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苦難の尼僧史、その2

2006-06-14 21:18:36 | Weblog
6月14日(水)曇り【苦難の尼僧史、その2】

 三、活躍した尼僧たち

全ての僧伝は男僧の編集によるので、男僧の目から見た尼僧史であるし、史伝に登場する尼僧は数少ないのであるが、その中でも幾人かの尼僧の活躍をうかがうことはできる。尼僧史としてまとまった一書としては、近年田島柏堂氏の『曹洞宗尼僧史』の労作がある。この書を繙いてみると、善信尼以来、活躍の足跡を残した尼僧たちの行跡が紹介されている。読み返してみると改めて先人の偉業に驚かされる。その一端をご紹介したい。

遠く奈良時代には、法均尼なる尼僧が凶作による捨て子を、百人近くも養子として養育している。さらに法均尼は恵美押勝の乱に連座して死刑に処せられるところの三百七十五名の減刑嘆願をなしてさえいる。

曹洞宗にあっては、先に紹介した了然尼は言うに及ばず、瑩山禅師の会下に明照尼という優れた尼僧がいたようである。明照尼は師の言を入れて大智祖継のもとに参じ、省悟したといわれている。そして瑩山禅師の法を嗣ぎ、圓通院の院主となっている。また峨山禅師には嗣法を許された尼僧として五人の名が残されている。  

また相模の大雄山最乗寺開祖了庵慧明禅師の実妹とされる華綾慧春尼も特記されよう。尼については『重続日域洞上諸祖伝』にその史伝が記載されている。尼師については美しい顔を鏝で焼いて出家を許されたとか、円覚寺の僧との際どい応酬なども残されているが、これに似た話しは他の尼僧の史伝にもあるので、信憑性が薄い。しかし最乗寺三世、大綱明宗禅師伝に表れる慧春尼については、史実としてかなり信憑性が高い。明宗禅師の法座に座していた慧春尼は密かに言った。「貴僧はなかなか智慧もすぐれ、教えに明るい。しかし自らの安心が出来ていない。」「方向違いの仏道修行をしている。貴僧のためにそれを惜しむ」と。明宗禅師は慧春尼の言に従い、了庵慧明禅師のもとで、さらに修行に励んだという。慧春尼様については項をあらためて記したい。

他にも京都換骨堂に黙旨尼あり、越後に貞心尼あり、京都に『洞上正宗訓』を開板した祖松尼あり、得法の師であり、かつ私財を投じて社会事業に尽くした尼僧たちをみることができる。

 四、劣位におかれた尼僧寺

さて、それではいつ頃から尼僧の劣位は始まったのであろうか。国分寺、国分尼寺の頃にあっては、それほどの劣位に置かれている状況はなかったのではなかろうか。 尼寺は『法華経』の読誦をまかされ、滅罪の役を仰せつかって、国家からの経済的保証を得られていたのである。

ところが鎌倉時代以後、僧尼の管理が武家の手に移るようになると、度牒の制も弛緩し、尼寺の国家機関としての地位が完全に失われることとなったのである。このことにより経済的基盤を奪われてしまったことは尼僧が低く見られるようになってしまった大きな因であろう。

また僧籍に関してもいい加減となり、出家得度式も受けないにもかかわらず、尼僧と称する者が出てくるようになってしまった、というような尼僧の質が落ちたということも、尼僧が低く見られるようになってしまった理由の一つといえよう。幾つかの要因はあろうが、一段と低く見られるようになり、宗制上も劣位に置かれるようになってしまったのではなかろうか。

当然そのような状況の中にも、発心堅固な、厳格に修行を続ける勝れた尼僧たちも多く輩出したのであろうことは想像に難くない。しかし尼僧にとって決定的なダメージは江戸時代に幕府が決めた法度で、尼寺は必ず男僧の寺を本寺としてその所属の末庵とされてしまったことにあろう。

この制度により、尼寺の置かれた立場は、実に低いものとされることとなった。尼僧が劣位に置かれるようになったのは、経済的基盤を失い、男僧寺の下に置かれたことが大きな要因であろうと私は考える。

上記の事以外にも、男尊女卑の傾向が社会にはある。現代においてはだいぶ是正されてはいるが、完全に払拭されているとは言い切れないのである。差別思想を社会から払拭するには人間一人一人の教養によるのではなかろうか。教養は教育とは異なり、教養は人間の尊厳を尊重する知性と、宇宙を感じる感性を持てれば、自ずと身につく心眼である。道元禅師のお考えについては先に「礼拝得髓」巻の引用を挙げておいたので参考にして頂きたい。
(続く)
*この一文は尼僧史を学んでみたいと思い、簡単にまとめた私論の一部です。あまり皆さんには興味がないことかもしれませんが、少しまとめさせて頂きました。
 

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