mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ぼちぼち喜寿を迎える身のほど

2018-07-19 09:26:17 | 日記
 
 山を歩いて「疲れ」がどう出てくるか来ないかなど、高齢化に伴う身体の調子の変化を、これまでも記してきた。だがちょっと違う微妙な変化が起き始めている、と感じている。
 
  お酒を呑んだ後の「昇華」の機微が、変わりつつあるように思う。「昇華」というのは、アルコールが吸収消化されることを意味しない。アルコールがほどよくわが身に馴染み、わが身の細胞の隅々にまで生き渡り落ち着いて身の一部になることを指している。つまり、お酒が残る/残らないというのではなく、朝起きるときにはすっきりと痕跡も残していないことを「昇華」と呼んだ。これまでほど大酒が呑めなくなったのは、何度も書いた。それでも人と話しながら飲む酒はうまく、身体の調子を超えて飲んでしまうことも、ないわけではない。でも翌日に残るというか、消化できないほどは飲めない。己の欲するところに随いて矩を超えず、と身のほどが、歩度をそろえて高齢化しているわいとほくそ笑んでもいた。
 
 ところが近頃、軽く晩酌程度に飲んだだけなのに、夜中に輾転反側して消化に苦労している身のほどが伝わってくる。500ccのビール一本が美味くなくて途中でいやになる。これまで一升瓶で6本まとめて買っていた焼酎が重たく感じられ、ほんの五酌ほどをお湯割りにすると、もう十分という気分になる。ワインは2杯くらいがちょうどいい。日本酒も一合で、もういいかという気分になる。友人たちと話しながら飲むと勢いで度を過ごすから、暑い夜の今日日は、また輾転反側するようになる。さすがに翌日に残る感じはないが、もう今日は呑まないで過ごそうかと午前中は殊勝なことを考えたりする。大きな転機が、わが身に訪れているように思う。
 
 つい一昨日も年一回の健康診断をしてきた。胃はきれいだとカメラを覗いた医師は言う。膵臓の一部は胃の中の空気のために「よくみえない」が、残りの部分の様子から推察すると、問題があるとは思えない。エコーで脾臓や腎臓や肝臓も一緒にチェックして、医師は太鼓判を押す。結構なことだ。にもかかわらず、近ごろの睡眠時間はやたらと長くなっている。一度、4時間半か5時間ほどのところで夜中に目が覚めるが、それからまたひと寝りして、合計8時間以上床に就いていることが多くなった。私の母親が90歳のころにうとうとしていることが多くなって、心配したことがわが身に迫っていると感じる。これが悪い事とは思えないから、ぐずぐずと惰眠をむさぼるのを放置しているのだが、これもまた、高齢化の確かな歩みなのか。わが身の変りようをとらえたい気がする。
 
 9月に北陸の温泉地で、高校の同窓生の「喜寿を祝う会」が催される。岡山在住の同窓生が企画して、関東に住む私たちの呼び掛けてきた。こちらの同窓会は二カ月に一回大学を借りてSeminarをやって来た。それがもう第二期に入り、6年目を迎えている。だから参加の中心は関東にあるが、岡山や名古屋からの参加者も加えて連泊で過ごそうというのだ。その案内をみていて、そろそろそういう集まりも適わなくなるなあと思った。じっさいSeminarに顔を出す人のうち半数以上は、参加しない。できないともいえる。どんな身のほどを見せてくれるか。どんな身のほどに出逢うか。

先を見通す視野とリアリティ

2018-07-18 10:24:38 | 日記
 
 6/22のこの欄で「私のシンギュラリティ」と題して、2045年までのことを視野に入れてわが団地の修繕積立金を構想しろという「反発」に遭っていることを記した。ベースになっているのは、築後29年目を経過しているわが団地の「長期修繕計画(サイクル)表」。初め、わが団地の設計建築を企画した大手都市計画企業が、築後の修繕管理を請け負うために設立した会社が、「サイクル表」を提出していた。それに沿って昨年、2022年の給水管給湯管の補修・更新の「見積り」を(何社かに)要請したところ、「サイクル表」を作成した会社は「見積り」に参加しなかった。当然(実施前段で)「なぜ」と疑問が出る。それに対して当該の社は「わが社ではそういう工事を行った実績がない」と回答があり、これまた当然、では「サイクル表」の積算基礎はどのようにしたのかと疑問の追い打ちが為された。「一般的な工事費です」という回答に納得できなかった団地理事会は、「サイクル表」の作り直しを別の建築設計コンサルタント会社に依頼して、つくりなおした。
 
 それをベースに、昨年10月仕切り直しをして、いまに至っている。理事会の付属機関である「専門委員会」に「付託」しようと提出したものが、「反発」を受けて立ち往生しているというのが、前回ブログのお話しであった。2022年の「不足額」を自力で賄うというのに対して、2045年を見通せという「反発」が私には理解できなかった。2045年までの「サイクル表」をみるとピークが三つある。2022年と2031年と2045年だ。それらの年度に大規模な修繕が待っているという見立て。その最初のピークをクリアしてはじめて(実際の工事費用と「サイクル表」にみる費用との差も明らかになり)、2031年が見通せるようになると(私は)見込んで、「付託」したわけであった。
 
 前回会議後にもう一度理事会に「再度付託するにあたって」と説明プリントを用意した。それは、「サイクル表」に基づいて2045年までの「赤字」の累積額と、もし(いくら)値上げをしたら積立金の累積額はどう変わるかをエクセルを用いて経年の表にしたものであった。そうして三つのピークをみていくうえでも、第一のピークをこえなければならない、再度「素案」を作成してもらいたいと要請した。すると(前回は「反発」した委員の側に立っていた)委員長は「付託を受け容れるのは(付属機関としては)当然である」といい、何の議論もなく受け入れが決まった。なんだこれは? 「反発」委員の(駐車場値上げをしないことへの)ガス抜きではなかったか。そんな感じだ。
 
 でも私の中には、大きな疑問が残った。私たちが見通せる先というのは、寿命程度ではないかという思いが、よぎったからだ。
 
 「2045年を見通す必要がある」と主張したとき彼の委員は「外壁塗装をはがす工事とかボロボロになるサッシなどを全面的に改修すること」や「いずれ更地にするときの経費」を考えておかなければ、ここはスラムになると展開した。わが住まう建物の寿命は(たぶん)おおよそ60年。目下大幅改修を実施している(たとえば)高島平団地は築後45年を超えるが、耐震補強改修がメイン。それに伴って「サ高住」に居室をリフォームしたりして入居者を募っているのは、賃貸だからでもある。いずれ全棟の建替えをすると言っている武里団地は築後60年近くになるが、これも耐震性に問題があるというので、建替えに手を付けたと聞いている。じっさいには原発でさえそうだが、寿命年数を(法的に)十年、二十年と引き延ばしている。原発がスラムになるというのはすでにフクシマで実証済みだが、それと同列に考える事かどうかも、わからない。
 
 「不確実性の時代」と言われるようになってすでに四半世紀が経つ。これは世の中がどう変わるかわからないという見立てだ。世の中の波に浮かんで暮らしている私たちの暮らしも、どうなっているかわからない。どうしたらいいか読めない、ということでもある。私なども、退職金を預けている金融機関から「いい投資先がある」とすすめられても、それが「十年物債券」だったりすると、基本的にその話には乗らない。私の寿命が(平均寿命と考えても)そこまでもつかどうか、わからないからだ。まして投資先が「トルコ」であったりすると、目下躍動中というか変化の途上にある。儲けたいと思ってもいない。今の額を保持するだけのために、金融機関はあると考えている。
 
 まして自分が住んでいる建物のことだ。自分の寿命を超えて構想するには、子や孫という引継ぎ手がイメージされていなければならない。そうか、子や孫のことを算入すると、おおよそ百年をひとは考えて、先を見通すことをしなくてはならないか。そう言えば、百年の大計ということを教育を語るときの枕詞のように使っていた時代もあったなあ。じぶんの寿命を基準に考えるのは、私だけの偏狭な考え方なのだろうか。ひと世代30年というのが標準的な計算法だが、私の残り人生を考えてもせいぜい60年後をイメージする必要があるか。
 
 ともあれ遠隔地に住む私の子や孫は、当然ながら、(建物の)引き継ぎ手には入らない。とすると、私とカミサンの一代で始末を考えることになる。後は野となれ山となれとは思わないが、2033年には全国の家屋の1/3が空き家になるという人口統計の推算をみても(人口が集中する首都圏だから異なる見方も成り立つが)、スラムになるかどうかというモンダイは、都市計画にかかわる。そのために「都市計画税」というのも、長年収めてきている(と思っている)。ひとつの団地が自分の財産を処分する仕方として準備するのでいいのだろうか。
 
 ともあれ、「不確実性の時代」ということや「都市計画」のことなどを「専門委員会」で議論するようなことだとは思わない。でも、団地の居住者が、積立金を将来の備えて準備するということを判断するときには、じつはそういう時代の気風が影響を与えている。皆さんの先を見通す「眼力の及ぶ範囲」は(たぶん私同様に)寿命の程度に限られているのではなかろうか。その「論議することではない論題」と「しかし人々の判断に影響を与えている気風」とをどう組み込んで話をすすめて行けばいいか、思案している。人の感じている「リアリティ」と関わるのであろう。

怒り心頭に発するのは、なぜ?

2018-07-16 20:29:19 | 日記
 
 先日(7/13)のこの欄で、「法的言語のとげとげしさかご近所のよしみの柔らかさか」と、ベランダでの喫煙のことを記した。「訴え」があったこと、それに対して「知恵をお貸しください」と全理事にメールをした。その後日談。
 
 さっそく理事から返信が来た。ひとつは、喫煙派の方。

《おはようございます。/私は喫煙をしますので、耳の痛い話ですが、時代の流れでいずれこのような対応を取らなければならない時期が来ると感じていました。ルールをお決め頂ければそれに従いますので》

 ベランダでの喫煙は肩身が狭くなっていると感じているのだ。
 
 もう一つは、穏やかな「お願い」派の方々。
《こんばんは/喫煙の問題は難しいですね。/我が家では、亡くなった主人も息子たちも煙草を吸いません。ですから反対に煙草の匂いには敏感かもしれません。/就寝前に窓越しに煙草のにおいがしたら気になりますね。体調不良まではならないにしても、個人差がありますからなんとも言えませんが。ベランダは共用部分ですから、まずは、各階段の掲示板に、「ベランダでの喫煙についてお願い/季節柄窓を開けていらっしゃる住人の方へご配慮お願いいたします。吸い殻入れ等のベランダへの放置はご遠慮下さい」など、一例ですが掲示してはいかがでしょうか。/先日国会でも受動喫煙に関する法案が成立の見込みとのニュースを見たばかりでした。ひと昔前ホタル族と呼ばれていた方々に先ずは気づいていただけたらと思います。》

《ベランダでの喫煙の件、洗濯物へのにおい付き等の影響もありますが、私も禁止ではなく喫煙を控えていただくお願いがよいのではと思います》
 
 同じ敷地内なので、顔を合わせたときに同意の意を表明する方もいる。結局、13名の理事のうち11名が意思表明をしてくれた。そこで、階段掲示板に掲示するお願い分を作成し、各階段理事に掲出をお願いすることにした。文面は副理事長が検討してくれた。プリントアウトし、手分けして各階段理事に届ける。最後に行く理事のところだけ、副理事長にも同行願った。その理事のお宅がモンダイの喫煙家庭だからだ。傍らに居て様子を聞いていてもらうのが良いと、思ったからだ。その予感は当たった。
 
 インタホンを押して名を告げる。いつも理事会に顔を出すお父さんが出てきた。私より若い。70歳になったばかりくらいか。いきなり喧嘩腰だ。予め、ビラを階段掲示板に張っていただくよう手渡しに行きますと、メールをしていたからだ。
 
「タバコのことでしょ……。禁止なら禁止と初めから言ってりゃいいだよ。そうすりゃあこんな家は買わなかった。」
「いえいえ、禁止とかいうことではありませんから、ベランダでのたばこをご遠慮下さいとお願いしているのです。」
「法で禁止されているのか。」
「そうじゃありません。法も条例もありません。」
「裁判に訴えるからな。」
 
 聞く耳をもたないとは、こういうことか。そう思いながら、言いたいことは言いたい放題に聞いていて、私は悲しくなってしまった。とりあえず、「(階段理事ですので、階段の)掲示板に掲示するのをよろしくお願いします」と言って引き上げた。終始黙っていた副理事長は、「何で(一緒に)来てくれって言ったかわかりました」とポツリと感想を口にした。
 
 タバコを吸う人(の家族)は、彼のように社会的に追い詰められているのだ。やっと念願のマンションを手に入れた。五階建ての最上階の部屋。彼自身か彼の息子が吸っているのであろうか。若い息子だとすると、きっと彼は日頃会社でも、タバコが吸えずに窮屈な思いをして、やっとの思いで帰宅して来るのであろう。ベランダにいてタバコをくゆらせるのは、この上ない至福のときと感じていたにちがいない。「じぶんの部屋は煙草の臭いで汚したくないんですよ」と、ベランダで吸う人の身勝手を酷評する人もいる。それにしても今の時代、愛煙家には取り囲む視線が厳しい。その社会的圧力が「お父さん理事」の喧嘩腰のことばに噴き出したと、私は思った。
 
 法的な言語にばかり浸っていると、ごつごつとした肌触りの「禁止」ばかりが露出してくる。柔らかな「ご近所の誼(よしみ)」という、相対している相手の具体性を組み込んだ繊細な言葉のやりとりが消えていく。合理的な都市生活の要諦は、できるだけ私生活に触らないこと。触らないことはしかし、個々の人たちの具体性に気をつかわないことにもなるから、関わりがメカニカルになる。「合理性」のメカニズムに乗って、条例や法や「規約」の規定に従うように線引きが為される。「ご遠慮下さい」という「お願い」は、「禁止じゃないんでしょ」という言葉に蹴飛ばされる。
 
 従来の「ご近所の誼(よしみ)」という関係の結び方には、言いたいことも遠慮する響きがある。それを気遣いと言い、気遣いされていることを慮る(相手への)思いが、いわば贈与互恵のようにして、古い時代の日本社会の隣近所をかたちづくってきた。それが消えていくにしたがって、身体は贈与互恵の関係から脱していないのに、社会関係的にはメカニカルな習俗に馴染んでいるから、電車や街中で、始終ぶつかり合いが起こる。
 
 でもさ、今の国会の「論戦」などをみていると、法を犯していなけりゃいいんでしょという口調が、悪びれることなく政治家の口をついて出てくる。道徳や倫理など、どこかへ行ってしまった。皆さんトランプ張りに、自己利益ファーストを口にしてはばからない。そんな社会的気配というか、エートスが蔓延している。そうなると庶民のイライラも、持って行き様がなくなるわね。「誰でもよかった」という暴力の噴出も、案外、極まった社会の避けて通れない副産物かもしれない。
 
 それを一つの団地の管理組合に任されても、どうしようもないやね。でも、「ご近所の誼」を感じられるように、受動喫煙者にばかりではなく、喫煙者にも心配りをして手を打たねばならないと、私など非喫煙者も思うのだが、どんなものだろうか。

「A JAPANESE LIFE」

2018-07-14 16:32:10 | 日記
 
 『ゲッベルスと私』(オーストリア映画、2016年)を観た。監督は4人が名を連ねる。ドキュメンタリーとでも言おうか。ゲッベルスの秘書を務めていたブルンヒルデ・ポムゼルが80年近く前を想い起しながら坦々と語る。背がもう少し高ければ非の打ち所がない、演説の上手なゲッベルスに仕え、でもそれほどに彼の私生活に踏み込んだ様子が語りだされるわけでもない。そのところどころに、ナチスに熱狂していくドイツ民衆の様子、強制収容所に送られるユダヤ人を収めたフィルム、ヒトラーユーゲントが志願して出征する記念集会の模様、敗戦後に次々と暴かれる強制収容所におけるホロコーストの痕跡を明かすフィルムが差し挟まれ、彼女の語りがかぶさっていく。
 
 「運命というか、日々過ごしている場所が収容所のようなものね。誰も逃れられない」「与えられた役割を手落ちなく誠実にこなす。そう生きるのが義務だと思っていた」という言葉に、ナチスのナンバー2として宣伝相を担っていたゲッベルスの秘書であったという「加害感覚」はまったくない。「何も知らなかった。私に罪はない」とこの映画の宣伝チラシにとりだされた言葉は居直りというよりは、人として生きるナイーブさが(戦後75年を迎えようという今の時点から振り返ってだが)率直に映し出される。彼女はその言葉につづけて「国民みんなに罪があるということなら、私にもあるわ」という。彼女の幼馴染であるユダヤ人の女性がどうなったかを(戦後5年間のソ連での抑留生活が解けて後に)調べたことを話すとき、彼女のいう「罪」が「戦争責任」ではなく「ホロコースト」を指していると分かる。そうして私は、この映画の日本版を制作した人は、この映画の製作意図を(日本風に解釈して)誤解しているのではないか、と思った。
 
 この映画は、反語的につくられている。「何も知らなかった。私に罪はない」という言葉をピックアップするのは、ゲッベルスというナチス宣伝相の「戦争責任」へ目を向かわせる。だがそれにつづく言葉「国民みんなに罪があるということなら、私にもあるわ」に重心を置けば、ホロコーストに加担した、間違いなくドイツ人のエリート意識の根柢に流れる心性に光が当てられる。103歳のときにインタビューしたとされるポムゼルの口調は、しかし、ひるむことなく、確たる人生を歩いてきた確かさに充たされている。額や顎のしわ、唇に集まる皮膚の歳月を経て刻まれた深い溝は、(逃げも隠れもしない)まさにこれが「ドイツ人の人生」であったと言っている。
 
 そうして、気づいた。この映画の原題は「A GERMAN LIFE」である。なのになぜ「ゲッベルスと私」にしたのか。それを私は「誤解」と読んだ。ホロコーストは人間の心性の根柢にまで突き刺さる。ドイツ人の根っこにある志向のエリート性を揺さぶり、ユダヤ人を媒介にして具現化していった「あの戦争/ホロコースト」には「国民みんなに罪がある」と言わないで、何と言おうか。そうとらえてこそ、この映画の現在的な意味も浮かび上がる。「私にもあるわ」というポムゼルのいいぶりが、そこにおいてこそ生きてくる。オーストリア映画というのも(周縁であるからこそみてとることができたがゆえに)ドイツではつくり得なかったと思わせるし、4人の名を連ねる監督というのも、「ドイツ人の人生」というとらえ方をして、(それを)どうとらえるかは(観ている)あなた方のモンダイだぞと呼びかけているとみると、腑に落ちる。
 
 2時間に及ぶモノクロームの映像は、あたかも私たちの記憶を掘り起こしているかのようであった。そして、あらためて、A JAPANESE LIFE として、ポムゼルより1年早くうまれ、ポムゼルがインタビューを受けた年に亡くなった私の母親の人生を「あの戦争」と絡めてとらえ返すとどうなるだろうと思った。

法的言語のとげとげしさかご近所のよしみの柔らかさか

2018-07-13 09:05:19 | 日記
 
 山から帰ってきた一昨日の夜、「日報回覧」が副理事長からまわってきた。そのなかに私の名前を記したチラシが入っている。「バルコニー、ルーフバルコニー、テラス、専用庭での喫煙はお止めください。」と大文字で大書した表題。その下に5点「バルコニー等での喫煙により、タバコの煙・臭いが住戸へ進級したり、洗濯物に付着する臭い、灰等で被害を受けている住民がいること。」という調子の「受動喫煙被害」を受けている人がいることを記している。宛先は「団地居住者の皆さまへ」。
 
 なんとも権柄づくな文面に驚く。「階段掲示参考文」と鉛筆書きの付箋がついている。さらに「マンション居住の愛煙家へ/マンションでの喫煙トラブルを避けるには?」と表題するブログのコピー4ページ、「ベランダでの喫煙に対し、損害賠償命令が出された事例/名古屋地方裁判所……」という判例の掲載ブログ3ページ、「使用細則でバルコニーでの喫煙禁止を定めることの可否」についての弁護士事務所のホームページの抜粋6ページが「参考」という鉛筆書きの付箋をつけて添えられている。つまり今団地の理事長を務める私に、団地管理者として「受動喫煙防止」に手を尽くしなさいと要求しているとみえる。
 
 率直なところ、もう半世紀も前に止めたタバコであるが、吸っている人への世間の風当たりの強さに「判官びいき」気味になっている私。煙やにおいにいやな思いもするが、その私でさえ、こんな権柄づくな文言で「注意」を受けたら、意地でもやめるものかと思ってしまう。国会で「受動喫煙」に関する法律の改正が審議されている風潮に乗っかって、(やっと口にすることができるようになった)と思っているのか。それにしても、これらのことばのとげとげしさに、たじろいでしまう。まったく喫煙は犯罪といわんばかりの扱いだ。
 
 とはいえ今、私が片言隻句にとらわれて放っておくわけにもいくまい。まず、区役所に行って「条例や法の現在」がどうなっているかを訊いてくることにした。区役所の総務課は、至極丁寧。応対してくれたのはまだ新米かと思われる若い職員。でも全体に暇なのか、相談する私のことばに聞き耳を立てて脇から先輩職員らしいのが「資料」を次々と手渡す。「2003年の健康増進法」、市の「受動喫煙と空き缶のポイ捨てに関する条例」遂には、今国会で審議されている「健康増進法の改正案(受動喫煙防止)」がプリントされてきて、「集合住宅などへの規制はない」という結論。礼を言い「資料」をもらって帰ってくる。要するに、「法的に規制する」というのではなく、近隣のよしみでベランダでの喫煙をやめてもらうという方向をとりたいのだ。だからここでは、「(目下のわが地域では)法的に規制は取れない」と分かれば、それでよい。
 
 訴えを持ってきた住戸の方に、詳しい事情を聴けないかと電話をする。もちろんOK。副理事長にも同席してもらって、管理事務所で話を聞く。奥方が出て来られ、昨年の、窓を開けて夜を過ごすことが多くなってから、タバコに悩まされてきた。その前年に越してきた方がベランダで吸っているからと分かったのは、しばらく後のこと。ご近所の話しでそのお隣さんもベランダに置いてある灰皿の強烈なにおいに辟易してきたと分かって、どこのお家が吸っているとはっきりした。ことに今年のW杯のベルギー戦のときには深夜(というか早朝)までたばこのにおいが絶えず、眠れない夜を過ごした。奥方は昨年身体を壊して入院手術もしており、よけい嫌な臭いに苦しめられてきたと話す。これを聞いていて、ご亭主が(我がことでないだけに)怒り心頭に発してあの文面をつくったに違いないと思った。ご亭主は、直にやめるよう話に行ってもいい、と言っているそうだ。
 
 奥方はそれを聞いて(それはやめてください角が立つから)と止めているというが、私は、むしろ直に話をするようにした方が「よしみ」がよく伝わると、ふと思う。直に話をすると(人にもよるが)、とげとげしく話すわけにはいかない。ご機嫌を伺いながら、相手をみながら言葉を繰り出すようになる。自ずから柔らかくなると(私は)おもっている。法律や条例など、外部的な規制に依存して結ばれる「かんけい」は、相手の様子を勘案しない。いつも夜になってタバコを吸うのは(職場では据えないから)、夜遅くまで働いて帰宅した若いご主人のリラックスタイムなのであろう。それくらい許してあげなさいよと(他人事だから)思わないでもない。だが他方で、その若い人は、階下の住民が身体を壊して手術し臥せっていることなど知りもしない。まして煙草の煙が重力にしたがって、風に揺られて隣や階下の家を直撃しているなどと思いもよらないのだろう。それくらい私たち団地の住民は、隣近所と切れて(それだけに清々しく)暮らしているのだ。
 
 そういう「かんけい」を共同性と呼ぶのであろう。それを少しでも取り戻して、私たちの地域のことは私たちで取り仕切るという気風をつくりたい。そう私は思っているし、今年の理事たちや自治会役員たち(この前者と後者は重なって同一メンバー)は、そう思っているようにみえる。
 
 そういうわけで、まず昨日理事たちに「知恵を貸してください」とメールを打った。

《……昨日(7/11)管理事務所に「バルコニーにて煙草を吸う人がいて、煙り・臭いが部屋に入ってくるなど、非常に困っている。禁じるよう掲示をしてほしい」との訴えが提出されました。/事情を聴いてみると、ご近所のどこかから煙草の煙が漂ってきて、身体の調子が狂いかねないほどダメージを受けているというお話しでした。事のはじまりは昨年、窓を開けて寝るようになってから。ちょうど床に就く時間になると煙草の煙りと臭いがただよってきて、眠れないこともあったようです。これまでは我慢してきたけれども、そろそろ限界、ということでした。/暑い夏を迎え、窓を開けて寝るご家庭も多くなります。バルコニー(ベランダ)で煙草を吸う方ご自身は、たぶんお気づきになっていないと思いますが、煙草の煙やにおいだけでなく、吸い殻の残る灰皿の臭いなども、吸わない人には強烈な刺激をともなってやってきて、「襲い掛かるように」感じられるものです。/お部屋で吸う分にあれこれ言うものではありませんが、バルコニー(ベランダ)での喫煙は、お控えくださるようお願いします。/訴えてお出での方は、名古屋地裁での受動喫煙への補償判決や今国会の「健康増進法の一部改正に関する法律」(受動喫煙の飲食店などでの禁止措置)の成立など、法的な制約を背景に「ベランダでの喫煙禁止」を当団地でも実施するようにお考えのようです。が、法的な制約によるというよりは、「ご近所(付き合い)のよしみ」で収めるようにしてもらえれば、それが一番いいのではないかと私は考えました。/来月の「理事会」を待っていては、半月以上もこの事態が放置されることになりますので、それ以前にどうすればいいか、皆さんのお知恵を拝借したく思います。来週には何らかの措置をとりたいと思います。今週末くらいまでにご意見をお寄せください。》
 
 さてこれに対してどのような「知恵」が出してもらえるか。面白くなってきたなあと思いながら、返信メールを心待ちにしている。