mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

怒り心頭に発するのは、なぜ?

2018-07-16 20:29:19 | 日記
 
 先日(7/13)のこの欄で、「法的言語のとげとげしさかご近所のよしみの柔らかさか」と、ベランダでの喫煙のことを記した。「訴え」があったこと、それに対して「知恵をお貸しください」と全理事にメールをした。その後日談。
 
 さっそく理事から返信が来た。ひとつは、喫煙派の方。

《おはようございます。/私は喫煙をしますので、耳の痛い話ですが、時代の流れでいずれこのような対応を取らなければならない時期が来ると感じていました。ルールをお決め頂ければそれに従いますので》

 ベランダでの喫煙は肩身が狭くなっていると感じているのだ。
 
 もう一つは、穏やかな「お願い」派の方々。
《こんばんは/喫煙の問題は難しいですね。/我が家では、亡くなった主人も息子たちも煙草を吸いません。ですから反対に煙草の匂いには敏感かもしれません。/就寝前に窓越しに煙草のにおいがしたら気になりますね。体調不良まではならないにしても、個人差がありますからなんとも言えませんが。ベランダは共用部分ですから、まずは、各階段の掲示板に、「ベランダでの喫煙についてお願い/季節柄窓を開けていらっしゃる住人の方へご配慮お願いいたします。吸い殻入れ等のベランダへの放置はご遠慮下さい」など、一例ですが掲示してはいかがでしょうか。/先日国会でも受動喫煙に関する法案が成立の見込みとのニュースを見たばかりでした。ひと昔前ホタル族と呼ばれていた方々に先ずは気づいていただけたらと思います。》

《ベランダでの喫煙の件、洗濯物へのにおい付き等の影響もありますが、私も禁止ではなく喫煙を控えていただくお願いがよいのではと思います》
 
 同じ敷地内なので、顔を合わせたときに同意の意を表明する方もいる。結局、13名の理事のうち11名が意思表明をしてくれた。そこで、階段掲示板に掲示するお願い分を作成し、各階段理事に掲出をお願いすることにした。文面は副理事長が検討してくれた。プリントアウトし、手分けして各階段理事に届ける。最後に行く理事のところだけ、副理事長にも同行願った。その理事のお宅がモンダイの喫煙家庭だからだ。傍らに居て様子を聞いていてもらうのが良いと、思ったからだ。その予感は当たった。
 
 インタホンを押して名を告げる。いつも理事会に顔を出すお父さんが出てきた。私より若い。70歳になったばかりくらいか。いきなり喧嘩腰だ。予め、ビラを階段掲示板に張っていただくよう手渡しに行きますと、メールをしていたからだ。
 
「タバコのことでしょ……。禁止なら禁止と初めから言ってりゃいいだよ。そうすりゃあこんな家は買わなかった。」
「いえいえ、禁止とかいうことではありませんから、ベランダでのたばこをご遠慮下さいとお願いしているのです。」
「法で禁止されているのか。」
「そうじゃありません。法も条例もありません。」
「裁判に訴えるからな。」
 
 聞く耳をもたないとは、こういうことか。そう思いながら、言いたいことは言いたい放題に聞いていて、私は悲しくなってしまった。とりあえず、「(階段理事ですので、階段の)掲示板に掲示するのをよろしくお願いします」と言って引き上げた。終始黙っていた副理事長は、「何で(一緒に)来てくれって言ったかわかりました」とポツリと感想を口にした。
 
 タバコを吸う人(の家族)は、彼のように社会的に追い詰められているのだ。やっと念願のマンションを手に入れた。五階建ての最上階の部屋。彼自身か彼の息子が吸っているのであろうか。若い息子だとすると、きっと彼は日頃会社でも、タバコが吸えずに窮屈な思いをして、やっとの思いで帰宅して来るのであろう。ベランダにいてタバコをくゆらせるのは、この上ない至福のときと感じていたにちがいない。「じぶんの部屋は煙草の臭いで汚したくないんですよ」と、ベランダで吸う人の身勝手を酷評する人もいる。それにしても今の時代、愛煙家には取り囲む視線が厳しい。その社会的圧力が「お父さん理事」の喧嘩腰のことばに噴き出したと、私は思った。
 
 法的な言語にばかり浸っていると、ごつごつとした肌触りの「禁止」ばかりが露出してくる。柔らかな「ご近所の誼(よしみ)」という、相対している相手の具体性を組み込んだ繊細な言葉のやりとりが消えていく。合理的な都市生活の要諦は、できるだけ私生活に触らないこと。触らないことはしかし、個々の人たちの具体性に気をつかわないことにもなるから、関わりがメカニカルになる。「合理性」のメカニズムに乗って、条例や法や「規約」の規定に従うように線引きが為される。「ご遠慮下さい」という「お願い」は、「禁止じゃないんでしょ」という言葉に蹴飛ばされる。
 
 従来の「ご近所の誼(よしみ)」という関係の結び方には、言いたいことも遠慮する響きがある。それを気遣いと言い、気遣いされていることを慮る(相手への)思いが、いわば贈与互恵のようにして、古い時代の日本社会の隣近所をかたちづくってきた。それが消えていくにしたがって、身体は贈与互恵の関係から脱していないのに、社会関係的にはメカニカルな習俗に馴染んでいるから、電車や街中で、始終ぶつかり合いが起こる。
 
 でもさ、今の国会の「論戦」などをみていると、法を犯していなけりゃいいんでしょという口調が、悪びれることなく政治家の口をついて出てくる。道徳や倫理など、どこかへ行ってしまった。皆さんトランプ張りに、自己利益ファーストを口にしてはばからない。そんな社会的気配というか、エートスが蔓延している。そうなると庶民のイライラも、持って行き様がなくなるわね。「誰でもよかった」という暴力の噴出も、案外、極まった社会の避けて通れない副産物かもしれない。
 
 それを一つの団地の管理組合に任されても、どうしようもないやね。でも、「ご近所の誼」を感じられるように、受動喫煙者にばかりではなく、喫煙者にも心配りをして手を打たねばならないと、私など非喫煙者も思うのだが、どんなものだろうか。