10月6日(火)雨 【懐弉禅師の決意 母との別れ】
昨日は達磨忌でした。達磨忌を機会に、いよいよ衣替えですが、まだ陽気が衣替えするほどではないですね。
さて、先日、水野弥穂子先生の『『正法眼蔵随聞記』の世界』(大蔵出版)を読んでいて、感銘を受けたことがあります。それは「懐弉禅師の決意」ともいえるものです。懐弉禅師は早くに父親を亡くされ、母の手一つで育てられご苦労されたようですが、その母の最期を看取ることは叶わなかったであろうということです。
懐弉禅師が道元禅師の門に入られたのは、文暦元年(1234)のことです。翌年「仏祖正伝菩薩戒法」を受けまして、正式に道元禅師の弟子となります。そして嘉禎二年(1236)12月29日には首座に任じられて、深草の興聖寺で秉払を行わせられました。
懐弉禅師のお母さんは、「お前を出家させたのは、公家たちと交わらせるためではない。名利の学問を捨てて、生涯黒衣の出家者として一生をおくりなさい」というようなことを、懐弉禅師に言い聞かせていらっしゃったそうです。一八歳で出家してから、懐弉禅師はお母さんの言葉を守り、正師を求めていて、ついに道元禅師という正師に巡り会えたのです。しかも一山の首座として道元禅師に認められ、生涯信頼されたように、信頼を受けたのです。
『随聞記』六の13段に「先師全和尚入宋せんとせし時」があります。ここには明全禅師が師の明融阿闍梨が余命幾ばくもない命となり、入宋しようとしている明全に自分の最期を看取って欲しいといわれるのですが、そうしたい心情を乗り越えて、道元禅師とともに宋に渡る決意が述べられています。
「一人有漏の迷情にこそたがふ、多人得道の縁となるべし」と師の最期の願いを叶えるよりは、自分が仏道において得道すれば、それは多くの人を助ける縁となるのだ、死ぬべき人ならば自分がいてもいなくても同じ事である、というようなことを言われています。このことを道元禅師が、弟子の懐弉禅師に話されたのは、嘉禎の終わり頃とされます。なぜ、この時期にこの話をなさっているか、このことを水野先生は、懐弉禅師のお母さんがこの頃、危篤の状態にあって、それを看取りたい懐弉禅師に対して、話されたのでは無かろうか、と推測しています。
当時、興聖寺では一月に二度、一回三日間の制限で外出が許されていましたが、懐弉禅師は既にその二回を使ってしまっていて、いざ危篤のときにその制限を越えてしまっていたのでしょう。首座として一山の規矩を守る筆頭にたつべき懐弉禅師には、この外出のきまりを破ることはできなかったし、道元禅師も一山の首座として「懐弉は行くまい」と、行かせてあげて欲しいと願い出る他の弟子たちに答えた、と水野先生は書かれています。
道元禅師は「老病をたすけんとて水菽(すいしゅく)の孝(貧しい暮らしの中で親に孝行すること)を至すは、今生暫時の盲愛迷情の悦びばかりなり。背きて無為の道を学せんは、たとひ遺恨はありとも出世の縁となるべし。是を思へ、是を思へ」と述べられています。この段に、『随聞記』中、懐弉禅師はご自分のお母さんのことは一切書いてはありませんが、水野先生はおそらくこの時期に懐弉禅師のお母さんはお亡くなりになったのだろうと書いています。
嘉禎四年(1238)に『随聞記』の記述が終わっていることと、歴仁二年(1239)の「重雲堂式」には「切要(特に必要な場合)は一月に一度」の外出が許されているだけですので、規則が変わっていますので、お母さんのお亡くなりになったのは、嘉禎年間であろうと推測されています。
懐弉禅師はこのことによって、一山の首座として、また仏道を学するということは、どのようなことなのか、その厳しさに耐え、決意をあらたになさったのでしょう。
『『正法眼蔵随聞記』の世界』を学んでいて、出家者として、仏道を学するとは本来はこうであると、あらためて思いました。私事ではありますが、母とのんびりと暮らしている私は、全く半僧半俗であると思います。ただ懐弉禅師のこの決意があってこそ、今に伝わった教えに感謝するだけです。
昨日は達磨忌でした。達磨忌を機会に、いよいよ衣替えですが、まだ陽気が衣替えするほどではないですね。
さて、先日、水野弥穂子先生の『『正法眼蔵随聞記』の世界』(大蔵出版)を読んでいて、感銘を受けたことがあります。それは「懐弉禅師の決意」ともいえるものです。懐弉禅師は早くに父親を亡くされ、母の手一つで育てられご苦労されたようですが、その母の最期を看取ることは叶わなかったであろうということです。
懐弉禅師が道元禅師の門に入られたのは、文暦元年(1234)のことです。翌年「仏祖正伝菩薩戒法」を受けまして、正式に道元禅師の弟子となります。そして嘉禎二年(1236)12月29日には首座に任じられて、深草の興聖寺で秉払を行わせられました。
懐弉禅師のお母さんは、「お前を出家させたのは、公家たちと交わらせるためではない。名利の学問を捨てて、生涯黒衣の出家者として一生をおくりなさい」というようなことを、懐弉禅師に言い聞かせていらっしゃったそうです。一八歳で出家してから、懐弉禅師はお母さんの言葉を守り、正師を求めていて、ついに道元禅師という正師に巡り会えたのです。しかも一山の首座として道元禅師に認められ、生涯信頼されたように、信頼を受けたのです。
『随聞記』六の13段に「先師全和尚入宋せんとせし時」があります。ここには明全禅師が師の明融阿闍梨が余命幾ばくもない命となり、入宋しようとしている明全に自分の最期を看取って欲しいといわれるのですが、そうしたい心情を乗り越えて、道元禅師とともに宋に渡る決意が述べられています。
「一人有漏の迷情にこそたがふ、多人得道の縁となるべし」と師の最期の願いを叶えるよりは、自分が仏道において得道すれば、それは多くの人を助ける縁となるのだ、死ぬべき人ならば自分がいてもいなくても同じ事である、というようなことを言われています。このことを道元禅師が、弟子の懐弉禅師に話されたのは、嘉禎の終わり頃とされます。なぜ、この時期にこの話をなさっているか、このことを水野先生は、懐弉禅師のお母さんがこの頃、危篤の状態にあって、それを看取りたい懐弉禅師に対して、話されたのでは無かろうか、と推測しています。
当時、興聖寺では一月に二度、一回三日間の制限で外出が許されていましたが、懐弉禅師は既にその二回を使ってしまっていて、いざ危篤のときにその制限を越えてしまっていたのでしょう。首座として一山の規矩を守る筆頭にたつべき懐弉禅師には、この外出のきまりを破ることはできなかったし、道元禅師も一山の首座として「懐弉は行くまい」と、行かせてあげて欲しいと願い出る他の弟子たちに答えた、と水野先生は書かれています。
道元禅師は「老病をたすけんとて水菽(すいしゅく)の孝(貧しい暮らしの中で親に孝行すること)を至すは、今生暫時の盲愛迷情の悦びばかりなり。背きて無為の道を学せんは、たとひ遺恨はありとも出世の縁となるべし。是を思へ、是を思へ」と述べられています。この段に、『随聞記』中、懐弉禅師はご自分のお母さんのことは一切書いてはありませんが、水野先生はおそらくこの時期に懐弉禅師のお母さんはお亡くなりになったのだろうと書いています。
嘉禎四年(1238)に『随聞記』の記述が終わっていることと、歴仁二年(1239)の「重雲堂式」には「切要(特に必要な場合)は一月に一度」の外出が許されているだけですので、規則が変わっていますので、お母さんのお亡くなりになったのは、嘉禎年間であろうと推測されています。
懐弉禅師はこのことによって、一山の首座として、また仏道を学するということは、どのようなことなのか、その厳しさに耐え、決意をあらたになさったのでしょう。
『『正法眼蔵随聞記』の世界』を学んでいて、出家者として、仏道を学するとは本来はこうであると、あらためて思いました。私事ではありますが、母とのんびりと暮らしている私は、全く半僧半俗であると思います。ただ懐弉禅師のこの決意があってこそ、今に伝わった教えに感謝するだけです。