10月29日(月)晴れ【山口の旅3-周防の名刹 龍文寺】(龍文寺山門)
どのような縁によってか、器之為璠きしいはん(1404~1468)という禅僧の書かれた語録を研究することになった。私はもともとは中国の宋代の禅僧の研究をしていたのだが、いつの間にか器之さんになった。たまたま誰もこの語録を担当する人がいないので、私にまわってきたという経緯であるが、この禅師のお蔭で大寧寺さまにも声をかけて頂き、また龍文寺さまにまでお参りできることになった。
大寧寺は日本海側であるが、龍文寺は瀬戸内海側の周南市に位置している。しかし、かなり内陸に入るので、JRの徳山駅から車で20分ほどを要する。山口県は高い山はあまり無く、海岸線を離れるとすぐになだらかな山が眼前に見えてくる。龍文寺はそんな山の中にあった。
まず立派な山門が出迎えてくれた。最近建立されたようで木の香りさえしそうな感じである。この山門を建てられたのは、現住職の中村俊孝老師である。丁度開山忌(10月25日)前のお忙しい時に伺ってしまったのだが、ご親切にいろいろとご教授をいただいた。
この地で器之禅師は40歳前後より、示寂するまで(65歳)、ほとんどを過ごしている。大寧寺の五世にもなるが、大寧寺の方は弟子の大庵須益に任せて、ご自分は龍文寺の方に主に住していたのではないか、と想像していた。現地に来てみて、やはりそうだったのではなかろうかと思った。
龍文寺は開山は竹居正猷ちっきょしょうゆう禅師であるが、勧請開山かんじょうかいさんであり、実際は竹居の弟子の在山曇璿ざいさんどんせん(?~1445)が、永享元年(1429)に建立した。開基は大内家の家臣陶盛政である。このとき大内家の当主は27代の持世のときである。これ以後龍文寺は代々陶家の菩提所となり、当寺には陶家代々の墓所がある。
器之禅師が龍文寺の3世になったのは法兄ほうひんの在山が示寂した文安2年(1445)からであるが、示寂の年、応仁2年(1468)まで住職を勤めているので、歴代住職の中でも住山年数は長い方ではなかろうか。それだけ龍文寺に対しての器之禅師の思い入れは深いと察することができる。
住職をしてまもなくの2年後に、龍文寺は火災に遭っている。3年間は山口市の下小鯖にある寺に寓居し、復興のための努力をしていたことが語録の記録から読み取ることができる。復興にようやく着手できたのは3年後の宝徳2年(1450)であり、4年の歳月をかけて伽藍の復興を成し遂げたことが、やはり『龍文六代誌』や語録などから読み解くことができる。(この『龍文六代誌』という資料は在家の信者さんの家から発見されたそうである。)
この宝徳2年にはこのあたりに大暴雨風が吹き荒れて、大飢饉になっている。そのようなこともあって伽藍の復興に時間がかかったこともあるだろう。
この飢饉を救う為もあるだろうが、次のような伝説が残されている。童女に身を変えた毘沙門が現れて「龍門鼎裏 炊萬斛」(龍門の鼎裏、萬斛を炊ぐー龍門寺の竈ではたくさんの量の食料を煮炊きできるだろう)というお告げとともに粳米の長い穂を与えてくれたという。これがこの土地の長穂の謂われでもあるが、これも器之禅師の時代の伝承である。
また夢に門という字を文に改めるお告げを受けて、それまでの門という字を文に改めたのも器之禅師であり、これも宝徳2年のことと資料には記載されている。(日本全国のりゅうもんという名のお寺は、このお寺以外は龍門の字のほうが多い。)
器之禅師が龍文寺の中興と謂われる由縁は、火災からの復興と近隣の農家の稲作の改良を助けたのではなかろうか。器之禅師の永平寺復興に関する漢詩による功績もあるが、孫弟子達の永平寺復興の功績によって、「鎮西吉祥山」の山号を与えられている。
江戸時代には直末60ヵ寺、門末238ヵ寺をかかえていた。その元を築いたのは、実に器之禅師ということが言えよう。
明治12年に七堂伽藍が火災で焼失したそうで、現在の建物はその後建てられたものであるが、往時を感じられるような禅寺の雰囲気を漂わせている龍文寺の佇まいであった。
どのような縁によってか、器之為璠きしいはん(1404~1468)という禅僧の書かれた語録を研究することになった。私はもともとは中国の宋代の禅僧の研究をしていたのだが、いつの間にか器之さんになった。たまたま誰もこの語録を担当する人がいないので、私にまわってきたという経緯であるが、この禅師のお蔭で大寧寺さまにも声をかけて頂き、また龍文寺さまにまでお参りできることになった。
大寧寺は日本海側であるが、龍文寺は瀬戸内海側の周南市に位置している。しかし、かなり内陸に入るので、JRの徳山駅から車で20分ほどを要する。山口県は高い山はあまり無く、海岸線を離れるとすぐになだらかな山が眼前に見えてくる。龍文寺はそんな山の中にあった。
まず立派な山門が出迎えてくれた。最近建立されたようで木の香りさえしそうな感じである。この山門を建てられたのは、現住職の中村俊孝老師である。丁度開山忌(10月25日)前のお忙しい時に伺ってしまったのだが、ご親切にいろいろとご教授をいただいた。
この地で器之禅師は40歳前後より、示寂するまで(65歳)、ほとんどを過ごしている。大寧寺の五世にもなるが、大寧寺の方は弟子の大庵須益に任せて、ご自分は龍文寺の方に主に住していたのではないか、と想像していた。現地に来てみて、やはりそうだったのではなかろうかと思った。
龍文寺は開山は竹居正猷ちっきょしょうゆう禅師であるが、勧請開山かんじょうかいさんであり、実際は竹居の弟子の在山曇璿ざいさんどんせん(?~1445)が、永享元年(1429)に建立した。開基は大内家の家臣陶盛政である。このとき大内家の当主は27代の持世のときである。これ以後龍文寺は代々陶家の菩提所となり、当寺には陶家代々の墓所がある。
器之禅師が龍文寺の3世になったのは法兄ほうひんの在山が示寂した文安2年(1445)からであるが、示寂の年、応仁2年(1468)まで住職を勤めているので、歴代住職の中でも住山年数は長い方ではなかろうか。それだけ龍文寺に対しての器之禅師の思い入れは深いと察することができる。
住職をしてまもなくの2年後に、龍文寺は火災に遭っている。3年間は山口市の下小鯖にある寺に寓居し、復興のための努力をしていたことが語録の記録から読み取ることができる。復興にようやく着手できたのは3年後の宝徳2年(1450)であり、4年の歳月をかけて伽藍の復興を成し遂げたことが、やはり『龍文六代誌』や語録などから読み解くことができる。(この『龍文六代誌』という資料は在家の信者さんの家から発見されたそうである。)
この宝徳2年にはこのあたりに大暴雨風が吹き荒れて、大飢饉になっている。そのようなこともあって伽藍の復興に時間がかかったこともあるだろう。
この飢饉を救う為もあるだろうが、次のような伝説が残されている。童女に身を変えた毘沙門が現れて「龍門鼎裏 炊萬斛」(龍門の鼎裏、萬斛を炊ぐー龍門寺の竈ではたくさんの量の食料を煮炊きできるだろう)というお告げとともに粳米の長い穂を与えてくれたという。これがこの土地の長穂の謂われでもあるが、これも器之禅師の時代の伝承である。
また夢に門という字を文に改めるお告げを受けて、それまでの門という字を文に改めたのも器之禅師であり、これも宝徳2年のことと資料には記載されている。(日本全国のりゅうもんという名のお寺は、このお寺以外は龍門の字のほうが多い。)
器之禅師が龍文寺の中興と謂われる由縁は、火災からの復興と近隣の農家の稲作の改良を助けたのではなかろうか。器之禅師の永平寺復興に関する漢詩による功績もあるが、孫弟子達の永平寺復興の功績によって、「鎮西吉祥山」の山号を与えられている。
江戸時代には直末60ヵ寺、門末238ヵ寺をかかえていた。その元を築いたのは、実に器之禅師ということが言えよう。
明治12年に七堂伽藍が火災で焼失したそうで、現在の建物はその後建てられたものであるが、往時を感じられるような禅寺の雰囲気を漂わせている龍文寺の佇まいであった。
ご存じかも知れませんが、永平寺がその頃疲弊していましたので、その復興に尽力した方です。またその最期は誰も知らないとされています。お寺の跡継ぎのことがあり、自分はそれは関係ないと、行脚にでたまま行方知れず、実に飄々とした禅僧の姿が浮かびます。行脚に出た日1515年11月15日に行脚に出ましたので、その日を命日としています。
面白い禅師さんに興味を持たれたのですね。これは500年前からの風がミチコさんに吹いたのでは。
そうしていると金岡禅師に行き着き、さらに「龍文寺」に行き着きました。中世のロマンを求め、心は中世になっていたので 特に落胆したのだと思います。
また、特に禅寺だという固定観念があったのかもしれません。お寺の経営も大変だろうなともおもったのですが、、、。
私自身、全く、お寺と関係なく、ただただ、好奇心のみで行った者で 何も知らず、失礼しました。
そうですね、隣のゴルフ場は残念ですが、先代のご住職がなさったことですので、現在のご住職にはどうすることもできないのでしょう。
現在のご住職でしたら決してそうはなさらないと思います。
それとは別としまして、お寺の維持はいろいろと大変なことがあります。町中のお寺には想像できないほどのご苦労があるのではないでしょうか。
でもゴルフ場になっているのは残念でした。
そうしないと維持できないのでしょうか?
私が縁があって研究している禅僧が、おそらくこの地を、今風に言えば、愛して長く住んだところだと思いました。現地に行ってみて、その実感が湧きました。
今は、周南となってしまいましたが。
帰省の折には、長穂に行ってみようと思いました。