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歴史街道を歩く会 12月例会 下街道シリーズPart① 中山道大井宿からJR武並駅まで   中山道そして下(シタ)街道へ

2015年12月19日 23時18分48秒 | 歴史街道を歩く会

「歴史街道を歩く会」の12月例会に参加しました。今回は、恵那市の大井宿を「中山道かたりべ会」の方の案内で巡りました。その後は中山道を歩き、槇が根追分から下(シタ)街道を辿りました。
中山道を上街道と呼び、槇ヶ根追分から武並、釜戸、池田を通り抜け、名古屋とを結んでいた街道で、下街道と呼んでいました。今回、下街道で歩いたのは追分から武並までの短い区間でした。この自治体。中山道には力を入れているが、下街道には、力を入れていない。そんな感じがしました。


阿木川に掛かる大井橋のたもとに大井宿の案内看板の地図です。
大井宿には6箇所の枡形が有るのが特徴です。枡形が6箇所有ったのですが、通行が便利になるよう直線道路が付けられました。




中山道ぎふ17宿歩き旅から引用しました。
中山道かたりべの会の方の案内で大井宿を歩きました。その後、中山道を西に歩き、十三峠を越えました。槇ヶ根一里塚でランチタイム。その後は更に西へ進み槇ヶ根茶屋跡を過ぎて、槇ヶ根追分から下街道を辿ってJR武並駅に着きました。


JR恵那駅を目指して

JR那加駅です。7時55分発の美濃太田行きが入ってきました。
右は車内です。




車窓から。
右側に木曽川。日本ラインが見えます。




美濃太田駅からは太多線に乗車です。この列車。ワンマンカーです。
多治見駅が近付くにつれて、姫駅や小泉駅では多く、乗客が乗ってきました。




列車が多治見駅のホームに入って来ました。
中津川行きの快速です。
快速と言っても、多治見からは各駅停車となりました。




JR恵那駅に着きました。


JR恵那駅

駅に着くと、既に「中山道かたりべの会」の西尾さんが待っていました。



JR恵那駅前です。
駅前にメインの道路が南へ延びています。
その道路から駅に向かって振り返りました。




路面に埋め込まれた案内表示。
広重が描いた中山道の大井宿の浮世絵です。
本陣まで700メートルだという事が判ります。




阿木川のほとりに大井宿の地図が有ります。
西尾さんの説明が有りました。
川に掛かる橋は大井橋ですが、川の氾濫に寄り、度々流されたと話しました。
今のような1本の橋でなく、中洲に橋脚を設け、大橋と小橋の構造だったことを説明しています。



阿木川に掛かる大井橋を渡ります。
この橋には京から日本橋までの中山道69次の浮世絵の陶板プレートが貼り付けて有ります。




橋に設置してあった、説明板と大井宿の浮世絵です。
説明板に度々、橋が流されたと有ります。永久橋にしても流されています。
中山道の各、宿駅の浮世絵が掛かっています。特殊な技術が施して有るのでしょう。陽が当たっても色褪せない技術があります。橋のたもとには「手づくり郷土賞」と、建設大臣から表彰を受けています。




白木改番所がこの地の奥に有りました。
手作りのカードを掲げて説明しています。




白木番所跡の説明板です。
白木改番所の跡は、妻籠宿から馬籠宿までを歩いた時に目にしました。その時、尾張藩が木曽谷を領地として持っており、そこから産出するヒノキを統制していたのだと知りました。尾張藩の重大な財源です。ヒノキを盗み出したりすると、ヒノキ1本。首1本とか。死罪となった訳です。
当時、ヒノキを木曽川に流していた訳ですが、あの時に聞いた事が此処と結びつく事が面白いです。




市神神社へ来ました。
この神社では、1月7日に七日市が立ちます。




枡形になっていて、市神神社前で直角に折れます。
南へ向かって歩きます。

この時間。10時38分でした。
初冬の弱い日差しが射し、長い影を写します。


かつて庄屋だった古屋家の前を歩きます。
庄屋だった旧家ですが、此処の家屋にはウダツが有ります。




大井宿で何軒も旅篭がありましたが、今も営んでいるのは此処だけだと説明してくれました。角に有り、かつては角屋と言う屋号でしたが、いち川に変わっています。
避難路の出口となっていまして、ドアを開けた先には梯子が設けて有ります。上は引っ掛けて有るだけで、下は固定して有ります。非常の時は掛かっているのを外し、避難するのでしょう。




梅鉢の暖簾が下がっています。
お昼のメニュー。ミニ懐石が3000円。
朴葉みそ御膳が1500円です。




中山道を歩き、本陣跡へ向かいます。




本陣跡へ来ました。
枡形になっており、横断歩道の道路は、江戸時代の中山道の時は無かった部分です。
それが、交通で便利なように取り付けられた道です。




説明板と本陣跡。
石柱が新しいものですが、車がぶつかって破損し、新しいものとなったのだそうです。




本陣跡から恵那駅方面に向かって戻ります。
左側は電柱が有りますが、右側は撤去されていました。
電柱が撤去され、宿場町らしさが出ています。景色的にカーブミラーが邪魔ですが、交通安全の観点からは仕方無いですね。





まちかど美術館・博物館に入ります。



明治天皇行在所跡。
石柱が建っています。
この建物、まちかど美術館と一体化した建物です。









館内に入り、西尾さんが説明を続けてくれます。





ここは明治天皇がお泊りになったところです。
畳み敷き雪隠が有ります。




最後に、西尾さんが私たちを見送ってくれました。
ここ、まちなか美術館 お休み処は12月15日~1月15日までは休館なのですが、私たちのために特別に、開いていただけました。
中山道大井宿の案内とまちなか美術館で解説をして貰いました。かたりべの会はボランティアガイドで原則的には無料で案内しています。私たちのメンバーの中には、西尾さんと同じようにボランティアガイドを務める人が居ます。その人は中山道鵜沼宿で案内を務めています。鵜沼宿での対応と同様、大井宿も無料で案内して貰えましたが、お礼の意味で会長が手土産を持参して来ていました。
西尾さんのガイドは、その場所場所でカードを駆使したりして説明して貰えました。はっきりした声で説明していまして良く聞こえました。



左は中山道の路面です。アスファルトに砕石を混ぜた表面です。他の道とは異なる特徴があり、歩いていて、この道が中山道だと判りました。
右は中野村庄屋の跡です。旧家を眺めています。




中野観音堂の前まで来ました。




左。石碑に西行塚西へ一丁と刻まれています。
坂の先に見えるのが、中央線の踏切です。

右は踏み切りの上からで、恵那駅方面の眺めです。
遠くに冠雪した中央アルプスの山々が見えます。




踏切りを渡りました。
この先に西行塚が有ります。
西行硯水へは先ほど寄ってきました。




これから十三峠に差し掛かります。
登り坂の始まりです。
石畳で整備して有ります。




西行塚は、案内板には伝西行塚と書かれています。
この塚の前面には展望台が設けて有ります。
ここから恵那の市街が見下ろせます。




展望台からの眺望。
中央アルプスが見えます。



西行塚の近くに有った芭蕉の句碑。
石碑の字は読み難いですが、文面は「西行の  わらじもかかれ  松の露」となっているようです。
西行は平安時代から鎌倉時代にかけての人。芭蕉は江戸時代の人。松の露とはオシッコの事だと思います。わらじもかかれ、ですので連れションと言う事も考えられますが、違う時代の人どうし。
どんな意味なのだろう。




中山道の石畳を歩きます。
このあたりは古道の雰囲気が有ります。



十三峠の坂を登ってきました。
この先に一里塚が有ります。




槇ヶ根一里塚へ来ました。
この一里塚は南側のモノです。



こちらは北側の一里塚です。
立派な石碑と説明板が設置してあります。
街道の一里塚。多くの一里塚は道を挟んで2基の小山が盛られていましたが、多くは取り壊されています。
ここ、槇が根の一里塚のように南側と北側。
双方の一里塚が残っているところは珍しいです。




一里塚の周りにはトイレや休憩所が整備されていまして、公園のようになっています。
展望が利き、恵那山が見えました。



ランチタイムを終え、再び歩き始めます。




お喋りをしながら、中山道を歩きます。
何を話しているのでしょう。



槇が根立場の茶屋跡。
中山道を往来する人が多かった時は九戸の茶屋があったと書かれています。
今は道の横に広場が有るという感じで、この説明板が無かったら、この辺りに茶屋が有ったとは想像できません。



槇が根立場の説明板です。



中山道と下街道の追分です。
案内表示から左に降りていく道が下街道です。
ここから、中山道と別れ、下街道を歩きます。




下街道の説明板です。



下街道を歩きます。
まだ、新しい下街道の矢印の表示。
人が通らないためか、道幅が細くなっています。




枯れ草を踏みしめて歩きます。




下街道を歩きます。
初冬の弱い日差しが射しています。




下街道が国道19号線を横断します。
左のボックスカルバートは中央高速のモノです。
国道19号線と下街道が交差している訳です。
指示標識などが無く、この場所で下街道が横切っている事が判りません。




明治天皇が此処で小休止しました。その時が明治13年6月29日です。
先ほどの大井宿で泊まったのが6月28日でした。
明治天皇の足跡を辿った事が面白いです。




中央線の上り線を電気機関車の重蓮が走っていきました。
タンク車を牽引しています。
踏み切りで近寄って見た時、ガソリン車と見えました。
推測ですが、空のタンク車なのでしょう。
この辺りの中央線。下り線と上り線が離れています。歩いて来たのは線路の間の道です。かつては単線だったものが、新しく槇が根トンネルを設けた時に旧線のすぐ横に設けなかって離れてしまいました。
地形的な理由があったのかも知れません。




旧街道の雰囲気の有る道。
下街道を歩きます。
この時間は13時45分です。
初冬の日差し。影が長くなっています。




武並駅が見える場所まで歩いてきました。




中央線のガードを潜ったところ出す。
潜って、右に進めば武並駅。左に向かうと釜戸駅方面です。
この辺りも下街道の表示が全く、有りません。




左、武並駅が近付いてきました。
右は武並駅の駅舎です。




駅の案内板に表示していた、ウオーキングの案内図。
ここ、武並駅を出て中山道を歩き、恵那駅へ向かうコースを紹介しています。



名古屋行きの列車が入線してきました。
14時37分発の快速名古屋行きです。
快速と言っても、多治見までは各駅に停車します。


感想
今回、12月の例会。前半は大井宿を歩き、後半が中山道から下街道を歩くと言うものでした。中山道かたりべの会の方に大井宿を案内して貰って歩きました。明治天皇が大井宿泊まった所が、明治天皇行在所となっていて、明治13年6月28日となっていました。木曽路を2012年03月31日に歩きました。その時に落合宿で下の右側の石碑を目にしました。落合宿の本陣跡です。また、同年4月25日に木曽路を歩いた時が左側の石碑です。これらの石碑は、今回の大井宿の行在所に関連したものです。大井宿が6月28日ですので、それよりも少し前。6月20日前後に通ったのでしょう。かつて、歩いた道がこのように結びつく事が面白いです。



また、白木改番所が木曽川沿いに点在しました。最初に説明板を観たのは2012年04月25日に馬籠宿から妻籠宿にかけて歩きました。

この白木改番所跡の説明板は一石栃立場の直ぐ近くに設置して有りました。



こちらの白木改番所の説明板は中津川宿から馬籠宿へ、2013年03月17に歩いた時に目にしたものです。同じ白木改番所跡の説明板でも行政によって力の入れ方が異なります。明治天皇のお休み所のところでも、書きましたが、かつて行った所と、今、見学した場所が関連する事が歴史を知る面白さの1つです。
一石栃の白木改番所跡、そして中津川宿のはずれ、大井宿。尾州白木改番所跡は3箇所以外にも存在するのかも知れません。これら以外を探してみるのも、面白いかも知れません。

今回は、JR武並駅で終りとなりました。下街道は、この先瑞浪、多治見へと続き名古屋に向かって行きます。途中には内津峠が有ったりします。現在の国道19号線と並行しています。機会が有ったら踏破してみたいと思いました。

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