「歴史街道を歩く会」と言う会があります。その会の2月例会に参加させて貰いました。この会はこれまでも回を重ね、各地の古い歴史街道を踏破しています。
そのような会の2月例会に参加させて貰いました。前回も参宮街道を歩いたのであり、旧桜の渡しまでを踏破しました。今回はその旧桜の渡しの上流に在る旧柳の渡しがスタート地点でした。旧柳の渡しをスタートする前に、すぐ横の尾崎咢堂記念館を見学しました。
尾崎咢堂記念館 ― 旧柳の渡し ― 渡会橋 ― 筋向橋 ― 梅香寺
小西萬金丹 ― 御師龍太夫邸跡 ― 月夜見宮 ― 外宮 ・・・・ 倭姫の宮
(公社)伊勢市観光協会のパンフより出展。
今回、歩いたコースです。
距離的には3キロほどでした。
最初に寄ったのが尾崎咢堂記念館。
バスがすぐ横まで来てくれました。
これから尾崎咢堂記念館に入ります。
ヒゲの男性。
館長なのでしょう。
館内で尾崎咢堂の事を色々と説明してくれました。
尾崎咢堂の年譜その1.
尾崎咢堂の年譜その2.
館内には咢堂五訓と、柱に表示してあります。
力闘によらず、理闘によって解決せよ。暴力では解決しないと言う事ですね。
明治の時代に世界連邦を設立すると言う思想が素晴らしいと思います。
軍部の台頭に強く反対したと有ります。
2月26日はつい、先日の事であります。2.26事件の時に、反乱軍の将校から重要人物として目標にされたのではないかと推察します。
館を出て歩き始めました。
ここは旧柳の渡しの跡です。
渡会橋を渡ります。
橋の上は、吹く風が冷たかったです。
ロードサインに外宮まで1.3kmとなっています。
左折すると参宮街道となります。
筋向橋に来ました。
この場所は街道が交差するところです。
川が暗渠となり、欄干だけが残っています。
土佐のはりまや橋のようです。
梅香寺に来ました。
社務所の前に2本の梅が有ります。
左側が白梅で右側は紅梅です。
白梅は少し咲き始めていましたが、紅梅は蕾の状態です。
寺の名が香梅寺です。香る梅の寺。梅はこの寺のシンボル的な存在です。
街道沿いに有る萬金丹です。
左は店に有る年代ものの看板です。右は萬金丹の由来が書かれていました。
月夜見宮へ来ました。
入口の前には大型バスが停車していました。
これから月夜見宮に入ります。
月夜見宮へ来ました。
折畳み椅子が100以上並んでいます。
境内の御神木のような大きな木。
圧倒されるような大きな木をアップで。
冬の時期でも葉が落ちていません。
何と言う種類の木か、分かりませんでした。
真新しい、白木の月夜見宮。
私たちが境内にいて、団体が訪れました。
先ほどのバスの団体でした。
私たちが月夜見宮に来た時、バスの車内はカラでしたので、何処か別の場所に寄ってからこの場所に来たのでしょう。ガイドが説明していました。
折畳み椅子が沢山並んでいますが、今夜遷宮が行われるのだそうです。
暗闇の中で厳かに執り行われるのでしょう。
「伊勢だより」。
帰りに買った赤福の中に入っていたものです。
月夜見宮が今日、遷御を迎えると書かれています。
月夜見宮から外宮に向かいます。
歩いている道は神路通で神様が通られる道です。
外宮の正面まで来ました。
玉石を踏みしめて御正殿に向かいます。
左側が御遷宮で移られて新しくなった御正殿。右は移られた跡で、更地になっています。
更地となった跡地。
移られた跡の土地で古殿地と言われるようです。
これから御正殿に向かいます。
まだ、新しい「せんぐう館」。
これから「せんぐう館」に入ります。
「せんぐう館」に入りますが、この先は撮影禁止でした。
せんぐう館のパンフから出展。
外宮正殿を実物代で再現しています。その大きさに驚き、立派さに凄いと思いました。
バスに戻り、倭姫宮に来ました。
倭姫宮に向かう前に、バス停に止っている路面電車型のバスを見かけました。
かつては、伊勢市内を路面電車が走っていて、その電車を再現したスタイルにしたと何かで読んだ気がします。
これから倭姫宮に向かいます。
倭姫宮に来ました。
この倭姫宮も御遷宮が終わったところで、左側は更地となっていました。
ネットで見ましたら、この更地。古殿地と言うようです。
「歴史街道を歩く会」に一緒させてもらいました。これまでに外宮に参拝した事が有り、風宮や土宮は知っていましたが、月夜見宮は知りませんでした。月夜見宮と外宮を結ぶ道が神路通だと知る事も出来ました。
歩き始める前に尾崎咢堂記念館を見学しましたが、尾崎咢堂と言う名を聞いてもピンと来ませんでした。館の中で説明を聞いて尾崎咢堂は尾崎行雄で、東京市長を務めていた時、アメリカ・ワシントンへ桜の苗木を贈った人だと聞き、そうだったのかと思えました。なお、その返礼でアメリカハナミズキが寄せられたのだそうです。
尾崎咢堂は初めは学堂と名乗り、愕堂と改め、そして後に咢堂となっています。
ここ、伊勢市川端町への縁は13歳から14歳にかけて過ごしたと資料に有りました。
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