mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

桃の節句に黙然居(もだお)りて

2016-03-03 17:24:26 | 日記
 
 今日は桃の節句。いつも、どうして桃? と思うほど、桃よりも梅の方が身近に感じられてきました。だから、
 
 春来れば 宿にまず咲く梅の花 君が千年のかざしとぞみる
 
 という、紀貫之の「賀の歌」の方になじみがあります。「かざし」というのは「挿頭」、髪飾りのことでしょう。でも「桃には霊力がある」と古典研究者の筒井ゆみ子が記しています。
 
 《桃には超常の力があるとされて、中国ではすでに漢代に桃の木で作った人形(ひとがた)を新年の門口に吊して魔除にする風習が盛んでした。日本でも桃が霊力のある植物であることは『古事記』の時代にはすでに信じられていた通念です。日本の国造り神話の神であった伊弉諾尊(イザナギノミコト)は死んだ妻伊弉冉尊(イザナミノミコト)を諦めることができず、黄泉の国まで尋ねて行きます。しかしすでに死者の国の住人となっていた伊弉冉尊はかつての妻ではありませんでした。伊弉諾尊はあとを追ってくる魔物(=死の穢れ)に桃の実を投げて追走を妨げ、あやうくこの世に生還を果したと語られています。》(「みやと探す・作品に書きたい四季の言葉」第5回)
 
 要するに、「古くからの言い伝え」という以上のことは何も言っていないのですが、「中国の風習」が伝わってきたという「正統性」だとすると、やはり日本は昔から、到来ものに弱い性質(たち)なのかもしれませんね。
 
 *    *    *
 
 到来ものと言えば、高階秀爾が日本と西欧の絵画における表現方式について面白い指摘をしています(『日本人にとって美しさとは何か』筑摩書房、2015年)。「東と西の出会い」という章で、19世紀に「日本の美は発見された」として、クロード・モネやフランスの美術評論家エルネスト・シュスノーを引いて、
 
 「基本的三つの特質、すなわち、非対称性、様式性、多色性を備えていると指摘し、……構図の思いがけなさ、形態の巧妙さ、色彩の豊かさ、絵画的効果の独創性、そしてさらに、そのような成果を得るために用いられている絵画的手段の単純さの嘆賞」
 
 にあったとしています。いうまでもなく「それまでの西洋美術の主流にはなかった特質」として、ジャポニスムに転嫁されたとみているわけです。その上で、西洋の絵画技術が日本にどのように導入されたかをたどって対照させて、日欧の絵画手法の違いを二点取り出しています。① 切り捨ての美学とクローズアップ、② 絵を描く視点の置き方の違い、です。
 
 ①は、たとえば喜多川歌麿や写楽の浮世絵の人物画がそうです。背景は省略され、部分だけが誇大に取り出されています。それに対して「モナリザ」でもベラスケスの宮廷画「ラス・メニーナス」でも、絵の主題そのものに強くかかわらないにもかかわらず背景が丁寧に書き込まれています。あるいは酒井包一の「夏秋草図屏風」とコンスタブルの「ストラトフォードの水車」とを対比させて、酒井はモティーフ以外の要素をすべて省略しているのに対して、コンスタブルは自然に見いだされるすべての要素を書き込んでいる、と指摘しています。
 
 ②は、西洋絵画の幾何学的な透視図法を用いて、描いている画家(絵を観ている鑑賞者)の視点をしっかり据え置いて、画面構成が破綻なく処理されいます。ですが「日本の画家たちは幻影を用いて三次元の世界を再現することをまったく考えなかった……きわめて(西洋とは)異なった方法でそれを(現実世界の再現を)達成した」とみて、例えば岩佐又兵衛と伝えられる「洛中洛外図」をとりあげています。それが二次元の屏風の上に、鳥瞰的に眺めながら、しかし遠近法を採用していないけれども「それと同じくらい合理的なやり方で町を再現したのです」、と。狩野永徳の「洛中洛外図」でも同じことがいえます。
 
 この②の視点が面白いのは、西洋絵画においては「主体(の視点)」が明確に措定されています。それに対して日本の絵画のそれは、鳥になったかのように町並み(の構成・構図)を眺めながら、描きこまれる人物はすぐそばで見て描いたかのように(遠近の別もなく)子細に描きこまれているということです。この屏風絵を見ているものも、それとともに空中を浮遊して、グーグル・マップをドローンの映像で眺めるように鑑賞することができているというわけです。
 
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 ながながと紹介してきましたが、この両者の対照を読んだ時、一つの問題が氷解した、と思いました。
 
 日本と西洋の自然観の違いと、翻って、人や社会やに対する(つまり世界に対する)対し方の違いが浮き彫りになっているのです。絶対神の創造物として「自然」をみている西洋では、「自然」を克明に描きこんで、対象化しようとしています。それに対して、自らの存在も自然の一部と感じて、その内部に浸って適応してきた日本人は(自然の)好みの部分だけを取り出して、それ以外は視界に入れていないのです。
 
 氷解した問題というのは、J・ベアード・キャリコットの『地球の洞察――多文化時代の環境哲学』(みすず書房、2009年)が指摘したことです。彼は、「日本で環境倫理が隆盛をきわめている」と、日本の伝統的な思索の深さを(ふくめて)称賛しながら、「しかし日本は(彼の)期待を裏切っている」と断じていたのです。詳しくはこのブログの「2014/12/29   ま、ま、急ぐまい。頑張ってね」をお読みください。「裏切る」というのは、こういうことです。
  
 《しかし、精密な社会学的調査をみると、北米の人々に比べて、日本人には原生自然についての知識や関心がはるかに乏しいことが分かる。》
 
 たしかにベアード・キャリコットが指摘するようなことを(明治以前の日本をみると)「事実」と私は感じています。でも、それがどうして「原生自然についての知識や関心がはるかに乏しい」のか、説明できなかったのです。今回、高階秀爾の指摘を読んで、「(自然を)対象化する」ことが、まったく違うからだと思い当たったのです。
 
 つまり西洋では、神に対抗して人の眼で「自然」を対象化しています。絶対神が創造した「自然」を、絶対神の創造した「我ら人間」が見つめようとするわけです。どうして恣意的に(我が好みのままに)みることが出来ましょう。まず実在の人間がもつ限定を、外すわけにはいきません。どこからみているか、どう見えるか、遠近を自在に行き来して対象を見つめることができるのは、神だけです。人間たるものは自らの立ち位置を見定め、その地点から「すべての自然」をとらえようとすることが、誠実な態度です。モナリザは16世紀の初め、ベラスケスにしてもフェルメールにしても17世紀の人です。すでにルネサンスを経て、「人間の視点」が登場しています。
 
 それに対して日本人は、絶対神を知らず、自らの存在も自然そのままです。「自然のすべて」を対象として見つめるということは、ありませんでした。すべてに神が宿る。八百万の神ですから、自分たちは自然と共生してはいるものの、(自らを含む)自然を対象として見つめ、その成り立ちを解き明かし、それを作り変えて管理支配するという観念は、毛ほども思いつかなかったと思われます。せいぜい都合のよいところを使わせてもらって、不都合なことは耐えてやり過ごすという態度でした。神々の子孫としての天皇の正統性を疑うということすらなかったわけですから、推して知るべし。そこにさらに、「切り捨ての美学とクローズアップ」という美学的なバイアスがかかってくるのですから、好みの部分を象徴的に取り上げます。外の部分は、文字通り、眼中にない。「日本人には原生自然についての知識や関心がはるかに乏しい」と指摘されるような文化的な伝承が、我知らずなされてきたのでしょう。
 
 こう考えてみると、オランダから入ってくる西洋の自然観(自然に対する態度)に刺激を受けて、「解体新書」であれ、文物や絵画、万般に対して深い興味を触発されて、とりいれようとした「開明的な態度」がわかりますね。西洋は逆に「ジャポニスム」として、日本の特質を取り入れることになったのでしょうが、日本は、それこそ「好みのままに」を貫いて、いいとこどりをするというか、和魂洋才というか、日本流の我田引水でいろいろなものを吸収してこなしてきました。中には、一知半解のモノもあったでしょうが、それはそれなりに日本の風土に適合する合理性を持っていたといえます。
 
 *    *    *
 
 しかしこの「氷解」は、ちょっとした衝撃を私にもたらしています。私自身は西洋的な「理知的・論理的」なことばを学びながら、じつはずいぶん「身の作法」の「自然」に任せて、突き詰めることを忌避してきたと思っています。いや全体を総攬して、まとめあげるのが面倒くさいという、生来の怠け心が作用してはいるのですが、他方で、分節に分節を重ねて解析して、さらにそれを総合して一つの見解にするという思索作業に、どこかウソ臭さがあると、身中の何かがいつも反応してしまうのです。「普遍」ということについても、果たして「私」が「普遍」を語るのはおかしくないか、とあくまでも透視図法の立ち位置にこだわりながら思ってしまうのです。衝撃というのは、引き裂かれる私、です。
 
 黙然(もだ)居(を)りて賢(さか)しらするは酒(さけ)飲(の)みて酔泣(ゑひな)きするになほ如(しか)ずけり
 
 万葉集の大伴旅人さんではありませんが、そんな気もして仕方がありません。歳のせいでしょうか。

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