mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

****** 第9回 aAg Seminarの報告(2)

2014-07-29 06:56:05 | 日記

★ 生活習慣か遺伝的体質なのか

 

 「歯周病をマウスに発症させるって、どうやるの?」「歯周病菌をネズミの歯茎に塗るんじゃない?」とか「糖尿病って、刑務所の麦飯を食べていると治るんだって」と挟まる合いの手が、さらに言葉を呼んで、なかなか騒がしい。

 

 「刑務所で100人くらいの人を調査をしたところ、何年か入所すると糖尿病患者の8割は治った」とMyくん。「なにも刑務所に入らなくても、家で麦ごはんを食べられるよね」と誰かが混ぜ返す。

 

 「それは麦ごはんだけじゃなくて、生活が管理されて、すべてが習慣的にきちんとしてきたこともあるんじゃないか」とSさんが付け加える。「脳が糖尿病になってるって言ってたよ」とどなたかがNHK情報。

 

 つまり、食べ物を含めた「生活習慣」が糖尿病などの遠因を構成するということなのだが、それがどのようなメカニズムで認知症に結びつくのかは、わからない。そもそもアルツハイマー型認知症が遺伝的体質によるのかどうかも、わからない。

 

 生活習慣だとすると、自己責任ということになる。私たちの年になると、いまさら「生活習慣」だと言われても、過ぎ去った年月を取り返せるはずもない。どこをどうすればよかったとさえ考えない。つまり、後悔はしない。もう悔しいという思いも起こらない。私たちの時代は終わっているという観念が先に立つのだと思う。それは、我が身の過ぎ来し方を振り返って、(すべて)自らの招いたことだと「得心」することである。

 

 では、遺伝的体質だと聞かされると、どうだろうか。そういう体質に生まれついた不運を嘆くことはあっても、自分のせいではなかったのだとホッとする、だろうか。ホッとするということはないにしても、自己責任という思いは起こらない。まず、生き方に覚悟をしなければならない。そこを起点として人生を考えるというわけである。

 

 これは「諦め」ではない。見切りなのだ。運不運ということも含めて、私たちは幾多の物事を見切って生きてきた。いまこの、家族や地域や友人や社会的な関係におかれた我が身のありようを見て取ることから、私たちの「自我」は出立する。この年になると、生活習慣すらも、すでに形成された「かんけい」なのだと見切るほかない。そうすることによって、すべてを受け入れてカンネンすることができる。

 

★ 医療体制と医療の倫理

 

 「インスリンの点鼻療法が使えるんだね」と声が上がる。「うん、日本は難しいんだよね。そう簡単には認められない。エヴィデンスがきちんとしないと」とSさん。「どうして?」と疑問が投げかけられる。厚生労働省がストップをかけるのは、何を護っているからなのか。保険適用か否かという「医療費モンダイ」だけでなさそうだ。

 

 医師が社会的非難を恐れて慎重であるともいう。もし何か事故があったら「責任」問題が起こることへの防御かもしれない。でも、行政の責任当局がそうした「後ろ向き」の姿勢であるというのと、喫緊の治療法として少々のリスクを冒してもその薬を所望する患者との齟齬が、こんなかたちで現れている。その行政や専門家に向けた社会の(私たちの)視線は、アメリカなど(すでにインスリンが使われている社会)の視線とどこか違うような気がする。そこも、機会をみて子細に調べてみると面白いかもしれない。そのうえで、「医薬品の安全審査」にかける手間暇についても、アメリカなどとの比較をする必要があると思われた。

 

 では、東京女子医大が子どもへの使用が禁止されている(全身麻酔の導入と維持に使われる)プロポフォールを大量に投与した事件、と話題が横っ飛びに飛ぶ。なぜ「禁忌」を無視したのか。いろんな科の寄せ集めであるICUだから、その系統の態勢ができていなかったのではないか。女子医大のチームの責任体制がいい加減だったんじゃないか、と医療関係を仕事にしている人から指摘がある。

 

 (禁忌を無視した)にもかかわらず東京女子医大は、死亡した事例12件のうちの1件だけにプロポフォール投与が原因と認めたが、他の事例は認めなかったというのはなぜか、と話しは拡散する。ICUの薬剤師がなんどかプロポフォール使用の危険を指摘したのに止められなかったのは、なぜか。大学内部の勢力争いが反映しているのではないか、そういえば、この件は内部告発されて公になったと揣摩臆測が飛び交う。こうしたことも、一つ一つ取り上げて考えてみると、とても重要なことがらである。

 

 私たちは、そうしたことの子細にまで踏み込まず、したがって、そのひとつひとつがどうなっているかを確かめることもしないで、我が身の裡で了解できる「出来事」に還元して、「東京女子医大は危ない」と承知する。その了解は、まるごとである。それは「偏見をつくる」ことになるのか、我が身の安全を守ることにつながるのか。女子医大のことだけでなく、あらゆることについて私たちは、そうした「情報処理」をして暮らしを立ててきている。

 

 これを医療関係者の現場において考えるとどうなるか。実際の医療においては、機能的な指揮系統だけでなく、関係者がチームとして動いている有機性が大切だと、強調されている。むろん医療に携わる治療者側だけでなく、患者(家族)の側も含めた、まるごとの「倫理性」を視野に含める必要がある。ここでいう「倫理性」とは、人として「病を治す」ことに向き合う共通の規範性を意味する。あまたの領域に機能分化した治療者と患者の「関係としてのチーム」総体のかかわりが、単に機能的な治療だけでない「医療の倫理性」を保たせるのかもしれない。

 

★ 脳の研究が人間の不思議を際立たせる

 

 おや、いつの間にか「脳科学」の話が、医療倫理の話になっている。まあ、これも的外れとは言えないかもしれない。「科学」的に、MRIなどを通じて信号的に脳の働きをとらえたとしても、それが「人間」を解き明かすようになるには、どうしても「倫理」性に触れなければならない。それが「信号的に」科学/化学的数値として表現されるようになるとは、まだ思えない。

 

 いやそれよりも、人間の思惟が動作を起こす源にあると考えられてきたが、どうもそうではないという「脳科学」の報告がある。火に手をかざして「熱い」とひっこめるとき、「熱い」と認識するよりも先に、手をひっこめる脳の局所が反応を示し、「熱い」という認知をする局所は、それよりゼロコンマ何秒か遅れて反応している、という話が飛び出す。つまり意識より先に動作反応が生起しているのである。Htさんはそれを、「身体の防御反応」だという。脳からの指令で動作が起こるのではなく、身体の各部署が防御反応の判断と動作を行う装置を備えていると説明する。

 

 これは「スタップ細胞はあります」というのに似ている。iPSという特定の細胞が万能細胞になることができるのではなく、すべての細胞が万能細胞になる可能性をもっているというのと、同じ感触である。考えてみれば、小さな細胞という単位一つ一つが遺伝子をまったきかたちで備えている。「理屈」というよりも直感からすれば、すべての細胞が直感的に防御反応をする力を備えていても不思議はない。

 

 むしろ、脳がすべてを統括するという「理屈」を私たちは学習してかたくなに思い込んでいるともいえる。脳の研究は、身体全体の不思議をいっそう際立たせる。最終的には人間そのものの不思議に行きつくといえるのかもしれない。面白い。(つづく)


コメントを投稿