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一木にこめられた祈り

2006-11-19 22:14:47 | Weblog
11月19日(日)曇り後雨【一木にこめられた祈り】

東京国立博物館の「仏像」特別展に、昨日出かけてきた。今回は一木造りのお仏像が日本各地の寺院や博物館からお集まりいただいているので、千載一遇の好機である。なかなか日本中の寺院にお参りすることはできないので、まとめてお参りのような気持ちで出かけた。

美術としてお仏像を見る目は私にはない。円空さんの仏さまも木喰さんの仏さまも人々の願いを受けとめ続けて、生き続けていられる。長い時を経て、人々の祈りが仏像には祈りこめられているといったらよいだろうか。仏師が精魂込めて彫り出した仏像に、さらに命を与えているのは人々の祈りであると感じた。

偶像崇拝を否定したり、仏教でもただの木仏金仏きぶつかなぶつと表現をし、仏像を否定した高僧もいる。それは、「仏というは誰というぞと審細に参究」すれば、この身をおいて他に求めるものでなく、修行者に対しての戒めからである。

しかしそれはそれとして、静かに微笑み、厳かに揺るぎなく、また慈悲に溢れた仏さまの像を心のよすがとして、祈り、願い、嘆き、悲しみ、ひたすらに一身をゆだねる人間の姿を否定しきることはできまい。

何体かのお仏像の前で、手をあわせずにはいられない気持ちになった。一通り回ってから、またもう一度拝ませて頂いたお仏像もあった。国立博物館を後にしたとき胸に溢れる思いがした。

上野の国立博物館で、12月3日までの開催ですから、是非お越しになることをお進めします。もういらっしゃった方もいるでしょうが、私はtenjin和尚さんの「つらつら日暮らし」というブログのお陰でこの機会を逸しないですみましたので、一応当ブログにもご紹介しておきます。信仰としてではなくとも、仏教美術としても、なかなかこのような一木造りの仏像を一堂に見ることができるのは稀なことでしょう。

しかし国立博物館に足を運ばれる美術好きな熱心な人々が、その熱心さと同じぐらいに仏教に興味を持たれたら、自らのなかに仏を彫り出せるのだがと、ふと思ったことでした。

私が胸を打たれたお仏像
*円空作。聖観音菩薩立像:江戸時代、17世紀。岐阜・阿弥陀寺
*聖觀音菩薩立像:平安時代、9世紀。滋賀・来迎寺
*地藏菩薩立像: 平安時代、9世紀。奈良・法隆寺
*藥師如来立像:平安時代、8~9世紀。奈良・元興寺

*魂抜きについて:お仏像を博物館に移すために、儀式として魂抜きということを各寺ではなさるのかもしれない。しかしこめられた人々の祈りを抜き去るようなことはできないことであると、この度、お仏像から教えを受けた。

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6 コメント

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「仏像」一木・・・ (うさじい)
2006-11-20 05:57:10
私は16日に行って参りました。
どちらかと言えば「大エルミタージュ美術館展」の序でしたが、国宝の十一面観音様を拝見できただけで満足でした。

以前の「興福寺展」の時もそうですが、本物の感動が伝わってこないのが残念です。魂抜きをされてから移動されるのでしょうから当然と言えば当然のことですが。

やはり本来の場所で拝観されるべきものなのでしょう。
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うさじいさんへ (風月)
2006-11-20 13:05:22
丁度うさじいさんにメールを送ろうかと思っていたところです。

さて実はこの魂抜きについてですが、このことをログに書こうと思いましたが、書きませんでしたが、私に一言があります。精入れも抜きもそれは儀式であって、人々によってこめられた祈りを抜きされるものではないということ。

儀式は勿論意味があり、真摯に行うことが僧侶の大事な役であります。しかしそれに真の命を吹き込むのは拝む人々の祈りでしょう。それを抜き去ることはできないわけです。

ただ博物館に運ぶ為に一応儀式として運ばせていただくことを報告するようなことであると、今回特に実感を致しました。

このような捉え方如何でしょう。実は博物館を回ってお仏像を眺めているうちに、お仏像から教えていただいたのです。
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仏像 (ぜん)
2006-11-20 21:51:48
感激が伝わってきます。
円空さん、木喰さんの仏さまを拝してみたいですね。

この時期、せっかく上京たのに、知りませんでした。
残念なことをしてしまいました。
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失礼いたします。 (tenjin95)
2006-11-21 07:32:51
> 管理人様

行ってこられたんですね。
良かったですね。

それから、拙僧のブログをご紹介いただき、ありがとうございます。

ご指摘のように、美術品というだけではなくて、宗教的対象だということを、みなさまにご理解いただければ良いですね。
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点眼・撥遣 (うさじい)
2006-11-21 07:33:01
>人々によってこめられた祈りを抜きされるものではないということ

人々の祈りではないと思います。作る側、点眼された導師の一山を鳴動させるような迫力のある入魂です。
仏師は一刀ごとに三拝されるとの事、篤い信仰心によって精魂込めて作られたものは、感じる側の問題かもしれませんが、目には見えないその心が伝わってきます。

移動の報告程度のものであれば、一般の方がされても良いのではないでしょうか?
相手が目に見えないものの問題だけに、難しい話ではありますが。
生意気なことを言ってすいません。
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Unknown (風月)
2006-11-21 10:43:00
ぜんさんへ〉

されは残念なことでした。私がぜんさん菩薩に会えるチャンスを逃した時も本当に残念に思いましたが。
またこのようなチャンスがありましたら、お知らせ致します。

tenjin和尚さんへ〉

お陰様でした。
本当に機会を逸しないで済みまして感謝しております。

うさじいさんへ〉

それぞれの考えですが、儀式は真摯であること。これは宮崎禅師様に若い頃お教え頂いたお言葉です。

遷座式にしましても、精抜きにしましても僧侶が真摯に勤めるところに意味があると思います。
勿論うさじいさんの仰るとおり、仏師の入魂無しには仏像は単なる飾り物であります。ご神木からお仏像を掘り出してくれる仏師無くては、お仏像の出現はありえませんし、力量ある僧侶に入魂されることも有り難いことと存じます。
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