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家族と共に仏教を学んだ龐蘊居士

2007-07-07 23:39:29 | Weblog
7月7日(土)曇り【家族と共に仏教を学ぶ龐蘊居士】

今日は七夕ですが、生憎の曇り空。しかし本来は陰暦の7月7日の節句なので、今年は8月19日が陰暦の7月7日。その日に期待しましょう。

今年の梅雨は九州に豪雨をもたらしてしまっているようで、被害に遭われている方々は本当に大変なこととお見舞い申し上げたいです。

さて今週はまた龐蘊居士ほううんこじ(?~808)の言葉に学びたいと思います。私はこのところ仕事の合間に時々龐蘊居士(以後龐居士)の語録を読んでいます。何故龐居士が気になるかというと、居士という呼称からも分かるように、この方は馬祖道一禅師からも石頭希遷禅師からも認められたにも拘わらず、在家のままで仏道修行された方だからです。

石頭に「子以緇耶素耶(子は緇を以てするや、素〈を以てする〉や)。」と尋ねられたとき、「願従慕(願わくば慕うところに従わん)。」と答えています。そして「遂不剃染(遂に剃染ていぜんせず)。」と書かれています。(『景徳伝燈録』巻八)

つまり緇というのは黒い衣のことですから、出家するのか、それとも素(白い衣)の在家でいくのか、と聞かれて「望むようにさせていただきます」と答え、頭も剃らず、衣も黒の僧形にはならなかった、ということです。

また、龐居士に次ぎのような偈があります。
〈原文〉
有男不婚、有女不嫁。大家団欒頭。共説無生話。
〈訓読〉
男有り婚せず、女有り嫁せず。大家みな団欒頭だんらん。共に無生むしょうの話を説く。
〈試訳〉
息子はいるが結婚はせず、娘もいるが嫁にはいかない。一家中まとまっている。(そして)共に無生の法を話しあうのである。
*団欒:円満な完成態。まんまるなまとまり。~頭:名詞につく接尾語。または副詞の接尾語として用いられることもある。(『禅語辞典』思文閣出版)
*無生の話:無は無為の意で、意識以前の絶対の事実。絶対の事実としての生。転じて世間生滅の相を離れた当体。無生法は生滅を遠離した真如の理。(『禪學大辞典』大修館書店)入矢義高氏は「仏の法のり」と訳している。

この偈からも分かるように、龐居士の一家は家族中仏教に帰依して、在家ながら仏道修行の日々を送ったようです。

龐居士は竹篭を作って、それを売って生活の糧にしたと書かれていますが、そのように家族を持ちながら仏道修行を続けた生き方は、身近に思えるのではないでしょうか。出家はしなくても佛弟子として生きる日々は、特に還暦を迎えた年齢の人々には興味ある生き方ではないでしょうか。

龐居士は在家の生活を続けたからこそ、かえって多くのことを悟ったように私は思います。日常の生活こそ法を教えてくれる師ではないでしょうか。勿論自己流では仏教ではありませんので、道を説いてくれる師につくことがなくては「無生の法」は分からないでしょう。日常生活を送りながら、馬祖に参じたり、石頭に参じたりして、龐居士は仏教の教えを学び続けたのです。

先人の語録を学ぶとき、自らに照らし見て、一層襟を正す思いのする日々です。

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2 コメント

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閑人 (日常の生活)
2007-07-08 10:43:00
「日常の生活こそ法を教えてくれる師」でっか。お経を勉強したり、御釈迦はんのゆうたことをただ実践しよるだけでは、悟れんちゅうことでんな。
昔の生活は、どこに住んどっても自然があた。人間も自然の一部でありまた全部でもあるゆうのを実感でけた。また夜空を仰げば満天の星。宇宙の偉大さ、人間の小ささ、はかなさを肌で感じ、せやからこそ人間、人生の尊さを思もうたんでしゃろ。確かに昔は生活の中に法はあったんやろ。
今の都会の生活はどないでっか。回りにあるんは人工物ばっかり。養老はんに言わせりゃあ「脳」がつくったもんばっかり。わてに言わせたら人間の欲望がひりだしたうんこや。おまんま食うためのいやいやの仕事とあとあるんはややこしい人間関係だけ。
こんな生活の中にも法が生きとるんやったら、昔の法から相当進化、変化しとるんやろな。
諸行無常なら法も無常か。いや、法のうわべは無常でも本質は不変、不滅かな。素人がごちゃごちゃゆうても意味おまへんな。すんまへん。
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閑人さんへ (風月)
2007-07-09 10:54:24
風景というような自然は東京の生活は恵まれていませんが、日常の生活は、この私が営む日々のことの意味ですね、

ですからどんな状況のなかでも、「有る」わけです。

ご飯を食べることにしても、その食べる姿勢であったり、趙州禅師という方は「ご飯食べたか」とお聞きになり、「食べました」と答えた修行者に「それじゃ鉢を洗っておけよ」と言われています。これが「私は叢林に修行に入って間もない新参者ですので、どうしたらよいか、どうぞお導き下さい」という質問に対しての答えなのです。

修行者は仏とか悟りとかについて教えて貰いたかったでしょうが、これこそが、初心者のみならず修行者の心得るべき道なのだ、という教えなのです。

たしかに美しい自然に恵まれたところで生活したほうが、しぜんから教えて貰うことも多いです師、こちらの心持ちも洗われるように思いますが、自らが洗っていくことなのでしょう。
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