6時半から始まった。驚くほど開始時間が早いのは、有名な教会なので昼のよい時間帯は結婚式用にあてられているとのこと。

その後、教会(本堂)に移動して、神父さんが式を進めていく。クレオール語なので、ほとんどのことはわからないが、間々に賛美歌が入り、粛々と進行されていく。都会だからか、本人が病気がちで周囲の人々の心の準備ができていたのか、前回自分が参列した式よりも、とても静かに事が進んでいった。

歌の中でペルーで有名な『コンドルは飛んでゆく/El Condor Pasa』の旋律に仏語(多分)の歌詞がつけられたものがあった。昨年亡くなった自分の祖母が大好きな曲で、よくリクエストをもらっていた自分の中学生時代がとても懐かしく泣けてきた。ハイチでこの曲が歌われているのは地理的に近いからだろうか。

朝9時前に終わったので、参列した友人Yと朝食を済まし、解散。夜、父親を亡くした友人Cを誘って再び集まり、飲み屋に行った。幼少期から再婚した母親と暮らしていたので、父親との思い出はそんなにないといいつつも、寂しそうだった。

情報収集とネットワーキング

2014年02月12日 | Haiti
午後から大ボスの代わりに他機関が催した現場見学会に参加。来賓を前に、説明する担当者を観察して、小さいことでも如何に大きく表現するか、継続支援を得るために現場の難しさをあえて伏せたりするところを学ぶ。援助関係者同士、もちろん協力するところはするのだけれど、成果をあげて新たな支援資金(ファンド)を得るためには、お互いがライバルとなる時もある。

その現場の横で、洗濯物をとてもきれいに干してあった(写真)。

夕方は、銀行と海外の建設系組織が組んだ仕組み:技術指導を受けながら、建てる住宅にかかる費用をローンで段階ごとに提供してもらうというもの、の説明会に参加。その背景には、海外支援団体・国々に提供される資金よって、建設できる復興住宅数が足りないという現状があるように思う。いずれにしても、こうしたローンを組めるだけの定期的収入のある人々がどれくらい居るのか(銀行側は7%と言っていた)。同業者がたくさん来ていて、会の合間に主催者から提供された飲み物を片手に、お互いの近況報告もする。

Media Coverage

2014年02月12日 | Haiti
先週の竣工式の様子は、その日のうちに少なくとも3局以上のテレビ、そしてラジオで放映された。今日の新聞(Le Nouvelliste)に小さいながらも掲載されて、事業のMedia Coverageもうまくいった。

スリランカ・カレー in ハイチ

2014年02月09日 | Haiti
後輩のスリランカ人が彼の奥さんと一緒に昼ごはんに招待してくれた。いろんなカレーに、ワトラッパン(ココナッツ味の焼プリンみたいなデザート)まで。以前、スリランカで働いていた同僚らも加わり、懐かしさで昔話に花が咲いた。

男の料理?

2014年02月08日 | Haiti
冷蔵庫の調子が悪い、というか電気の供給が不安定なので、冷蔵庫の中の物がヤバくなってきた。腐さる前に使ってしまおうと、炒められるものを全て使って焼き飯をつくる。が、分量を考えずつくったので、相当な量になった(写真:フライパンの大きさは直径40センチくらい)。これでしばらく焼き飯三昧。

竣工式(3) [一部修正]

2014年02月06日 | Haiti
昨年後半から建設している復興住宅が、ぼちぼち完成している。ここらでメディアに載せようと、うちの広報と組んで竣工式の様子をテレビ、ラジオや新聞で紹介してもらおうということにした(写真は演壇に並べられたマイク)。市長や総理府の震災復興部署関係者に来賓として出席して頂いた。

段取りに手間取り、30分遅れで開始する。スタッフの司会担当者や大ボスが挨拶し式典が進行する中で、秘書経由でまだ未到着の来賓者を確認する。『今、向かっているところです』との返事で、来賓の挨拶の順番を変更しようと指示したところに来賓が無事到着。あたふた裏方でやっているあいだに竣工した住宅の玄関でのテープカットも無事に終え、これでprotocole(外交儀礼と訳せる?)を果たせて一安心。

最後に、住宅の鍵を受け取った被災者が、感謝の言葉に詰まり泣き出す姿を見て、ついこちらももらい泣きしてしまった。ほんまにいろんな大変なことがあったけど、乗り越えてきて良かったなと思った瞬間だった。スタッフにも感謝。

準備が遅いと昨日から機嫌が悪かった大ボスも式典後はご満悦だった。

取材同行

2014年02月04日 | Haiti
近頃は珍しく、海外からの報道関係者が、それも遠くは韓国から来られた。震災復興の状況を取材されるとのことで、避難キャンプ(写真)から完成した住宅まで、うちの担当者が対応した。

住宅の撮影では、自分が直接対応したのだが、あくまでディレクターに説明するだけで、撮影自体は被災者と家、その近隣をうつすに留まり、30分ほどで終わった。これまでのくせで『え、自分はカメラに写らないんですか』と思わず聞きそうになった。

うちのスタッフら(主にハイチ人)が、日本と韓国(そして中国も)は母国語が共通だと思っているらしく、『なんで英語で意思疎通しているの?』と不思議がる。確かにカリブ海の人々からしたら、一緒に見えるのは理解できる。

日常の一コマ

2014年01月28日 | Haiti
撮影班に同行して、完成してしばらくたつ住宅を訪れた。住棟間の日陰で、住民達がくつろいでいる(写真)。ぼろきれで作ったボールを蹴ったり、子供の髪を櫛でといたり、世間話をしていたり。そんな安心してくつろげる環境を提供できたことを嬉しく、そして誇りに思う。

カーニバルはじまる

2014年01月19日 | Haiti
震災のメモリアル行事が終わると、毎週日曜にカーニバルが始まる。今年の千秋楽(と言っていい?)は3月2-4日にGonaiveで行われる。それまでの毎週日曜日は午後から、市内の広場に集まって夜中までドンチャン騒ぎ(写真)。生放送しているテレビを観たり、行った人々らの話をきいていると今年は例年に増して賑やかになっているように感じる。

その消費されるエネルギーには敬服さえ覚えるが、翌日の仕事はどうなるのか(実際は仕事がない人の方が多いのだけれど)、その労力が別の方向に行かないものか、と考えられずにはいられない。国民が普段抱えている鬱憤をカーニバルで発散させようとする国策のように思える。

震災19年

2014年01月17日 | Haiti
神戸の震災から19年。先日のハイチの周年と重なるのだけれど、遠い存在となっていく。読み返してみると、昨年も同じようなことを書いていた。

昨年7月に、ドキュメンタリーと思っていたが実はバラエティ番組だったテレビ局の取材を受けて、当時の震災の記憶を否応なく思い出さされた。しかし、その後、タクロバンの被害や中央アフリカの虐殺、南スーダンの混乱など、相次ぐ災害で人々が家を失う状況を追っていると、それらの残像がどうしても鮮明になってしまう。もし日本に居てたら、また違う所感をもったことだろう。

震災4周年

2014年01月12日 | Haiti
ハイチの地震から丸4年。今年は日曜日にあたり、多くの教会では特別な礼拝が行われたようだ。地震後の避難キャンプにまだ14万6千人(2013年12月データ)が暮らしている。

復興の遅れについては、メディアはもっと語ってもいいように思うのだが、どちらかというとメモリアル的な行事について触れていることが多いように思った。新聞を読むハイチ人の層と復興関係者の層が似ている(要は上流階級層)ので、そういうこと(敢えて触れない)になるのかなと勝手に考えてみる。

『郊外に建てられた復興住宅が空いている』といった記事は、建てる前から分かってたやろと思うのだけれど、期限以内で予算を消化しないといけない、かつ、他に土地がないのであれば、無理やり続行した背景を理解できないでもない。そして、事業責任者は既に異動になっていたりする。

プロモーション・ビデオ

2014年01月03日 | Haiti
年が明けて、例のテレビ番組をようやく見ることができた。15分ほどの1つのコーナーに出ると思っていたら、丸々自分のことだった。突っ込みどころ満載やけど、よくまとまっているなあというのが正直な感想。旧友に「プロモーション・ビデオやん!」と言われた意味がよくわかった。

現場での取材期間(2013年7月の8日間)は、ハイチのいろんな現場に行って、いろんな話をしたので、どうまとめるのか、他人事ながら気になっていた。客観的に見たら、自分ではないみたい。現場で約45時間回ったカメラの映像から、ストーリーに合うようにコマが厳選されて、必要のないものは大胆に省かれていく、プロの技を見た。その昔、論文を書いていた時の指導教官の教えに通じるものがあった。

実は、ハイチのシェルター(仮設住宅)事業は昨年7月で完了し、復興住宅や周辺インフラを主に建設しているのだが、そんなシーンは一切映らず、シェルターに限られた。うちのスタッフや同僚の少なくとも50名はカメラの前で喋ったのに、使われているのはリアクションのよかった数名のみ。さらに大ボスとの対談ということで30分ほど時間を割いてもらったのに、「面接みたいな雰囲気だった」と全く使われず。それでも映像を見た彼は、うち組織の良い宣伝になったと喜んでた(懐が深い!)。ちなみに、入口で取材班を追い返そうとした警備員は、来客者への対応がなってないと大ボスから怒られた。あれは演出ですからとかばったのだけれど自分の力及ばず・・・。

今回の取材を引き受ける上で気をつけたのは、「誰も傷つかないようにすること」。取材班が物理的に傷つかない(=安全第一)のはもちろんのこと、自分の言動で観ている人が不快な思いをしないように。ディレクターからは執拗に「家の中に誰か隠れているんじゃないですか」とか「ついてこいと言わないんですか」とか聞かれたけれど、例えば「あの時ついてこいと言えなかった」なんてカメラの前で言えるはずもなく。鉢巻きはしたけれど。

100人中99人の確率でコメントくれた素麺のシーンは金曜日の夜中12時頃の撮影。1週間の通常業務+取材と疲れに疲れて、早く帰って欲しいという一念でOK出るまで頑張った。立ち食いしたのはダイニングに移動するとまた照明設定から何やらで時間がかかるので、と皆さんに説明しているが誰にも信じてもらえず。食事環境がよくないと本気で心配してもらって逆に恐縮する。そう考えると、テレビの影響力はとても大きい。新年の挨拶に伺った時に昔の指導教官からは、本当にあんな生活をしていたら、そんなに肥えるはずがないと的確なコメントを頂いた。番組中にMRI(Magnetic Resonance Imaging:核磁気共鳴画像法)で撮った腫瘍の画像が出てくるんやけれど、「やらせではないかと思って拡大してみたら、君の名前が書いてあったよー」と別の恩師からもお言葉を。いろんな視点がある。

自分の思い出したくない過去を振り返るというのは本当に辛かった。実はカットされたけれど『スタッフが亡くなった場所を再訪する』というシーンの撮影があって、これが最も精神的にこたえた。詳しくはこちらを読んでもらったらよいのだけれど、ハイチで仕事をしてきて一番辛かった出来事。取材班は「それでもハイチに残り続ける自分」を強調したかったらしいのだけれど、訪問場所での私のリアクションがうすく(本当にどう振舞ってよいかわからなくなった)、放送された番組には入っていない。

取材班が帰国された後も、彼らとメールや電話でやり取りをして、できるだけ正確な情報を伝えることに努めた。それでも昨年10月に祖母が亡くなってからは、そんなことをしている気持ちの余裕がなくなった。残念なのは、ハイチの危険性が必要以上に大げさに描かれていたこと。素敵なところもハイチにはあるんやけれど、それを含めるとストーリー性に欠けるのだろう。

はじめに

2013年12月31日 | Weblog
このブログは筆者の主観的なコメントですので、所属機関の意向を示すものではありません。

選考通知

2013年12月27日 | Haiti
最終選考まで残り、暮れも迫った中でプレゼンした事業プロポーザルの結果通知が着た。

『落選』だった。

できることは全てやった。自分ら以外に結果を出せる他組織はいないと自負できるのだけれど、何か別の力が働いたのだろう。

新しいファンドが来ないと、来年半ばからスタッフを減らさなければならない。気が重い。