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道元禅師の和歌その2ー坐禅の和歌

2006-04-01 13:33:32 | Weblog
4月1日(土)晴れ【道元禅師の和歌その2】

「この心あまつみそらに花供ふ 三世のほとけにたてまつらなむ」

道元禅師の和歌集の伝承本としては、原初本に近い系統の書写本、『建撕記』に所載された系統、面山開板の流布本の系統、単独伝写本の系統をあげることができる。現時点では16種類ほどが数えられる。その中で面山瑞方(1683~1769)が開板下した流布本では、この和歌に「坐禅」と題をつけている。

伝承本によっては、語句に多少の違いがあり、上の句も「空にも」と「みそらに」とあり、下の句を「たてまつらばや」としたものもある。

この心は天に捧げる花、三世の諸仏に奉る花であるという。「この心」とはどのような心をいうのであろうか。 実は「この心」というのは坐禅そのものをいう。そのように解釈できる根拠はどこにあるかというと、道元禅師の『永平広録』の中に、それを見出すことができる。
〈原文〉
上堂。云。記得。先師天童住天童時、上堂示衆曰、衲僧打坐正恁麼時、乃能供養尽十方世界諸仏諸祖。悉以香華・燈明・珍宝・妙衣・種種之具恭敬供養無間断也。(中略)師云、永平忝為天童法子、不同天童挙歩。雖然一等天童打坐来也。如何不通天童堂奥之消息。且
道、作麼生是恁麼道理。良久云、衲僧打坐時節 莫道磨塼打車、供養十方仏祖、妙衣・珍宝・香華。正当恁麼時、更有為雲為水示誨処麼。顧視大衆云、凡類何能聞見及、自家一喫趙州茶。
                         『永平広録』巻七 522上堂
〈訓読〉
上堂。云く。記得す。先師天童、天童に住せし時、上堂し衆に示して曰く、「衲僧打坐の正に恁麼の時、乃ち能く盡十方世界の諸仏諸祖を供養す。悉く香華・灯明・珍宝・妙衣・種々の具をもって恭敬供養すること間断なし。(略)」師云く、永平忝くも天童の法子となって、天童の挙歩に同じからず。然りと雖も一等に天童と打坐し来る。如何が天童堂奥の消息に通ぜざらん。且く道え、作麼生か是れ恁麼の道理。良久して云く、衲僧打坐の時節、磨塼打車は道うまでも莫く、十方の仏祖に妙衣・珍宝・香華を供養す。正当恁麼の時、更に雲の為、水の為示誨の処有りや。大衆を顧視して云く、凡類何ぞ能く聞見に及ばん、自家一たび趙州の茶を喫せん。

傍線部のみ少し注釈してみると、
如浄禅師は言われた。「衲僧がひたすらに坐禅するまさにその時、盡十方の諸仏諸祖を供養するのである。絶え間なく香華・灯明・珍宝・妙衣・種々の具をもって敬い供養しているのである」と。それをうけまして道元禅師も「私がひたすら坐禅する時は、磨塼打車はいうまでもなく、盡十方の仏祖に妙衣・珍宝・香華を供養することです。」と言われている。

道元禅師も言われるように、如浄禅師の法嗣ではあるが、まったく同じというわけではなく、この語についても微妙な違いがある。つまり、如浄禅師は坐禅は仏祖への供養と言われるが、道元禅師は更に進めて、坐禅は仏祖に供養する妙衣・珍宝・香華そのものであると言われているのである。

「この心」を「真の心」とか「清い心」などと受け取るのは間違いとさえ言えよう。心情的な解釈は道元禅師の和歌には通用しないのである。禅師は美しく優しい言葉を使われるが、実は揺るぎない力強い仏道の世界を詠いあげているのだ、と私は読み解く。禅師の和歌は和歌だけから解釈しようとすると、充分でないだろう。

『天聖広燈録』という書物の中には、須菩提という釈尊の弟子が巌の中で坐禅をしていたら、梵天(『碧巌録』のなかでは帝釈天)が花の雨を降らせたという話がある。それに対して道元禅師は、この坐禅の姿そのものが三世の仏に奉る花だという。うっかり間違えると、坐禅をして神通力を得られるのではないか、というような考えをしている人がいるかもしれない。梵天が花の雨を降らせるほどのものだ、それはすごいと感心するかもしれない。

道元禅師が言われるのはそうではなく、私自身の坐禅が三世の諸仏に捧げる花だというのである。龍樹の名は「つらつら日暮らし」和尚のブログに最近紹介された「道元禅師最後の説法」の531上堂にも出てくるように、道元禅師は龍樹(2、3世紀頃の人)を深く学んでいるはずである。龍樹の『中論』に説かれる空観を学んでいる道元禅師にとっては、坐禅こそは空そのものの体現に他ならない。瞑想とは全く違うのである。

しかし、坐禅は三世の仏に供える花である、このように美しい言葉で詠まれると、坐禅を行じる者としてはいかにも嬉しいかぎりではなかろうか。足の痛さも忘れるようにさえ思
う。そして坐禅こそは空そのものの体現に他ならないとしたら、習禅ということはなく、どの坐も、誰の坐も三世の仏に供える坐である。 

全ての人、一人一人の坐禅が、三世の仏に捧げる花。この世にこうしていただいている命の不思議。その命に坐りきろう。命は儚いものではあるが、「儚いままに永遠だ」と私の本師、余語翠巌禅師はよく言われた。永遠の命に、而今、此処に坐りきる。
お互いにただ自らのまことを尽くして生きていこう。坐禅は三世の仏に奉る花なのである。

*522上堂の語をこの和歌の解釈の裏付けとして、秋田県龍泉寺の佐藤俊晃先生が指摘なさった。

*趙州(778~897)の「喫茶去」の意味は「お茶でも飲んで出直して来い」という厳しい接化(教え)であり、「お茶でも飲みなさい」というようなやさしいものではない。駒澤大学の石井修道教授の著書にある。

*「空」については、私の頭ではとても理解し切れません。フクロウ博士のブログ「梵音」でそのうちお書きいただけると思います。また私なりに学んでみます。理解できた範囲を努力していつか書かせていただきます。フクロウ博士の教えを受けながら。

*フクロウ博士のコメントを頂きましたのでここに掲載させて頂きます。
 空 (声聞(Dr. Owl)) 2006-04-02 20:29:27

AはAではなく、BはBではなく、AとBの区別も成り立たないという、自性空の視座から見ると、「坐禅を行じる人」(主体)も「行じられる坐禅」(対象)も「行じる」ということ(行為)も存在しないということになります。ですから、「私(主体)が坐禅(対象)を行じる(行為)」という認識における、自性を立てる坐禅は、空の体現としての坐禅にはならないと言えるでしょう。空の体現としての坐禅とは、「私」が脱落しており、「坐禅」が脱落しており、「行じる」ことが脱落している、無自性の坐禅のことを言うのではないでしょうか?。

『金剛般若経』に〈諸菩薩摩訶薩応如是生清浄心。不応住色生心。不応住声香味触法生心。応無所住而生其心〉とあります。有名なくだりですね。色声香味触法の六境は私たちが把捉し得るすべての対象のことを言います。感覚器官(眼耳鼻舌身)の対象(色声香味触)だけではなく、脳みそ(意)が把捉する対象(法)も含まれています。心があらゆる対象にとどまることなく、心が生ずるということを説くのが前引の句です。「私」「坐禅」「行ずる」といった観念にとどまらずに、坐禅をする(心が生じる)といのが、空の体現としての坐禅なのではないかと思います。

先ほどの補記 (声聞(Dr. Owl)) 2006-04-03 00:16:52

先ほどの補記です。

『従容録』「第七十四則法眼質名」に

金剛經云。應無所住。而生其心。無所住者不住色不住聲。不住迷不住悟。不住體不住用。而生其心者。則是一切處。而顯一心。若住善生心則善現。若住惡生心則惡現。本心則隱沒。若無所住。十方世界唯是一心也。

とあります。「無所住」というのは、色・声・香・味・触・法にとどまらないことであり、迷い・悟りにとどまらないことであり、体や用にとどまらないことであると述べられています。「而生其心者」とは、対象に限定を設けないところ(一切処)に一心が顕現するということであると説明されています。そして、対象に限定を設けて心が生じれば、すなわち、善にとどまって心が生じれば善が現れ、悪にとどまって心が生じれば悪が生じ、本来の心(一心)は隠没してしまうのであり、対象に限定を設けずに心が生じれば、十方世界はただ「一心」のみとなるのであると説かれています。空の体現としての坐禅とは、この「一心」の顕現としての坐禅であると考えます。

*磨甎打車については、また別の機会に書かせてください。


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5 コメント

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TBありがとうございました。 (tenjin95@栗原市)
2006-04-02 00:01:24
> 管理人様



『正法眼蔵』「仏性」巻では、龍樹円月相なんていう話がありましたですね。身現仏性という話でございますが、あれなどは我々宗門の坐禅の可能性を拡大するような一話のような気がします。
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tenjinおしょうさんへ (風月)
2006-04-02 15:44:30
コメント有り難うございます。「仏性」巻について、参究したいと存じます。またいろいろとお教え頂ければ幸甚です。



家のパソコンではいろいろな操作ができないようです。例えば傍線がでませんでした。近所の本やにもブログに関する本はありませんでした。明日探してみます。

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 (声聞(Dr. Owl))
2006-04-02 20:29:27
AはAではなく、BはBではなく、AとBの区別も成り立たないという、自性空の視座から見ると、「坐禅を行じる人」(主体)も「行じられる坐禅」(対象)も「行じる」ということ(行為)も存在しないということになります。ですから、「私(主体)が坐禅(対象)を行じる(行為)」という認識における、自性を立てる坐禅は、空の体現としての坐禅にはならないと言えるでしょう。空の体現としての坐禅とは、「私」が脱落しており、「坐禅」が脱落しており、「行じる」ことが脱落している、無自性の坐禅のことを言うのではないでしょうか?。



『金剛般若経』に〈諸菩薩摩訶薩応如是生清浄心。不応住色生心。不応住声香味触法生心。応無所住而生其心〉とあります。有名なくだりですね。色声香味触法の六境は私たちが把捉し得るすべての対象のことを言います。感覚器官(眼耳鼻舌身)の対象(色声香味触)だけではなく、脳みそ(意)が把捉する対象(法)も含まれています。心があらゆる対象にとどまることなく、心が生ずるということを説くのが前引の句です。「私」「坐禅」「行ずる」といった観念にとどまらずに、坐禅をする(心が生じる)といのが、空の体現としての坐禅なのではないかと思います。

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to Dr.Owl (風月)
2006-04-02 22:39:02
コメント有り難うございました。ブログの本文中に貼り付けさせて頂きました。

「応無所住而生其心」の理解をさらに深めたいと思います。
返信する
先ほどの補記 (声聞(Dr. Owl))
2006-04-03 00:16:52
先ほどの補記です。



『従容録』「第七十四則法眼質名」に



金剛經云。應無所住。而生其心。無所住者不住色不住聲。不住迷不住悟。不住體不住用。而生其心者。則是一切處。而顯一心。若住善生心則善現。若住惡生心則惡現。本心則隱沒。若無所住。十方世界唯是一心也。



とあります。「無所住」というのは、色・声・香・味・触・法にとどまらないことであり、迷い・悟りにとどまらないことであり、体や用にとどまらないことであると述べられています。「而生其心者」とは、対象に限定を設けないところ(一切処)に一心が顕現するということであると説明されています。そして、対象に限定を設けて心が生じれば、すなわち、善にとどまって心が生じれば善が現れ、悪にとどまって心が生じれば悪が生じ、本来の心(一心)は隠没してしまうのであり、対象に限定を設けずに心が生じれば、十方世界はただ「一心」のみとなるのであると説かれています。空の体現としての坐禅とは、この「一心」の顕現としての坐禅であると考えます。
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