mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

身に刻んだ来歴を互いに脱ぎ捨てる作法

2023-02-14 07:29:02 | 日記
 さて、ここからが本題。昨日の「池田暮らしの七か条」につづけます。
 この七か条は、先に触れたBBC東京特派員のヘイズさんが取り上げた房総半島の集落のケースとそっくりである。高齢者ばかりでほぼ消滅すると思われる地域の人々が、しかし、ガイジンが移住してくることに抵抗を示す。ヘイズさんが「日本人の不思議」と思うのもうなずける。
 実際、福井県池田町の人口は2500人ほど。そこへ毎年20人ほどの「移住者」がいるというから、さすが「日本一住みたい県」だけのことはある。とは言え、ここ何十年かの人口は減っているから、社会移動で入ってくる人の数よりは、亡くなる人や町から出ていく人の人の数の方が多いと思われる。でも、「都会風を吹かさないで」というのは、池田の暮らしには池田の暮らしの由来があるから、それを尊重してねと訴えている声と私は受け止めた。
 この「七か条」をまとめたのは池田町の33区長の意見を集約したそうだ。人口2500人が33区に分かれていると考えると、一つの区がおおよそ80人足らず。これは、意見集約の単位としては絶好の規模だと私は考える。議論なんてものではなく、寄り合いで言葉を交わす。それで、誰それはどう考えている、誰某はどんな問題を抱えているから反対しているとわかる。それが「プライバシーが無いと感じるお節介」と「七か条」は表現している。だが都会地のように、昼間は外へ働きに行き夜だけ帰宅するという暮らしではないから、日中の外出や畑仕事のたびに顔を合わせる。となると、挨拶もすれば言葉も交わす。体調や家族の近況や動向が話題になっても、まあ、当然と言えば当然である。とりあげているメディアはほとんどこれを「押しつけ」と受け止めているようだが、果たして一概にそう言えるかどうか、私には判断が付きかねる。プライバシーも人の付き合う作法も、集団の大きさや付き合う頻度などによって大きく変わる。一口に言って仕舞うわけにはいかない。
 池田の暮らしの由来を尊重してほしいと(いう願いと)私が考えるのは、ワタシが池田町のことを知らないからだ。はじめ越前の池田町と聞いたとき、私が思い浮かべたのは室町・戦国時代の一向一揆のことであった。門前の小僧としてその時代の門内を覗いた記憶では、約百年に亘って一向宗が「くに」を統治したと思っている。さらに一向宗と言えば、一切衆生悉皆平等のセカイと受けとめているから、人々が身に刻んで無意識に沈んでいる感性は、きっとすごいんだろうと好感を持ってもいる。この人たちの外来者への呼びかけに耳を傾けるのは、ま、至極当然なことじゃないだろうか。
 ヘイズさんは「日本人の不思議」と言うが、たとえばスペインのバスク地方の人が「独立」を叫ぶのは不思議だろうか。イギリスの北アイルランドの人たちがイングランドの人たちに警戒感を抱くのは不思議だろうか。つまり、土地そのもののもつ気風があり、そこへ入っていくものがもっていてほしい儀礼・作法がある。それは不思議でも何でもない。土地には土地の気風がある。それを全部承知で入ってこいと言うのは、乱暴だ。せめてその気風を知らないということに気づいておいてねと期待したい。そこへの参入者はそれなりの敬意を払って入ってきてくださいというのが「七か条」だと、まず思った。
 逆も言える。限界集落に近づいていることを考えれば、池田町の人たちも古来の気風にしがみついているばかりではいられない。当然自分たちも変わらなければならない。まして都会もんはもっと広い世界の動向にも身を浸して(善し悪しは別として)新しい気風を持ち込んでくる。つまり、不思議な存在である。そう考えれば、新規参入者の作法や振る舞いも、それなりの「由来」を持つものとして敬意をもって受け止めなければなるまい。その気配がないから「七か条」は「上から目線だ」「押しつけだ」と非難を浴びるのである。
 何だ、互いに出会う人の由緒由来があることを(わが身の知らないこととして)認め尊重せよってことか、と思うであろう。そうなのだが、もうひとつ、土地のもつ気風はそう簡単に両者をフラットな立場に立たせてはくれない。やはり、土地に染み付いた気遣いやお節介、好奇心や詮索がある。それはヒトのクセとして無意識に染み付いていることが多いから、ややこしくなる。メンドクサクなるのは歳のせいもあって、高齢化社会では当たり前のこと。でも、そのカベを乗り越えなければやっていけないのが、人の社会である。
 まさしく「七か条」が第5条に記すように《共同体の中に初顔の方が入ってくれば不安に感じるものがあり「どんな人か、何をする人か、なぜ池田に」と品定めすることは自然》である。それと同じ感覚を別の地点から新規参入者が持っていることを受け容れ側も心得て向き合わねばならない。
 先述した村山由佳の小説『雪のなまえ』に地元と新規移住者との確執が描かれていたように、今回の池田町のようにいきなり全国区で「論題」にされるよりも、一つひとつのケースについて,なぜこうであり、どうしてそうでしかなかったのかと考えていくことが、何よりも重要である。全国区で取り上げると、子細な部分が捨象されて後景に置かれ、大きな枠組みだけが論議の対象になる。そういうやり方をすると、土地の育ててきた気風とか参入者のもってきた気風が省略されて、機能的な人と人の関係だけが論議の俎上に上がる。そうなると、人の佇まいはそっちのけになって,言うならば行政的な施策だけが残るというお粗末なこと。行政の下請けのような、今の町内会と同じにになってしまう。残念なことだ。


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