mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ヒトが着ているもの

2023-06-05 12:00:00 | 日記
 昨日の「類は友を呼ぶ」の冒頭で「トランプ米大統領の登場以来、建前が化けの皮を剥がされてタテマエとなり、本音を剥き出しにしてなんの恥ずかしさも感じない言説が横行するようになった」と記した。なぜ「本音をむき出しに」することを「恥ずかしい」と思うのであろうか。
 ヒトの文化というのは生来的有り様から離脱するように発展してきたとよく言われる。生来的有り様というのは動物としての本能に突き動かされて振る舞うことと私は受け止めている。つまりこの出立点で、ヒトは自己矛盾を抱えてスタートした。動物としての本能が(チンパンジーとDNAを比べても)99%を占めているのに、それから離脱することをヒト独特の営みとしてつくるというのは、なんとも自然存在に反するモメントである。この点においてはやヒトは、絶対矛盾的自己同一と哲学者に言わしめた存在であると言える。
 どなたであったか心理学者が人の振る舞いのモチベーションを段階づけた所論があった。「生理的欲求」「安全欲求」「社会的欲求」「承認欲求」「自己実現欲求」だったと記憶している。この最初の方からあとの方へ向けて欲求の水準が高次になるという意味合いも込められていたと思う。ヒトは集団的に生活を築いてきたから、その相互関係が確執を醸し無用の衝突を避け安定的に集団を保っていく色々な方途を、生み出してきたのであろう。その集積の結果が「秩序/序列/身分/階級」であり、振る舞い方の作法であった。そうした作法(文化)の衣装を着ていることが「社会的/承認」も得て、「自己実現」という内発的な欲求へと高まっていったのであろう。
 ならばむしろ、本音がむき出しにするのは衣装も身にまとわず人前に出るような事となり「恥ずかしい」ことであるはずである。にもかかわらず、ではどうしてトランプは、ああも公然とこれまでの建前を掘り崩し、恥じるどころかアメリカの大衆を惹きつけ、傍若無人に振る舞うのであろうか。
 そうか、彼にとっては、あれが「自己実現欲求」の発露なのだ。簡略に言えば、こういうことになろうか。建前をかなぐり捨てて本音の欲求を剥き出しにしていると受け取っているのはワタシであって、トランプは彼の言動が受け入れられてこそ「承認欲求」も「自己実現欲求」も充足されると思っている。それを「恥ずかしい」と思うのはワタシだ。
 大きな価値転倒が行われているのだ。あの#ミー・ファーストの主張は、17世紀初頭以来、纏い紡いできた近代の政治システムも含めて「卓袱台返し」しているような趣がある。逆に言うと、ワタシの衣装は卓袱台の上に乗ってはきたがもう通用しないと、トランプに言われているのかもしれない。いやそれだけではない。もともと卓袱台の上に乗ってきた衣装は、日本列島に暮らしてきた私の身に刻んで無意識に沈んでいることとも違うという感触を(どこかで)感じていましたから、あらためてワタシは何を根拠にこれまでこんな衣装を着てきたのだろうと考えている。
 近代政治思想に関連付けて言えば、せめてホッブズの言っていた自然状態にもどって、もう一度考え直せと言っているようだ。そうだね、振り出しに戻る。そこから日本列島に暮らしてきた私たちが衣装をどう繕い着てきたか。なにをもって「恥ずかしい」と感じてきたか。いやいや、自分で着たんじゃなくて、皆おまかせ、つまり文字通りのお仕着せで、平気でやってきた。それで良かったのかどうか。そこからの違いが、トランプとトランプを支持する人々の原動力にはあるんじゃないか。それは今、とてもワタシの感性には受け入れがたいのだけれども。
 何が受け入れがたいか。
(1)自分のことばかり主張し、ひとの話に耳を貸さない。
(2)自己正当化に終始し、異論に対してフェイクだと簡単に片付けてしまう。
(3)自分の感性や判断を疑わない。世界が全部個体でできているかのように考えている。
(4)優勝劣敗が関係の原動力であり、駆け引きが関係だと思っている。
(5)すべての人は利用の対象であり、利用できないひとは全て敵であると考えている。
 こうして並べてみると、この逆のパターンがワタシの文化に近づいてくる。それを言葉にすると、欧米と列島との気質の違いまで浮き彫りになる。
(あ)自分に自身がなく、決断力がない。
(い)周囲の意見に左右され、優柔不断である。
(う)確固たる戦略的見通しを立てることができず、情況適応的に振る舞う。
(え)まず一歩下がって様子をうかがい、一番煩わしくない居心地の良さを選択する。
(お)恣意的な振る舞いは嫌いだが、成り行きでそうなるのは好ましい。

 こうやって対照させてみると、トランプのお好みというより欧米的な価値意識の商取引的側面の凝縮されたものがトランプに表現されているように見える。つまり、トランプは、資本家社会的市場経済が作り出した極端モデル的「人間像」だ。対するワタシは時代遅れ、アナログ世代の「ニホンジン」だなあと、わがことながら思う。そしてさらに、このワタシの方が身の丈にあって好ましいとさえ思う。たとえ欧米人に非難されようとも、あるいは日本の知識人に茹でガエルと嗤われようとも、こちらのほうが人の関係をつくるに、「まだまし」と感じられる。このワタシの感性を正当化せんがために、まだ今少し、テツガクテキにモノゴトを考えてみようと思った。

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