mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「ご指摘」がおさまるかどうか

2018-07-24 08:03:09 | 日記
 
  団地の生垣を植え替え、植栽業者から「三か月は水をたっぷりとやってください」と依頼を受けた。梅雨のさなか、6月の中旬終わりのことである。ところが、それから一週間ほどで梅雨明け宣言。その後の猛暑は、すさまじかった。とうとう昨日は、熊谷で41.1度という国内新記録が樹立された。植栽業者は三日に一遍くらいといっていたが、とてもそれじゃ足りない。二日に一回、根元に水がしばらくは溜まる程度に水遣りをする。だが、端まで行ってみると、はじめの方に巻いたところはすっかり吸い込まれてしまう。
 
 隣は毎日撒いているのか、土が湿って黒くなっている。夕方はまだ地面が暑い。蒸発した湿気で木もつらかろうと、私は早朝に撒いている。木の気持ちがわからないのは、まだ私が未熟だから。ま、私の新しい「付き合い」と考えて、あれこれと慮りながら水遣りをしている。
 
 昨日お昼頃、電話があった。隣の棟の住人。水遣りの跳ね飛ばす泥が駐車場の車に飛び跳ねて困る、と。事情を具体的に聞き、階段掲示板に「ご注意ください」と掲示をすることにした。副理事長は女性らしく、水遣りのご苦労に感謝したうえで、「ご配慮ください」と、文面を和らげてくれた。じつは生け垣が、専用庭の中に入り込んでいるのだ。業者の設計ミスなのか、施工業者の手抜きなのか、半分の棟の生垣が専用庭の外につくられていなかったのだ。だから、専用庭の方々に水遣りを(水道料自己負担で)お願いしている関係上、ひたすら頭を下げていくほかないのだ。
 
 つい先日は、ベランダのタバコについて訴えがあり、これもまだ「係争中」、解決には至っていない。ただ、聞く耳をもたないほど「追い詰められていた」のは父親のよう。若い奥様は「(あれ以来)できるだけ換気扇の下で吸うようにしているのですが」と言葉を濁す。舅には話しづらいのかもしれないが、「係争」が家庭内に移っただけでも、一安心である。もっとも、換気扇の煙はやはり、ダクトを通ってベランダに抜けているから、ご近所の苦情は、片づかないかもしれない、と思う。だがここから先は、家庭の中にまで踏み込むことになるから、世の中を禁煙にしなければ片づけることはできまい。
 
 さてこれから三日間、私は暑い都会を抜け出して、涼しい山へ入る。あとは副理事長に任せた。「もし何かあったらどうしよう」と笑っておどけてみせたが、ご近所付き合いに心遣いが行きわたる彼女なら、私などより心強い。
 
 そういうわけで、また三日間、ブログはお休みします。ではでは。

隠居の奥行(承前4)――ただのヒトからの再出発

2018-07-23 08:46:52 | 日記
 
(9)「野田は家禄百八十石で……しかし松江の実家は……家禄もせいぜい三十石前後ではなかったか……」と清左衛門は述懐する。それを受けてkwrさんは「家柄」へのこだわりがなくなっていることと「親子兄弟のつながりが薄くなっている」時代へと言葉を移し、「家禄」を抜き出して、こういう。「仕事を離れ、カミサンと二人で生きていくようになって、頼るのは年金、保険など国の制度だけというのは心細い限りである」。
 
 中学教師をリタイアして後に大学の教師を務め、教育長の任まで引き受けて72歳まで現役であったkwrさんが「心細い」というのは、ちょっと驚きであった。「日本の伝統的な、良き家族制度」の支持者である財務大臣が喧伝称揚するモデルのように妻は家庭を守り、ご亭主ひとりの共済年金や厚生年金で老後を過ごす彼にして、この言である。国民年金だけで暮らしている「隠居」は、ただただ食つなぐだけに思案を凝らす事態にあると、私の思いは一挙に慨嘆へと向かう。
 
(10)「相庭与七郎は丁寧な言葉を遣った。藩主側近の実力者といった驕りは見えず、あくまで元用人の立場をたてるつもりでいるらしいのがいささかくすぐったいが、清左衛門は悪い気はしなかった」と、経歴を知る人に囲まれて清左衛門は自らの誇りを保っている。
 
 kwrさんは、「隠居してからも頼られるというのは信頼されていると同時にそれだけの具体的な力を持っているということでもある」と、(清左衛門が)旧知に人たちに囲まれている「関係」をとりだす。だが「羨ましい気もするが、私の場合、学校現場から離れれば何ができるとも思えない。いい気になって笑われるのがオチである」と自らの場を見極める。清左衛門の「隠居環境」は、現役時代の経歴と地続きである。まるごとのコミュニティにお役目を務め、そのコミュニティで隠居暮らしを続ける。彼の経歴はそのまま「隠居」後も光を放つ。ところが現代の仕事場は、社会的にしつらえられた「場」にすぎず、リタイアしてそこを離れると「ただのヒト」になってしまう。隠居は、リタイア後に改めて社会的ネットワークを築かねばならない。それは(現役仕事から解放されて)「気分的に楽」であると同時に、まず己を「ただのヒト」と認知することから出立することになる。これがなかなか、凡人には、できない。ことにkwrさんのように、ひとつの教師人生を終えて後に(乞われて)大学教授と教育長を務めあげたとなると、「場」を離れた自らを「ただのヒト」に位置づけることを周りは許さない。
 
 だが私もそうだが、じつは現役仕事をしているときに自らを「ふつうのオジサン」と自戒することが多かった。若いころは鼻っ柱も強く、ある意味、社会的なリーダー(であらねばならない)という思いが強く私の内心を揺り動かしていた。ところが教育現場で直面する悪たれ生徒や落ちこぼれ生徒たちの振る舞いは、私の鼻っ柱を軽々と一蹴してしまうほど、権威に対して不遜であり、権力に対して無謀であり、規範に対するに暴力的であった。私自身の「知的な力」は、ものの役に立たないと痛烈に感じるほど無力であった。と同時に、同じかれらの心の内側に脈々とひそめる「人への/人からの信頼や切望」が感じとれる。それに呼応しているのは、「知的な力」ではなく、私自身が子どものころからいつしか身に備えてきた人に対する「かんけいの力」だ。そういう思いが浮き彫りになっていく。社会的リーダーなどと気取ってみても、この社会の支配システムの構造的な上位に着けば力が発揮できるというものでもない。この世のどこにいても、同じモンダイと向き合わねばならないのだとすると、今この現場で逃げるわけにはいかないと「土着する」ことを考え、宣言した。1970年代の初めのころのことである。それが「ふつうのオジサン」の自覚であった。
 
 あいかわらず、OJT(on-the-job training)であったことは言うまでもない。しかも、生徒との関係を変えるということは、学校を丸ごと変えることを視野に入れなければ適わないことも痛切に思い知った。当時(1970年代初め)の定時制高校の教師たちの多くは、研究者の気分であった。生徒たちも「金の卵」といわれ、家庭の経済的事情によって進学機会をもたなかったがゆえに故郷を捨てて都会に就職し、定時制高校を経てお金をため大学へすすみたいという、向上心一杯の子どもたちであふれていた。その生徒たちは権威にも強い憧憬を懐いていたから、研究者気分の教師たちはまさに薫陶を垂れるに充分な場を得ていた。
 
 ところが1973年のオイルショックから一変した。翌年の「金の卵」はゼロになり、地元の全日制高校に進学できない子どもたちが、どっと定時制に押し寄せた。そればかりか、全日制高校を首になった悪童たちが、これまたどっと、定時制高校へ転入してくるようになった。にもかかわらず、研究者気分の教師たちはそうやすやすと変わることもできず、(「金の卵」という向学心に富む貧しい子どもたちへの共感という)正義感だけで、薫陶を垂れることができると思っていた。学校はたちまち荒れて、教室の秩序さえ保つことが難しくなっていった。そこから私は、「教師は学校をつくる。学校が生徒を育てる」を標語として、学校態勢の立て直しを試みた。それが地域に定着し、中学校からそれなりの評価を得るのに、七年かかった。
 
 話しを元に戻そう。「ふつうのオジサン」が教師を務めているという自覚は、立ち居振る舞いをふくめたまるごとの存在が「かんけい」を紡ぎ、それが生徒に対して思いがけぬ心裡の作用を施して生徒の自律を促す。教師が教育しているというより、教師は場をつくり、「かんけい」をつくる。それが教育的に作用するかどうかは、人としての基底的なありようによっている。気風とも言い、ときには作風とも言ったが、要するに教師の関係がつくりあげる学校の風儀が生徒に対して薫陶を与えると考えたのであった。つまり私一個の「力」はそれ自体としては働かない、と。
 
 だからリタイアしてこれからを生きる私の得意技は何だろうと考えたとき、学校の教師というのは本当に学校という場を離れると何も活きる技がないと思い知らされることになった。おしゃべりと山歩き。でも仕方がない。「隠居」というにはまだ早かったが、15年前から得意技にすがってやってきたのであった。
 
 その日々に(書き綴って来たことによって)痛切に感じること。単に「ふつうのオジサン」というだけでなく、自分がいかに卑賤で下劣であるか、愚昧であるかを思い知らされる。そうして未だ引き摺っている私の裡なる「研究者気分」を探ってみると、人はいかにして人になるか、人はいかにして規範を受け継ぎ、受け渡ししていくのか。ゴーギャンではないが、「何処から来てどこへ行くのか」。そういうことへの探求心だけが、胸中に残る。まさに「隠居」にふさわしい「論題」ではないか。(つづく)

隠居の奥行(承前3)――死者と語らうことの意味

2018-07-22 11:39:55 | 日記
 
(6)「百年前の生前の姿を知らない死者の法要だったが、済ませたあとの気分は以外にも快いものだった。死者がその法事を、間違いなく生者が捧げる慰めとして受け取ったかのような感触が残ったのである。」と三屋清左衛門が感じたことを糸口に、kwrさんは墓をつくったことを話す。両親と若くして亡くなった彼の先妻の墓である。お彼岸とお盆の年三回の墓参り。そうして、「最近は暇になったせいか」、死者のことをよく想い出すそうだ。これぞ「隠居」。
 
 現役で仕事をしているころは、死者のことは頭にない。ところが「隠居」してみると、しばしば死者のことを想い出す。言葉を交わすような気分にもなる。「隠居」というのが、現役仕事から身を引いて、やはり彼岸に近づいているからなのか。平均寿命で考えると、あと五年ほどしか生きていられない。生きていることへの執着もない。身じまいはしていないが、いつ死んでも構わないような気分。墓というのは、依り代。むろん仏壇とか祭壇でもよい。彼岸と此岸が言葉を交わす格好の場になる。
 
 生きている人との会話と違い、死者との対話はたいてい、人生を包括的に見て振り返る趣をもつ。悔んだりはしないが、恬淡と、そうかあの時こうであったと、わが裡側から湧き起る想念が我が身に起こった出来事を対象にして落ち着きどころを探るように、揺蕩う。それが法事という儀式であったりすると、ひょっとするとこれは、わが身の「法事」ではないかと思われるほど、爽快な気分に包まれる。三屋清左衛門は、そのように感じていたのではなかろうか。
 
 死者と語らうことは、そのときどきの刹那に振り回されて生きているのとは異なり、静かに来し方行く末を見晴らすような視線をもつ。「百年前の……」と簡単に清左衛門はいうが、いわば親子孫の三代をひと摑みにして、そこに己を位置づける心裡の視野が生まれている。わが身が今、幸運に恵まれてここにあると、わが祖先、先達とに受け継がれてきた流れを引き受け、それをまた、百年ののちへと受け渡していく面持ちに浸る。つまり一時の執着を取り払い、わが身を器として通り過ぎていく「とき」の流れ、「かんけい」の流れを、あたかも中空からみてとっているような心地よさに充たされる。まるで(わが)魂が、それ自体として感じられているようだ。
 
 「世俗のことが面白くなくなっては、老いは加速してこの身にのしかかって来るばかりだろう」と清左衛門は感じているようだが、kwrさんは「人間かんけいのごたごたが煩わしくなってきた」といい、「無理に世俗のことに首を突っ込む気はなくなった。それを老いというのだろう」と記す。しかしこれは、エネルギーがなくなるとか、面白くなくなるというモンダイではない。死者と対話するということが、現役とは異なるスパンでものごとを観る目を培っているのだ。現役と「隠居」との決定的な違いが生まれている。kwrさんは「社会、政治の動きにも距離を置いてみるようになった。隠居とはそういうことだろう」とまとめるが、そこにはまさに「隠居」でしか感じられない「せかい」を感じとっていると言ったほうが、適切に思える。
 
(7)「親は死ぬまで子の心配から逃れ得ぬものらしい……」と清左衛門はいう。これはしかし、子らと同居している大家族制度のときのこと。すっかり離れて暮らす身の「隠居」は、ほぼ子らのことを忘れて暮らしている。もちろん事あるごとに想い起しはするが、「心配」してはいない。社会的関係がそれだけ気遣う必要がないほど(安全に)行きわたっているからにほかならない。親である「隠居」が子らに期待したりしていると、なぜ音信がないのかと「心配」になったりするだろうが、子はすでに独立して暮らしを立てている。親が子に心配を掛けるほど面倒を抱えていないとなると、子は親のことを忘れて日々の暮らしに追われるものなのだ。

 万一、不慮の事故や事件が起こって子らが困っているとなると、何か手を貸すようにすればいいが、これとても、社会的な関係の中で始末がつくように制度は整っている。「隠居」はもはや「家族」の保護者ではなくなっているのかもしれない。
 
(8)「わしは隠居の身。半分が世捨て人でな……」と清左衛門。それを受けてkwrさんは「仕事をやめた後、地域の活動にかかわる道もあったが、気がすすまず、動かなかった。地元の人たちとのつながりがうっとうしいという気持ちが強い」と記し、さらにこう付け加える。「さりとて、自分の好きなことしかしないというのもずいぶん後ろめたい気がする。もう75歳になるのだから許されるだろうか。贅沢をしないということは気にしている」と。

 「地元の人とのかかわりがうっとうしい」というのは、世捨て人の特権のようなものだ。現代の都市生活は、それが良くて田舎人にはあこがれの対象になる。とはいえ、「自分の好きなことしかしない」というのもの落ち着きが悪い。社会的な意義に生きてきた人だから、このように感じるのではなかろうか。現代の「隠居」はできるだけ自律的に暮らし、世の中の耳目を集めず、ひっそりと生きることが何よりだと思う。「許す」も「許さない」も全く自身の心裡の判断。ただkwrさんの「贅沢をしない」という気構えは、敗戦後の時代を生きてきた身にとっては、唯一「己を裏切らない」生き方と思えて、好感を懐く。
 
 では、どう生きるか。「……山登りについては、fさんに引きずられる形でのめり込んでいるが、唯一の楽しみ。体を痛めつけること、山の荒々しさや開放感などが魅力である」と、すでに道筋をつけている。kwrさん自身、中高一貫校の中学生のころから山岳部に所属して、当時はひ弱な中学生だったらしいが、高校生の先輩に連れられて涸沢などにも足を運んだという。昔取った杵柄を、「隠居」後の得意技として復活させる意気込みは、kwrさんの奥様の山歩きと歩調を合わせて、目下順調には運んでいるようだ。「あと一、二年はきつい山登りに挑戦したいと思い、年明けからトレーニングとして月に二回ほど一人で歩いている。そのほかに山の会の登山が月に二回。つまり週に一回のペースで歩くよう心掛けている」と、気合が入っている。
 
 山を歩くというのは、それ自体が「瞑想」のような行為だ。何も考えない。そのうち自ずから、わが身の裡へ目が向き、そこから返ってくる言葉が自問自答のようにして、身の裡を経めぐる。その自問自答は、わが人生の全てを駆け巡るように行き交うから、まさに「隠居」の所作としては、この上ない事であるように思える。その結果、「私の人生の上でもっとも健康といっていい」という状態なのは、後期高齢者として言祝ぐに値する「隠居」のありようといわねばならない。
 
 今月初めにも、利尻岳に登り、標高1700mを超えるピークに立ってきた。来週には甲斐駒ケ岳と仙丈岳という、二つの百名山を踏破しようと計画している。75歳としては上々の出立をしている。(つづく)

隠居の奥行(承前)――有徳の生き方

2018-07-21 08:56:57 | 日記
 
 「ささらほうさら」のkwrさんの話しはまだ、つづく。

(4)「清左衛門が外へ出れば嫁はその間、舅と同じ屋根の下にいる気づまりから解放されるわけだから、おおいばりで釣りに出かけていいはず……」と藤沢は記す。その「嫁」を「カミサン」に置き換えkwrは、こう続ける。「外へ出るのが億劫になり、カミサンには気づまりなこと大、一日中顔つき合わせ、昼の支度までするのは不自由このうえもない状態が続いたが、昼は勝手に食べることにし、やっと慣れてもらった。朝もそうすることになった」
 
 家事がヨメ(関西ではカミサンのことをヨメという)の仕事になり、それが家庭の定常状態と考えてきた「日本のよき家族制度」の支持者はいま日本の政権中枢にいて、家事ばかりか看護や介護まで家庭で面倒を見るべきとして、医療保険や介護にかかる国家経費の負担を軽減しようとしている。それが「将来の生活に対する不安」を人々の間に醸していることに、あまり斟酌していない。だが憲法に言う「公共の福祉」というのは、「人々が安寧に暮らすこと」が原義。つまり「公共の福祉」というのは、「他人様に迷惑をかけないこと」のように、漠然とした秩序概念と考えられているが、そうではない。「安寧に暮らす」というのは社会関係を安定して見通すことができることを意味する。
 
 日本が今の中国のように、経済成長でイケイケの途上にあったときは全般的に「中流化」が進行し、それだけで「将来への不安」は消し飛んでいた。ところが高度消費社会が実現しバブルがはじけて以降、経済成長は低迷する。それはグローバル化の進展によって後発国へ製造拠点が移り、それまでの先進国は、蓄積してきた金融資本の投資と知的財産によって命脈を保つほかない事態になっていった。もてる者がますます有利になり、持たざる者は(相対的に)貧しくなる。国家の経済政策も懸命に金利や物価を2%以上に押し上げようと通貨政策で手を打つが、グローバル化の時代、通貨は簡単に国境を越えてザルに水を注ぐようにどこかへ消えてしまう。旧来の経済観念が通用しない。企業も、金融機関を当てにせず、自らの社内留保金によって難局を乗り切ろうとするから、ますます労働者の手に渡る支払いは少なくなる。中流は消えていき、貧富の差は大きくひらく。「人びとの安寧」は、ほぼ完ぺきに切り崩される。
 
 おっと、話がそれそうになっている。要するに将来への不安は「不確実性の時代」という社会学的指摘と歩調を合わせるように、社会にまん延し、グローバル化しか頭にない政治の舵取りたちは、放漫財政の帳尻合わせを「古き良き日本の家族制度」とか「人に迷惑をかけない」という伝統的社会規範に依存して、乗り切ろうとしている。「公共の福祉」はすっかり影を潜めているのだ。
 
 kwrさんの、家事を自分でできるところは自分でやるという志は、(気づまりへの配慮というだけでなく)「ヨメ」に依存しない「自律の根拠」への旅立ちでもある。「カミサンにはできるだけ外に出てもらうようにし私は留守番、のかたちが定着しつつある」とkwrさんは暢気に記しているが、そうだ、それこそが(ひょっとして)いずれ男やもめになったときの彼の自立の根拠となる。家事という「仕事」は、それほどに人の佇まいをつくり、人柄となるのだ。「隠居」という、いわば人生の終局というか、完成体というか、それ以上変わりようがない形になってはじめて存在の根拠となる仕事を見つけるというのは、幸いなことではないか。
 
(5)「わしは然るべき地位を得て禄も増えたが、奥之介は家禄を減らして、ま、不遇と言ってよい暮らしをしておる」と三屋清左衛門は述懐する。をれを受けてkwrさんは「私は地位(給料)をめぐって他人と競争をするような場にいなかったので、好き勝手に仕事をしてきた。上におもねったり、同僚を蹴落としたり、他人を羨んだり憎んだりすることなどほとんどなかった。それは幸せともいえるし、人の世のことがよくわからなくなったともいえる。つまり世間知らずということである。教育長の仕事はそれではすまなかった。役人、地域の有力者との付き合いのむつかしさがよく分かった」と感懐を綴る。「他人と競争をするような場」とはポストの競争のことか。学校の教師という仕事は、なるほど、「出世競争」とは無縁かもしれない。それでも校長や教頭というポストに身を置きたいという程度の気分はあるであろうが、彼はそれにも無縁でいられたというのだ。
 
 よく考えてみると、学校の教師もそうだが、第一次産業の従事者も、第二次産業の職人なども、あるいは商人(あきんど)なども、その仕事自体に執心している間は、「出世」は埒外にある。教師にとって生徒との関係は日頃頭を悩ますことではあろうが、この点で心を砕くことは「出世」とは直につながらない。同様に、たとえば農民が、土の手入れや作物の世話をして、改良に改良を重ねて佳き品物をつくろうとすることも、「出世」につながらない。そもそも農民にとって「出世」って何だ。金を儲けることか? それは資本制社会における「儲ける/儲けない」という秤からみると善し悪しがあるかもしれないが、土を耕し作物をつくる、あるいはおいしい作物に仕上げるという「探究」は、自らの活動(アクション)の意味を深め、充実感を得ることではあるが、世間的にそれを「出世」とは言わない。有徳の人となる。そうか、「出世」とは世間的な価値評価に乗ることであって、自身の活動の内的充実とはズレる。学校の教師として有能であることは、必ずしも世間的な地位に結びつかない。教師活動それ自体が充実しているとき、人は教頭や校長になって「行政職」として現場を離れることを望まない。

 三屋清左衛門も、地位を得たことを「禄が増えた」と世間的な評価にずらしている。奥之介が不遇というのも「家禄のみ」の貧しい暮らしを指しているようだ。それが「充実感」とどうずれるかずれないかは、三屋清左衛門の視界になかったのであろうか。「御用人」という立場がすなわち「有徳の人」という響きと重なっていたからであろうか。藤沢周平自身が、そのような視点を持たなかったのであろうか。私は彼の作品を読んでいないからわからないが、そこに踏み込むとまた、面白く読めるのかもしれない。
 
 そういう意味では、世間的な評価に左右される生き方をしなかったとkwrさんはみるべきではないか。となるとでは、あなたは、なにを仕事・活動の充足感と考えて生きてきたのかと、自らに問わねばならない。そこからやっと、あなた自身の人生を語る語りが始めるのだと思う。生きることを世を渡るという。だが、自らの「せかい」を確立してそこに拠点を置いて生きていくことは、世を渡るのとは違った領域の広がりを持っている。それこそが、「隠居」してからも生きてくる。「役人や地域との付き合い」など蹴散らしてでも、「隠居」は生きていける。(つづく)

隠居するとは

2018-07-20 16:43:12 | 日記
 
 昨日(7/19)は「ささらほうさら」の定例会。講師はkwrさん。お題は「隠居」。藤沢周平の『三屋清左衛門残日録』を補助線にして、己の「隠居」を振り返るという試み。
 
 「残日録」とは「日残りて暮るるに未だ遠し」を意味する。つまり、役職は引退したものの、彼岸に逝くにはまだまだという、ご自分の現在と重ねた。三屋清左衛門は藩主の用人を務めた53歳。kwrさんは市の教育長を務めた75歳。江戸のころの「人閒五十年」というのを勘案すると、社会的感覚としてはほぼ同年齢とみて良いか。
 
 その三屋清左衛門に仮託して「隠居」を語る藤沢周平の口舌とわが身のありようとを照らし合わせて、13項目にわたって「隠居」の様子を語る。
 
(1)「惣領の家督相続がないので、年金生活ではあるが独立して生活する。「隠居」とは言えない」と自己規定する。これは大家族制が健在であった江戸のころと、すっかり核家族化してしまっている現代の家族制度との差異を土台に参入して「隠居」を考えるから、違いが明白になる。昔の大家族制を前提にした「隠居」のように、上座に置かれ(て敬して遠ざけられ)ることもない。街中では、ただの「おいぼれ」。「隠居」という言葉が醸す精神的な異次元をもつ響きが、いまはない。「国難」の後期高齢者である。核家族は大正期には急速にはじまったと誰であったか、研究者が書いていた。それでも地域的な結びつきが強かったころは(その善し悪しは別として)、人が孤立するということはなかったといえる。ところが戦後の更なる核家族化の進行は、家族の結びつきさえも解体し、人は個々人の自主性で生きるのが第一と考えられるようになった結果、地域的な結びつきも解体されてしまった。また別の要因が作用しているのだが、長幼の序ということも(私などの世代を最後に)消えてしまった。「隠居」と言っても、ただの年寄り。「国難」と言われては「おいぼれ」も立つ瀬がない。「家督」というのは(財産ではなく)「その家の気風/関係」を継ぐことと民俗学者の誰かが言っていたが、それすらも遺伝的に、自然的に伝承されるもの以外は、意識さえされない。「隠居」の権威は、もはや、なにそれ? になっている。
 
(2)「隠居して悠々自適の晩年を過ごしたい……」「そういう開放感とはまさに逆の、世間から隔絶されてしまったような自閉的な感情……」と藤沢は描くが、kwrさんは悠々自適の中でストレスから解放され、健康を取り戻した。世間とのつながりをつくろうという気が起ってこないのは、疲れていたのだろう。時間を持て余すときもあるが、ノンビリしたいという気持ちが強い。「自閉的」になったともいえるが、藤沢の口調にあるように「世間から隔絶された」という感はない。自ら選んだ好ましい道という趣がある。
 
 「隠居」とか「悠々自適」という言葉の響きは、世の中に対するひと仕事為し終えて、これからは勝手にさせてもらいますよという自在さに充たされている。現役というのは、まさに労働力を売る仕事であって(もちろん本人がどう意識していようがいるまいが、売る労働が社会的な意味を持っていて、この社会存立の欠かせない一端を担ってはいるのだが)、ストレスに耐えていくしかなかった。だからこそ、のんびりと遊ばせてもらうという気分が「開放感」に通じるのだが、無意識の社会的関係が職業的な関係においてかたちづくられていることに気づくのも、「釈放後」になる。自閉的になるというよりも、社会関係から零れ落ちてしまうのだ。つまり引退後に改めて、社会関係を一から築きはじめなければならないというのは、これは大変なことだ。職業的なポジションとか、職能的に結び合っている関係というのが、ただ単に機能的にしかとらえられていないと、仕事から引いたとたんに、すべてが蒸発してしまうのだ。
 
 しかし職能的な特技(たとえば税理士や会計士が数字に明るいとか、建築関係者が団地の給水管や修繕工事に詳しいとか、都市計画の設計者が造園関係のことに通じているとかの特技)は、地域の仕事の役割を担ったときに水を得た魚のように全面開花する。と同時に、職業的に身につけてしまった人との応対の仕方も露出するから、態度が尊大であったり、ことばが高飛車であったり、あるいは単に法的な言語でしか喋れなかったりして、上から目線と嫌われることになる。自ずから「控えめに位置する隠居」に如くはないから、「自閉的」にみえる。そういうこともあるのだ。
 
(3)「その空白は何か別のもので、それも言えば新しい暮らしと習慣で埋めていくしかない……」と藤沢は記す。三屋清左衛門は「若いころに中途半端にした剣の修業、学問を再開し、釣り、鳥刺しなどを始める。藩のもめごとに「隠居」の立場で取り組む」。kwrさんは「新たに何かを始めるほどのエネルギーはなく、読書、ウォーキング、畑仕事(の手伝い)、家事(風呂掃除、食事の後片付け、庭の草取りその他)、月二回の山歩き、月一回の日和田山ボランティアなど」と記す。つまりそれまでの「かんけいの成り行き」の引き受け方によって「新たな」役割は発生し、習慣化することによって定着していくもののようだ。その「かんけいの成り行き」は、私中心の現役時代の運びに対してカミサン中心の生活移行することを意味していた。暮らしの決定権はカミサンが握っている、と。
 
 断捨離とか言って、自分の現役時代のあれやこれやをすっかり捨ててしまうというのが、流行している。「他人様に迷惑をかけないで身罷る」のを理想とする人たちが言い出したことだろうか。自分のことは自分でするというのを、最終場面にまでもってくると、終活をしっかりと行って、「迷惑」を掛けずに「ハイさようなら」というのが美しいと思われるのであろう。だが、その迷惑はどれほどのものか。「還暦」というのは「生まれ変わる」ということから来ているらしいが、「生まれ変わったつもりになって」現役時代の終わりまでの自分の生き方を振り返り、一つひとつを辿り返して、意識化してみるというのが、一番の「中途半端にした」コトゴトを始末することのように思う。そういえば「自分史」を書くということをどこかの歴史学者が提案して一時期流行していたことがあった。今も続いているのだろうか。誰が読むの? という声が聞こえる。誰も読まなくってもいいではないか。自分が自分を対象化してみる試みであれば、まず自分という読者がいる。遺品に写真がわんさとあっても自叙伝が書き遺されても、残された者からすると、それらに一つひとつを思い入れて始末するのは、もう一つの人生を歩くようなもの。まして残されたのが同年齢の高齢者ともなると、とてもそんなことにかまっている暇はない。なるようになる。業者任せにしてすべて金銭の支払いで済ませるというのも、今風の「かんけい」をあらわしていて、容易に理解できる。
 
 別の人生を歩くのが、「隠居」の覚悟だ。むろん特技を生かして歩きはじめるのも悪くはないが、それを機に儲けようとか言うのはないであろうから、文字通りそれ自体のために生きる。つまり遊ぶのが、一番。むろん、社会的意味に生きる道を探るのもいい。ボランティアでも何でも、けっこう元気のいい動く人手を欲しがっている社会機関はいくらでもある。欲得・利得抜きでアクションをしてこそ「隠居」ではないか。そのためには、隠居サークルやイ隠居コミュニティをかたちづくって動かしていくことだ。その小さな「かんけい」からわが特技を生かしたメディアを創成していければ、第二の人生がそれなりに面白くなるのではないだろうか。(つづく)