mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

静かな山、温泉岳・根名草山

2018-07-12 09:25:20 | 日記
 
 気温の高温注意報が出ていた昨日朝6時に家を出て、金精峠から温泉岳と根名草山に登って来た。山は涼しい。半袖インナーの上に長袖のTシャツ一枚で歩きはじめるときは、ちょっと寒いかなと思うほど。金精道路の栃木県から群馬県へ抜けるトンネルのすぐ手前の駐車場に車を入れる。すでに10台ほどが止まっている。山の標高は2300m余。これだけで平地より12度以上気温は下がる。
 
 いきなりの急傾斜。金精山への分岐までの標高差200mが、今日一番の上り下り。登山道はこのところの雨の流路になったのであろう、ざらざらの小石が歩きにくい。一部の急峻な沢は大きく崩れ、新しい踏み跡が上へとつくられている。丸太の階段が崩れ落ちてゆがみしゃくる。ササが刈り取られたところに来て初めて、道の手入れが為されているとわかる。金精峠というのは、じつはこの上部の分岐の名称である。西へ向かえば金精山を越えて日光白根山に至る。東へ向かうと温泉岳や根名草山へ連なる。つまりこの峠が栃木県と群馬県の県境を区切る。峠から北へ下ると菅沼。白根山への登山口がある。南を振り返ると、湯の湖や男体山が明るい陽ざしを受けてどっしりと腰を据える。下の駐車場にあった10台の車の人たちは白根山へ向かったのか根名草山へ歩いたのか。白根山の方は、上部に黒っぽい雲がかかって、南部と全く違う様子に見える。
 
 東の稜線へ踏み出す。樹林の中。コメツガの林にナナカマドやツツジの落葉樹が間を埋め、鬱蒼としている。、シャクナゲの薄赤っぽく咲き始めたのやくっきりと白い花が咲き誇っている。ところどころ崖になるところで南の見晴らしがよくなる。40分ほどで温泉岳山頂への分岐。15分の往復をする。じつはこの山頂が2332mと今日の踏路の最高点だ。南には切込湖刈込湖が下方に見えその向こうに太郎山と小真名子山大真名子山が立ちはだかり、太郎山の山頂部から頭をのぞかせるように女峰山の頂が頭をみせている。男体山は右の樹林に半分姿を隠している。北をみるとこれから向かう根名草山が彼方に峰を高め、その手前に念仏平の避難小屋が樹林に取り囲まれて姿を見せている。
 
 分岐に戻り温泉岳の山体の南側を巻くようにトラバースする。踏みつけられた篠竹がすべりやすく、注意してすすむ。ここのササは昨年かられたのであろうか、すでに葉は枯れて散り敷いている。ひとたび下って沢を渡り、ここにかつて念仏平避難小屋があったとわかる。「最後の水場」とあるのは、この先15分ほどのところにある念仏避難小屋に止まる人のことを考えてのことであろう。このルートを先へ延ばすと、日光沢温泉の近くを経て奥鬼怒沼を通り尾瀬の大清水へ抜ける縦走路になる。一日では踏破できないから、ここで泊まるのであろう。念仏平の避難小屋は気配が新しい。西側にはテーブルやベンチが設えられて、樹林の中の休息所の感がある。その先はまた上りになり、近づいてみると、ひと山区切って根名草山が単独峰のように高みをみせる。向こうからチリンチリンというクマスズの音が聞こえる。一組の若いペアがやってくる。「うわあ、驚いた」と私をみて先頭の女性が声をたてる。「熊だと思ったんでしょう」と応じる。「誰か追い越しませんでしたか」と聞く。いえ誰も、と応えると、彼らは6時半に金精峠駐車場に車を置いて一人追い越した。その人は引き返したのかなあとつぶやく。男性が「何時に出たんですか」と聞くから8時15分頃と応えて、そう言えば彼らの歩きは、昭文社の地図のコースタイム通りなのかなと思った。たぶん山頂から引き返したとみると、私との間が1時間ほどになっている。でも私は、コースタイムで歩いている(と思っている)から、この差がとても不自然に思える。彼らは山頂で日光沢の方から登って来た一組と出逢っている。その人たちは出発点へ戻っていったそうだから、今日のこの山は都合三組だけとなる。「独り占めですよ」と言われて別れた。
 
 山頂は少し広いが、南方向への見晴らししか眺望は利かない。11時15分。出発してから3時間。昭文社の地図では3時間55分のコースタイム。だが、YAMAPでは、2時間45分。この違いは何だ。じっさいに歩いてみると、YAMAPの念仏平の沢から避難小屋までの「5分」というのが、15分かかるから、私はほぼコースタイムで歩いている、とおもっていた。かなりテキトーな時間設定だが、これはちょっと記憶にとどめておく必要がありそうだ。腰掛けてお昼にする。寒く感じたので、ウィンドブレーカーを出して羽織る。風はない。20分ほど過ごして戻ることにした。
 
 変化に富んでいるというより雨で道が崩れているのが変化になっている。おおむね行きも帰りも温泉岳の分岐までは同タイムだ。シャクナゲばかりでなく、ナナカマドの白い花びらが地に落ちていて、見上げるとまだ花を残した大きな木が頭上にあった。また足元の小さい赤い花びら散り敷いてドウダンツツジだとわかる。キバナノコマノツメの黄色が鮮やかだ。ゴゼンタチバナの白い花びらも輪郭をくっきりとして自己主張している。コバイケイソウがもう少しで開花になりそうな花芽をいくつも頭につけて背伸びしている。いい季節だ。帰り道の方がシャクナゲが鮮やかでたくさんあるように見える。葉の裏を見るとアズマシャクナゲかハクサンシャクナゲかわかるというが、白っぽくないほうがどちらであったか、忘れてしまった。
 
 こうして金精峠の白根山との分岐についたとき、チリンチリンとクマスズの音が下の方から聞こえてくる。先ほどすれ違ったペアに追いついたのかもしれない。昭文社の地図の方が山慣れない人たちには適切なのかもしれないと思った。今日一番の危ない下りを、チリンチリンに決して追いつかないように、ゆっくりと降りる。駐車場には1時50分。歩き始めて5時間35分。ちょうど一台の車が発車するところであった。今日のコースは7時間10分と考えていたから、3時半ころ下山と言っていたのに、歩行は5時間15分。ま、早くて文句を言うわけではない。4時半ころには帰宅していた。

私的感懐という「せかい」の山

2018-07-12 06:10:32 | 日記
 一年前の記事が送られてきて、そうか、こんなことを書いていたかと振り返っている。これに気づいていれば、4月にまとめた「孫たちと爺婆の二十年」に掲載したのにと、いまさらながら思う。すっかり忘れていたのだ。この角度から切り取ると、人がいかにして人になり、「せかい」を身につけて歳をとるかと、まとめることができる。もちろん一般的にはそういうふうにまとめた方が私の「世界観」が浮き彫りになる。でもそういうふうに、屋上屋を重ねることが世の中に意味があるとも思えない。もしまとめるとしたら、「私的感懐」として上梓することになろう。昨日ひとつ山を歩いてきたが、私的感懐という世界の山を年寄りは歩いてきているのだと、記しおくのも悪くはないか。そんなことを、いま思った。
 
「時の密度」が薄くなるということ

  歳をとると時が早く過ぎると思う。私は一年の長さが年齢分の一で過ぎ去ると考えてきた。ふとある時、それを逆の方、つまり暮らしにおける「時の密度」として考えると、私たち年寄りは年......