mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「家族」はつまらないか

2015-05-17 17:47:02 | 日記

 下重暁子の『家族という病』が売れているそうだ。私はまだ読んでいない。今日の朝日新聞に佐々木俊尚が「浮かび上がる共同体の変質」と題して、書評を書いている。それを読んでいて、ひとつ気になったことがある。

 

 《内容はかなり過激だ》と刺激的に始まる。さすが、幻冬舎新書だ。そういう造りの本でうっているのだから、「過激」と持ち上げられると喜ぶだろう。

 

 「家族のことしか話題の無い人はつまらない」と書いてあるそうだ。下重さんがどういう場面で、どういう人とどのような「話題」を想定しているのかわからないから、そう言われるとなるほどそうかとも思う。「家族のことしか話題の無い人」という想定自体が、すごいじゃないか。目下子育て真っ最中の人たちばかりが集まったら、ひょっとしたらこんな場面が生まれるかもしれない。でも、それは、「つまらない」と言えるか?

 

 「家族しか話題の無い人」から「自慢話か愚痴か不満」を聞かされるのは「つまらない」というのは、その人の日々の振る舞いが「家族とのかかわり」で精一杯であって、それ以外に考えられないくらいほど、「家族」に満たされている最中なのかもしれない。あるいは、「家族とのかかわり」がこれまで、その人のアイデンティティであって、それを誇りとしてきた。でもふと立ち止まって考えてみると、そんな人生でいいのかと不安にもなる。その不安は、「家族という病」にとりつかれているからなのか。子育てなんかほっぽりだしてプチ家出をしてみたというような短編小説を井上荒野が書いていたが(「ガラスの学校」)、「自慢話か愚痴か不満」をその次元だけで「付き合っているから」つまらないのであって、角度を変えて対象化してみれば(その話は)、我が身の写し絵のように思えて、身につまされないか。

 

 子どもを思い通りに育て上げてみれば、彼ら彼女らはいずれ巣立って、親元から離れて行ってしまう。亭主は子育てを任せっきりにして、仕事一筋。どう考えても、そちらの方が世間的な評価は高いようにも見える。そういう「家族」をやってきた中高年が、私には何も社会的に価値あることが身についていないと、振り返ることもあるだろう。そうして、と、「家族」は幻想だと思ったとして、それは「家族という病」なのか。

 

 「家族という枠組み」にとらわれないで、《友情などから始まる血縁に囚われない新しい家族像についても描いている……無縁からでもスタートする新しい小規模共同体の時代がやってくるのかもしれない》と書評は結んでいる。

 

 おいおい、子どもは「無縁からスタート」するわけにはいかないじゃないか。そもそも家族が、文化の身体的継承を(子育てという)共同生活の中で行っていること自体を棚上げして、「家族は幻想」と断定し排除してしまうっていうのは、成人してからのことだろう。そりゃ、一人前になって親元から自律してしまえば、「家族」という幻想に唾をひっかけようと砂をかけようと構いはしないが、《家族というものの幻想をこれでもかと暴き立てる本書》は、自分は全き独立した個人であることを前提としているのであろう。だが、突然、社会に独立した個人が登場してくるわけではない。ご自分の由来を忘れたわけでもあるまい。

 

 もちろんある朝、社会全体が「家族」を単位とする「幻想」から目が覚めて、自分たちで「かかわりあって」暮らし始めるというSFを描きたいのなら、それはそれで面白い。あるいはもう死語になっている「家族制度」を対象化してみたり、現に進行中の「家族の変容」を批判的にとらえることには有効な場面もあるだろう。だが、佐々木さんのように、今家族がしていることを棚上げして、「過激」と持ち上げるのでは何も生み出さない。

 

 下重さんは、どのような視座を据えて「家族」に切り込んでいるのか。読んでみなきゃならないのかな、と私に思わせただけで、書評子としてのお役目は立派に果たせたということなのだろうか。