mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

不屈の教えは考えないことを促進する

2016-10-13 11:36:50 | 日記
 
 先日、廃道の山歩きをしたときに、同行者の一人がスマホをもって、それを見ながら登っているのに気づいた。
「なに? それ」
「地図ですよ。今日歩くところをダウンロードしてきたんです」
「地図ならプリントして持ってくればいいじゃない」
「いやいや、スマホにGPSがついているから、いまどこを歩いているか、ピンポイントで表示されるわけ」
「道に迷わないってわけ?」
「そうですね。まあ、むかしの道(廃道)が記されているわけではないから、迷うというよりは、今どこにいるかわかるってこと。普通の登山道なら、間違えるとすぐにわかりますよ」
「そう。まるでコーランみたいね」
「えっ、どういうこと」
「いや、これに従っていれば、道を間違えないってこと。自分で考える必要がないんでしょ?」
「はははは、そういえばそうですね」
 内藤正典『となりのイスラム—世界の3人に1人がイスラム教徒になる時代』(ミシマ社、2016年)を読むと、日常生活におけるムスリムの「六信五行」が具体的に記されていて、しかし人間だから、コーランの教えをときどき踏み外してしまうわけで、それをどう始末するかにも触れて、イスラムの信仰が、私たち人間の持っている欲望とどうかかわっているかを、紹介解説している。この著者は、日本人でありイスラム教徒ではない。トルコに長く在住する研究者であり、ヨーロッパに移民したトルコ人の研究をするうちに触れてきた、ムスリム(イスラム教信者)の感じ方、考え方を取り出して、そこからみたヨーロッパ文化との違和感を描き出す。
 その、内藤の描くムスリムの信仰は、人間の欲望を神の教えに従って克服しようとする、ユダヤ教やキリスト教と異なり、基本的に人間の欲望が「かんけい」の中で発生していることを肯定し、それをいかに(社会生活において)コントロールするかを規定している、と読める。つまり、コーランをの教えに従っていれば、自分では何も考えなくても、穏やかに平穏な暮らしを築くことができるということのようだ。つまり、人の運命は神によって定められているわけであるから、あれこれをどうしようこうしようと考えて、人生がどうにかなるわけでもないから、定められた運命を受け容れ、神の言葉に従って生きていけという「理屈」が前段に横たわっている。
 この考え方は、親鸞の到達した「達観」に近いのではないか。神に従って生きることに徹すれば、動物と同じように悩むこともなく平穏無事に生きていける、と人間観が前提にある。親鸞は「神に従って」ということばを使っていない。仏教に「神」は登場しないのだ。「仏」は「悟達した人」を意味する。だから、親鸞には、コーランのような「神の啓示」はないし、「戒律」もない。ただ、己と世界とを我が感性と思索においてとらえようとする意思が作動しているばかりなのだが、親鸞のことばで触れていない人間観や世界観は、「神」のない「悟り」の世界を志向している。その到達点が、現世的なありようとしては、同じ地平を見ているのではなかろうか。ただ、浄土真宗には「戒律」とか「厳しい罰」とか社会的制裁としての「掟」はない。
  「宗教」というと、厳しい戒律があるように思われるのは、たぶんに一神教の影響であろう。自然そのものと一体化して生きていこうと「感じて」来た人たちにとっては、「自然」に対する畏敬と自然の脅威に従うしかないという諦念とそれに対する生活の構えが必要とされる。誰がどこで、どう決めたということではなく、長い共同体の暮らしの中ではぐくまれ、培われて、変容してきた「規範/掟」が「規制」として働いて来ただけである。だが、この違いは、現代の暮らしにおいては大きな違いを生む。となりのムスリムとともに生きていこうとするときに、私たちが寛容であるのは、私たちの原理原則がないからともいえるが、逆に、「かんけい」に割れや彼の原理原則を持ち込んで「規定」することが無用の誤解と軋轢を生むだけであることを、社会関係から規範を醸し出してきた私たちは、身体でしているからだと思う。
 だが同時に、近代社会が生み出した「デファクト・スタンダード」というか、「(機器や社会のもつ)仕組み」が、人間工学的に(ストレスがなく、考えなくてもよく、ただただ身を委ねていれば)心地よいという方向に身が馴染んでしまうと、ほんとうに人間は、近代の概念である「人間」ではなくなり、動物になってしまう。私は別に「動物」を下等なものだと考えていっているわけではない。人間の特権的な特性である「感性を対象としてとらえ」「考える」ということまでが、すっかり変形してしまうのではないかと、思うのである。そう考えていると、コーランの、ムハンマドがアラビア語で聞きとった神の言葉を、時代が変わろうと変わるまいとそのまんまに継承して守っていこうというイスラムの宗教は、すごいなあと、賛否両方の感懐をこめて、改めて思う。

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