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「記紀神話」の成立と「日本」――天皇制と私(6)

2017-04-30 10:56:57 | 日記
 
 「記紀神話」の成立を考えていて、王権神授的な物語りが「正統性」をもつところに呪術的な飛躍があるように思えて、どうにもわからなかった。その疑問を解いたのが、新谷尚紀である。彼の著書『伊勢神宮と出雲大社』(講談社選書メチエ、2009年)は、古事記、日本書紀と中国史書とを丹念に照合して、「記紀神話」の成立に迫っている。
 
(1)「帝紀」「本辞」と呼ばれる記録書が、王統諸家の内に多種あり、それぞれの物語りが紡がれていた。それらを整理し、歴史書編纂をしようとのりだしたのは推古朝で。推古28年(620)、厩戸皇子と蘇我大臣馬子により「天皇記」「国記」「臣連伴造国造百八十部幷公民等之本記」が撰録された。ところが、それが消失してしまった(645年)。乙巳の変のクーデタ(蘇我入鹿の暗殺)の折に「大臣蘇我蝦夷が自邸でそれらを他の珍宝とともに焼いた」と『日本書紀』に記されている(という)。
 
(2)(そこで改めて壬申の乱後になるが)天武天皇は(諸々の)「帝紀」を撰録し「偽りを削り実を定める」こととし、稗田阿礼に勅語して「帝皇日継」と「先代旧辞」を誦習させた。それを後の711年に元明天皇が太安万侶に(稗田阿礼誦むところの)天武天皇の勅語の「旧辞」を撰録して献上するように命じた。太安万侶は翌712年に『古事記』参観を献上した。古事記の記述は推古朝までで終わっている。
 
(3)なぜ推古朝に撰録された「天皇記」「国記」「臣連伴造国造百八十部幷公民等之本記」は消失したか。「それが所蔵管理されていたのはほかならぬ蘇我大臣家であった」という。新谷は「これは蘇我氏の権勢を反映した歴史書で、現在読むことができる『古事記』『日本書紀』とは異なる内容であったと推定される」とみている。この新谷の「推定」が、これらの書が蘇我氏に所蔵管理されていた情勢をもうかがわせる。蘇我氏の力が推古天皇はもちろんのこと、厩戸皇子を凌ぐほどであったからであろう。
 
(4)ではなぜ、(同様に仏教を擁護し広めようとした)推古天皇・厩戸皇子と蘇我大臣(馬子・蝦夷・入鹿)は、烈しく対立したのか。『日本書紀』の推古30年(622)の記録が一年分、すっぽりと抜け落ちているという。しかも厩戸皇子の没年が推古29年(621)と一年早くされているのは、本当の没年622年に何かあったのではないかと新谷は推定しているが、それが何であったかは慎重に言明を避けている。これが「聖徳太子の謎」といわれ、様々な推測(暗殺されたのではないか)を生んでいる理由なのだ。この蘇我大臣家の厩戸皇子家に対する「敵視」はつづき、643年の厩戸皇子の血族23人が一挙に(蘇我入鹿によって)暗殺されることで(ひとまず)終結を迎える。
 
(5)しかし645年、乙巳の変と呼ばれるクーデタで蘇我入鹿が暗殺され、蘇我大臣一族が滅ぼされて、律令制度の整備が開始される「大化の改新」がはじまる。このクーデタに手を貸した勢力の一角に物部氏がいたことによって、厩戸皇子(聖徳太子)はじつは「神道派」であったなどという憶測も行われているのであろう。
 
 「天皇紀」「国記」という「歴史書」をまとめようとした動機が「遣隋使」を通じた「中国史書」に触発されたものだと考えるのは、不自然ではない。しかも推古朝の厩戸皇子は律令制度を導入することに力を入れ始めていたから、当時の権勢家であった蘇我大臣馬子(の権勢保持路線)と齟齬するところはあったであろう。と同時に、推古天皇の権威を保ちながら時局を運営するには蘇我氏とも手を携える必要があり、微妙なバランスの上に推古朝の皇子としての執政を担っていたと思われる。厩戸皇子の死後、彼を「聖徳太子」として祀り上げ神聖化するのに対して、蘇我氏が抱く懸念と、「尊皇派」として聖徳太子をかつぐ、蘇我反対勢力との「齟齬」が、聖徳太子係累の暗殺にいたったと推察するのは、なるほどと思われる。だからこそ、この「暗殺事件」をきっかけにして物部氏の力も借りた中大兄皇子らの乙巳の変がかたちを持ちはじめたともいえよう。
 
 厩戸皇子の律令制度の整備も、大化の改新も、その後の壬申の乱後の天武天皇と持統天皇の治世も、基本的に中央集権の天皇への集中であった。そこに、中国史書に倣って「天皇紀」や「国記」という「古事記」や「日本書紀」という支配の正統性の(背景)証をつくる必要があった。ことに、蘇我氏の力による権勢に対して、神による神託という物語りは、「聖徳太子」の物語りと並んで、天皇支配の正統性ばかりか(従来支配との)異質性として提示するに足る「物語り」であった。ただ単に、「神」を味方につけるというアニミズムからの必要(への配慮)でもなければ、フロイトのいう「心的外傷の二重性理論」でもない。自らの支配を「神託」とみて、侵すべからざるものと規定し、瑞穂の国としての治世を忘れぬよう自らに厳しく戒める「物語り」であったとみると、この時期の「伊勢神宮」の設置も、得心が行くことである。
 
 天照大神が瓊瓊杵尊に授けた「三つの願い」があったと4/20に記した。「宝鏡奉斎の神勅」「天壌無窮の神勅」「斎庭(ゆにわ)の瑞穂の神勅」が三大神勅。「宝鏡奉斎の神勅」は、わが魂と思に居よという。「天壌無窮の神勅」は天皇の系譜永遠なれ、という。「斎庭(ゆにわ)の瑞穂の神勅」は、自然の恵みに感謝しつつ暮らしなさいという。この天照大神の「三大神勅」は、支配者として後継する天皇とその重臣たちに向けた、決意表明であり、祈りであり、戒めであったと読み解ける。けっして、滅ぼされたものへの鎮魂であったり(いやそうであったとしても、それは鎮魂する者のためであって)、支配されるものへの配慮からなされたものではない。
 
 そのように受け止めると、「記紀神話」が私(たち日本人)の物語りになるためには、まだいくつものハードルを超えなければならないところがある。そこに踏み込むには、今日はちょっと時間がない。(つづく)

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