mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ま、ま、急ぐまい。頑張ってね

2014-12-30 17:19:52 | 日記

 12/27のJ・ベアード・キャリコット『地球の洞察――多文化時代の環境哲学』(みすず書房、2009年)について、もう少し踏み込んでおこう。クジラを食べる日本史について浅い判断をしているという瑕疵だけで、彼の展開している所論を葬るには、重要な指摘があるからである。まず彼は、次のように問題提起をする。

 

 《日本では環境倫理が隆盛をきわめているのではないか、またエコロジーにおける自国及び地球全体に対する責務を果たす聖戦において、世界の先頭に立っているのではないか。ところが、あろうことか、事実はそうではないのである。》

 

 「日本で環境倫理が隆盛をきわめている」と見込んだのは、以下のような事実に目を留めているからである。

 

 《確かに日本の耕地は依然として森に覆われている。また、小規模で労働集約的な日本の農業は、環境に対する負荷が少ない。また、これは海外の農産物と競争すれば破壊されることが必至であるため、合衆国政府の驚愕をよそに、日本政府は多大な熱意を傾けてこうした農業を保護している。さらに、日本はその景観のかなりの部分を国立公園や国定公園などの保護区にしている。その結果、日本の農村部の美しさは保たれており、地方でも人口が稠密なわりには、生態学的に見てかなり健康な状態が維持されている。》

 

 ではどうして、日本は彼の期待を裏切るのか。


  
 《しかし、精密な社会学的調査をみると、北米の人々に比べて、日本人には原生自然についての知識や関心がはるかに乏しいことが分かる。》

 

 と指摘して、日本の材木会社が東南アジアの熱帯雨林を破壊している、日本の流し網漁は世界中の大洋を荒らしまわっている、さらにクジラを食べることを、一世紀に満たない浅い歴史であるのに伝統的な食文化のように誤解している、とつづく。前回私がかみついたのは、この最後のクジラの部分だけである。

 

(1) 西洋の技術を取り入れて、自分たちに固有の知の文化を速やかに忘れてしまった。(グラパード)
(2) 日本の伝統的な芸術、宗教、哲学で尊ばれている「自然」は、人間によって栽培されたスケールの小さなものであり、抽象的な様式化されたもの。「森林地を復元してきた人々の関心は、きわめて(実際的)なもの……、人間の物質的な必要を満たしてくれることだった」。(トットマン)
(3) 日本文化は自国の自然環境に細やかに配慮してきた。しかし、それは環境全般に対するものではなかった。配慮の対象となったのは、選ばれた場所(名所など)、……ある種の植物、……一年の中の決まった瞬間、……といったものであり、そうしたものがすべて一定の習いにしたがって組み合わされ、その限りで配慮されていた。(オギュスタン・ベルク)
(4) 日本人の自然と野生生物への賞賛は、……一定の生物種や、美的に重要な自然界の個々の対象に焦点を合わせたものであって、一般的に言って、情緒的、生態学的、思想的に狭い視野から行われていた。(ケラート)

 

 と、「謎」を解こうとしている。これらを読むと、上記の(1)から(4)とそれを読み取っているキャリコットの諸氏が「日本の美」を示す「芸術や宗教や哲学」に対して、強い思い込みをもっていることが分かる。造園や自然や野生生物に対する細やかな配慮は、断片的であり、限定的なものであり、(生活上の)実際性が優先されるものに過ぎなかったというが、そんなことは当たり前であり、読み取る側が勝手に「自然と一体になった日本人の暮らし」から思い入れをしている証左である。

 

 日本人の「自然観」は「謎」などではなく、「自然」にどっぷりと浸り、それに適応して過ごしているものの「じねん」である。むしろ西洋の人々の、「自然」を「環境」ととらえること自体が、日本に暮らすものにとっては、不思議に思える。つまり「自然」を「環境」というとき、自分たち人間存在は「自然」と別物としてみている。それは、絶対神が世界を創造したという物語、しかも「自然」を人間が差配してよいとする物語りから紡がれた観念であろう。「謎」を解くのなら、絶対神の世界創造の物語りがなぜ生まれたかを解き明かす方が第一であろうと思う。単に、工業化社会が全盛になってそれが地球を席巻している今の時点だからこそ、みずからの起こした破壊の巨大さに驚き、環境倫理を探究して、日本人の「原生自然に対する知識や関心の乏しさ」をあげつらっているのだと、みてとる必要がある。もちろん私は、日本人の知識が豊富であったと擁護しようとしているのではない。日本人の対応は「謎」ではないと言っているのである。

 

 キャリコットは、人間主義とか人間中心主義に対置して生態学的人間主義という概念を提起している。つまり、西洋が生み出した近代の工業社会に生態系を組み込んで持続可能な社会をイメージしようとする。ディープ・エコロジーとかソシアル・エコロジーと呼んでいるらしいが、そもそも、人間の自然支配を前提にした「近代工業社会」が、人間を自然の内在的存在とみる日本の人たちにつきつけたものこそ、「逸脱」だったのである。だから、工業社会の発展に応じて自然破壊が進み、それに驚いた時点から、日本では生態学的方向と近代工業化の発展の方向とが確執を醸してきた。いまのアベノミクスにしても、旧来型の景気回復路線であることを考えると、「禅」の質素、倹約という自然観を組み込んだ生活の見直し路線へ転轍するのは、むつかしい。しかもそれは、哲学的課題であると考えてみても、「日本人の課題」であるとは思えない。豊かな暮らしを希望するすべての人々にとって「喫緊の課題」なのだ。ことに先進国の人々は、途上国の人々の暮らしが向上していく過程について、「質素、倹約」をすすめるのであれば、まず隗より始めよ、だ。

 

 西洋の環境保護の動きと日本のそれとが、どれほどの違いがあり、その違いがどういう意味を持っているかを論じる素材を私はまったくもっていないが、異常趣味的に「禅」のすすめをとりあげないで、人間の欲望が限界に突き当たって「自然淘汰」されていくことを待つしかないのかと、類的存在としての私は、推測している。環境哲学が喫緊の課題として「人間の抑制」を説くのだとすれば、「政治」「国際関係」に踏みこななければなるまいと思うのだが、残念ながら、キャリコットはそれに応える視点を示してはいない。ま、ま、急ぐまい。頑張ってねと、応援の声を送って、次世代の方々に期待しようと思っている。


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