mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

利尻島・礼文島――寒い! ホッカイドーですから

2018-07-08 14:36:16 | 日記
 
 稚内の街が、案外大きいのに驚いた。どのくらいの人口だろう。帰ってきて調べたら、35,000人ほど。それにしては広い面積とほどよい高さの丘を背にめぐらして、北に宗谷湾が海を抱え込むように開け、高いビルも立ち並んでいる。その西端の突先がノシャップ岬、東端の突先が宗谷岬、北海道最北端の地になる。稚内空港は宗谷湾の少し宗谷岬寄りにあり、賑やかな街並みやJR稚内駅や船の出るフェリーターミナルはノシャップに近い方に位置している。こちらがそうだからそう見えるのかもしれないが、観光客が多い。
 
 稚内から利尻島への船便は一日3便。同じく礼文島へも3便あり、それとは別に利尻島と礼文島を結ぶ船便が、やはり一日3便ある。距離が20kmほどと近いせいもあろうが、交通は盛んと言える。船はノシャップ岬を大きく回り込んで、西に位置する利尻島を目指す。すっきりと屹立する利尻岳が見え、段々と近づいてくる。山腹の上部には雪がついている。険しさは思った以上にみえる。夕方6時を過ぎて港に到着。民宿・花りしりの若いご主人が大きいバンで迎えてくれた。島中央の利尻岳が海に流れ込む裾野の平地に棲みついている民家は、小さな集落に別れ散らばっている。そのため、宿の車で送り迎えするサービスがとてもありがたかった。登山口まで、港まで、温泉まで、レンタカー屋までと、こちらの行動予定を聞いて、送り迎えをしてくれた。
 
 山歩きのベースにと宿をとる私としては、あまり宿の良しあしについて考えたことはないのだが、この「花りしり」は、民宿としては上等の部類ではないかと思った。建物はよく整備され、ペンションとでもいうようにきれいだった。食事は、驚くほど手をかけ、12品が並ぶ夕食は(お酒を飲んだこともあるが)海のない県に住む私たちにとっては、新鮮そのものの味わいを堪能させてもらった。車での送迎中の老主人の山歩きに関するアドバイスやレンタカーを運転するときに配慮することの若主人の言葉は、島人の暮らしをほうふつとさせて、うれしかった。もしまた訪れることがあれば泊まりたいと思う宿であった。
 
 二日目は一日、雨。レンタカーを借りて、島内を観光巡り。パンフレットにある名所を訪れて、島をひとめぐりする。このとき「利尻島郷土資料館」と「利尻町立博物館」と二つあって、この小さな島が利尻町と利尻富士町の、二つの行政区に別れていることに気づいた。どちらもおおよそ2700人ほどの人口を抱える。もともと一つだったのではなく、利尻町と利尻東町に別れていて、東町が利尻富士町と名前を変えたという。なぜ合併しないのかは(今年4月にこちらに来たから)わからない、と、「利尻町立博物館」の受付嬢は話す。「平成の大合併」の折も、そういう話がすすまなかったところをみると、外からは見えない集落の長い関わり合いの「蓄積」があるのであろう。「利尻島郷土資料館」では(私にとっては)懐かしい出会いがあった。ロナルド・マグドナルド、森山栄之助、松浦武四郎。前二者は、幕末、利尻島に漂着を装って上陸したアメリカ人・マグドナルドが長崎に送られ、そこで(オランダ語なまりの英語をつかって)通詞を務めていた森山と出逢い、彼に(アメリカ風の)英語を教え、森山はペリーが来たときに(身分は)通詞としてながら、事実上外交官として活躍したという話を読んだことがあった。後者は、やはり幕末の伊勢に生まれた下級藩士の次男坊であったか、全国を放浪し、各地の山を歩き、ついには蝦夷地に赴いてアイヌの文化を吸収し、記録をとり、当時の松前藩の乱暴な蝦夷地統治を非難する建言を幾度も行っていたという傑出した人物。山の縁で名を知り、彼の記した「蝦夷日誌」を図書館で見つけて読んだこともあった。この二つの「資料館」と「博物館」はやはりニシン漁など、昔の暮らしぶりについては「資料」を集めて興味深いところもあったが、地質学的に利尻島の成り立ちや利尻岳の構造に触れた展示記述はなく、ちょっと残念に思った。
 
 天気が良ければ利尻岳が湖面に写る姫沼やオタトマリ沼、花の綺麗な沼原湿原、沓形岬のウミネコやアシカ、富士野園地の雨の「夕日が見える丘」など、雲に覆われて姿を見せない利尻岳の山麓をひとめぐり60km、4時間のドライブ、8000歩ほどの行程は、なかなか今の感触を体感する面白さがあった。そうそう、最後の富士野園地の展望台の木柵に「日本百名山ひと筆書き 全山登頂達成記念 208日11時間 田中陽希」と本人自筆署名の小さな表示板が掛けてあった。そのつつましさと言い、ザックを背負った彼の上半身のイラストと言い、そうだ明日登らにゃならんなと思わせる気配に満ちていた。そうして、昨日のこの欄で記したように、往復9時間の利尻岳登頂を果たしたのであった。
 
 船の乗客をみていると、町は観光客でにぎわっているはずだが、そう感じさせない。大きなホテルも何軒かあり、民宿やペンションが名を連ねる。レンタカー屋も数件あり、予約をしていなかった私たちは一番安い車両を借りることができなかった。ところが港の食堂は2軒だけ、土産物もレンタカー屋が兼ねていたりする。地元産の昆布などを少し並べていて、商売気がないといおうか、田舎の小間物屋風。良ければどうぞというようであった。
 
 三日目、利尻岳の登頂を果たして温泉に汗を流した私たちは、15時過ぎの船で礼文島に渡った。海からみると島は平均標高200メートルほどの平らな丘。島の南北はおおよそ13km、東西は2,3kmしかない細長い島。海から起ちあがって急に小高くなるから人々は海際の平地にしがみつくように暮らしている。港について最初に目に入ったポスターが面白かった。「隣の島も礼文島の自慢です」と中央に書き記した背景には、雪で真っ白になった利尻岳とその前の海を航行する礼文を行き来するフェリーが大写しになっている。今山から下りて来たばかりの私たちにとって、振り返ってみることのできる絶好の展望地がここであったと気づかせてくれる。
 
 香深港には民宿の主人が出迎えてくれ、礼文島の南端に近いところ、「知床」にある宿へ向かう。「知床」というのは地の果てという意味だと、ここの主人に聞いて知った。アイヌ語なのであろうか。港のカフカというのも、面白い名前だ。礼文島は利尻島と違って港周辺に集落が固まっているせいか、にぎやか。しかし数百メートル走ると、道路は一車線になり、すれ違うのも大変になる。島を周回する道路は、ない。
 
 道を挟んですぐ海になる民宿は、寒かった。島の気温は10度と「天気予報」でみていたが、強い風が吹きつけて体感温度は5℃以下に感じる。部屋のサッシの窓ひとつで逆巻く海と隔てられ、ぴゅーぴゅーと音がする。建てつけもそうよくない。寒いねえというと、ホッカイドーですからと宿の主人は笑って答える。40歳前後の宿の主人夫婦は、しかし、とても礼文島に惚れこんでいる気配に満ちていた。宿の壁には写真展のギャラリーのように礼文島の風景と花の写真が、所狭しと飾られている。その何枚かは、「****所沢市」というふうに撮影者の名前が記してある。ということは、名のない写真は全て主人風のものか。あとで分かったが、奥さんは前橋の方。この地に観光でやってきてご主人と出会い、結婚してここに住まうようになったという。尋ねると、部屋に置いてある礼文島案内の冊子の写真と説明文は、ぜんぶご主人の手によるものだと付け加えた。彼はネイチャーガイドの専門家のようだ。山にも詳しい。
 
 ここも14人ほどが泊まっていると夕食のときにわかるのだが、そのような気配を感じさせない。皆さん年配者だ。利尻登頂の疲れもあってか部屋が寒いからか、kwrさんは夕食までの間、布団に入ってひと眠りした。だが廊下に出てみると、石油ストーブがたかれていて暖かい。ホッとする。外はますます荒れてくる。宿の主人は「もし(お客さんが)一泊なら、来島を中止したほうが良いとお知らせしていたところだ」という。明日は出航が中止になるとみているようだ。
 
 翌朝、風は吹き止まない。だがこの宿にじっとしていては何をしに礼文島に来たのかわからない。初めは、バスで登山口に向かい礼文岳を往復し、またバスで香深港に戻って桃岩コースを歩いて宿へ戻ると考えていた。だが標高490mとは言え突出する礼文岳に吹く風は尋常ではない、十分注意をとご主人。そこで「桃岩コース」を宿から歩き始め、元地灯台を経て桃岩へ抜け、香深港へ下ることにした。おおよそ4時間ほどか。お昼頃港に降りてお昼にし、温泉に浸かってタクシーで帰ってこようという算段をした。8時、歩きはじめる。ところが、海からの風と一緒に波しぶきが降りかかる。ときどき体が左へ押し寄せられる。バランスに気を配っていないと、転げてしまいそうになる。登山口に着いた。そこへ大きな車がやってきて声をかける。宿の主人が「温泉の割引券」を持ってきてくれたのだ。いやはや、ありがたい。
 
 草付きの斜面を脇にみながら上がる少し広い砂利道を辿る。標高50mほど登ると、緩やかに200m程へと向かう草地に地面が剥き出した踏路を踏む。チシマフウロがある。オオハナウドの花芽が背の高い茎のてっぺんに大きなこぶをつくって目に止まる。その先には、すでに花をつけたそれらが満開であったり五分咲きであったりして立ち並ぶ。イブキトラノオが並んで花をつけている。この青いのはイワギキョウではないか。一輪だけハクサンチドリがある。黄色いのはキバナノコマノツメだ。エゾカンゾウのオレンジ色が草の緑の中で異彩を放つ。こちらの黄色いのは葉のかたちからするとエゾノリュウキンカだろう。紫のミヤマオダマキが4輪花をつけて萎れかけている。おっ、こっちのオダマキは今が盛りか、勢いがあって綺麗だ。そう花を楽しんでいる間にも、風は強まる。灯台が見えた。先頭を歩くkwrさんの身体が斜めに傾ぐ。倒れないように踏ん張りながら、こちらを見て、「これ以上はだめだね。帰ろうよ」と声を上げる。彼は今度の旅のカナリアだ。彼の安全/危険感覚が私たちの行動の基準でもある。一番後ろを歩いていた私も「では、引き返しましょう」と呼びかける。灯台の向こうから大きく90度曲がった道が、西側の崖沿いに北へとつづいているのが見える。stさんにそれを指さして、あそこはもっと風が強そうだね、と話す。
 
 こうしていま45分ほどかけて登って来た道を引き返す。登り近く口に来ると、「←北のカナリヤ 0.6km」と標識が出ている。「そちらへ行こう」と草叢の中へ踏み込み、小さな沢を渡る。私たちが上からみて「学校」と思っていたのは違っていた。その前を通り、広い二車線道路に出て登っていくと右側に海がみえ、前方に建物が現れた。「北のカナリア」という映画のロケ地になったところ。離島の小学校の校舎が建てられ、そこを舞台として育った子どもたちが青年になって、それぞれの人生を歩く姿を描いた映画らしい。「映画見た?」とstさんに聞かれたが、観たような観てないような気がして、応えられない。後者の中に入って観たことが分かる。吉永小百合がこの小学校に赴任してきた教師役。誰だったか警察に追われる教え子をかくまう物語であったか。ストーリーは霧の中だ。映画の撮影を追ったドキュメンタリー風のTV画像が流されている。島民挙げてのエキストラだったようだし、雪かきなども大変だったようだ。積雪量は1メートル半にもなるようだ。礼文島の景観のいいところをしっかりと映画には取り込んでいる。それが、小学校の校舎とすぐ東側の海とその向こうにくっきりと浮かぶ利尻岳がポスターに取り込まれている。そうか、これだ、「隣の島も礼文島の自慢です」というのは。得心の行く景観のはずだが、生憎今日は、雲の中。強い風が吹きつける。
 
 その後者の入口にエントランスの建物があり、休憩舎になっている。200円でドリップコーヒーを頂戴でき、自分で淹れる。このコーヒーがおいしかった。強い風を避け、暖かいコーヒーをいただいて、しばらく休む。「どこへ?」と売り子のおばさんに聞かれ、「港へ」と応えると「あと3分でバスが来るよ」という。乗ろうと、外へ出たらkwmさんのザックカバーが風に飛ばされて駐車場を南へと走っていく。彼女は慌てて後を追うが、ウサギとカメの競争のように逃げ足が速い。とうとう百メートル先の草地にまで行ってしまった。バスはやってきて、kwmさんの戻って来るのを待つ。何しろ乗客は私たちしかいないのだ。(つづく)